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■チェシャ猫・下

青い空に白い雲。けれど、風は以前いたときより少し涼しい。
でもヒマワリの花は元気が無くなり、しおれているものもある。
ここにも夏の終わりの寂しさだ。
「ナノ、こっちこっち!」
で、情緒など理解しないボリスは私をプールに連れて行った……。

「にゃはははっ!待て待て。馬鹿ネズミ!」
「やめてよ、ボリス〜!」
……私の目の前にはプール。多少人が減ったプールで猫とネズミは元気だった。
「ナノ!ナノも一緒に泳ごうよ!!」
水着姿になってプールサイドに座る私に、ボリスが上機嫌に声をかけてくる。
「ちょっと待ってください。私は悩むのに忙しいんです」
もう少し考えたいのだ。
自分に紅茶や珈琲を作る意欲がなくなった。
意欲が失せただけならまだしも、腕まで一般レベルに落ちたのならさらに大問題だ。
転職も含め、いろいろ検討しなきゃいけない。
「そんなに悩んでるの?」
プールサイドまで泳いできたボリスは体育座りをした私に言う。
私は真剣な顔で首肯する。
「ええ。現実逃避に始めたソリティアに熱中して、完徹するくらい悩んでます」
「……暗いよ、ナノ。ていうかそれ、結局悩んでないじゃん」
猫には分かるまい。あのシンプルな面白さは魔物に等しいのだ。
「ええ、ですから私は……え?」
何か濡れた感触を抱いて腕を見ると、ボリスが手首をつかんでいる。
そしてチェシャ猫の笑い。
「うわぁぁっ!!」
盛大に水しぶきをあげて、プールの中に引きずりこまれた私だった。

…………。
数時間帯後。遊園地は夜に突入していた。
「あー、扇風機が涼しい」
うちわ片手に、ボリスのソファの上で涼む。
久しぶりのボリスの部屋だ。
テーブルの上に届けられていたドリルが一冊。
ユリウスはちゃんと、さんすうドリルを届けてくれていた。
――でも、何で一冊だけなんでしょうね。
ユリウスがくれた本は、他にももっとたくさんあった。
でもボリスは、この一冊しか来なかったというし、彼が勝手に捨てるはずがない。
いったいユリウスは他のドリルや本をどこに送ったんだろう。
「うーん、ちょっと解いておきますかね」
ドリルに手を伸ばそうとすると、ボリスが先に抱きついてきた。
「プール楽しかったね、ナノ!」「そうですね」
悔しいことにプールは最高に楽しかった。
三人で鬼ごっこをしてさんざん遊び、最後にはゴーランドさんやお客さんも加わり、
みんなで水中ドッジボール大会を始めた。腹筋がおかしくなるくらい笑った。
疲労感が心地良い。チリンと鳴る風鈴も、風流で実によろしい。
「いい音でしょ?ナノが喜ぶと思って買ってきたんだ」
ソファに横になる私に、でかい猫がのしかかる。
「俺が選んだナノの水着、すっごく可愛かったよ……そそられた」
「また……」
ボリスは首筋にゴロゴロと顔を押しつける。そして妖しい声で、
「ね、今夜は泊まっていきなよ」
返事も聞かず、早くも手を腰のあたりに触れさせる。
「ちょっと、ボリス!」
身体をくすぐるしなやかな尻尾に、少し妙な気分になってきた。
でも誘惑に乗るナノさんではない。
プールで気は紛れたけど、悩みの根本は変わらない。
まだまだ絶賛悩み中なのだ。
「そういう気分じゃないんですよ」
素っ気なく言って、背を向ける。
「えー、部屋まで来ておいてそれはないよ、ナノ。
ね、何を悩んでるの。俺に教えてよ」
私を気づかって……というより×××目当てで、少年は苛々と聞いてくる。

「何て言うか、紅茶や珈琲の腕が落ちちゃって、直らないかもしれないんです」
「ふーん。でも大丈夫、大丈夫。俺は味なんて全然分からないよ。それに多少、味が
落ちても、あんたの淹れるものなら美味しいって!」
と言いながら、身体に手をのばしてくる。それをはらいのけながら、
「淹れる気力まで無くなってる感じで、店を続けるのも自信がなくて」
あんな高価なワゴンまで買ってくれたゴーランドさんに申しわけない。
「気力なんてそのうち戻ってくるよ。店だって、無理に続けなくてもいい。
あんたが本気でそう決めたなら、おっさんは絶対に怒らない。ワゴンだって勝手に
再利用なり転売なりして確実に元は取るよ。あれでも経営者なんだぜ?」
押し倒され、首を舐められながら言う。
相変わらず人の悩みを一蹴する猫さんだ。
「でも、ずっとずっと、店をやりたい、みんなのための美味しい物を淹れる店を
……って頑張ってきたのに。じゃあ何のために頑張ってきたのかなって」
すると、ボリスは私の服の中に手を這わせ、物憂げに言った。
「俺たちは役がないと生きていけないから、仕事をしなくていいナノの悩みは
ちょっとよく分からないなあ……」
――うーん、やっぱりそうですよね。
でも左利きの天才少年が活躍する野球漫画で、続編で実は右利きでしたと判明したら
詐欺だと思う人が大半じゃなかろうか。
今なら児童虐待と訴えられそうな、養成ギブスの苦労は何だったんだろう。
――いやいや。なんか主旨から外れてきてるような。
それにンな濃い漫画より、発足したての10人しかいない無名の野球部で女性監督と
一緒に頑張る、爽やか野球少年漫画の方が、個人的には……。
「でも俺だったら、むしろ嬉しいかな」
「――はっ!」
慌てて顔を上げると、ボリスが間近で私を見ていた。
宝石のような琥珀の瞳は、吸い込まれそうなほどに美しい。
「へ?え?」
「だって、自分を縛るものが一つ消えたんだよ。それって、いいことじゃない?
鎖を断ち切って、自分を閉じ込める檻から解放されたんだよ」
何にも縛られない猫さんは自らに首輪と鎖をつけて、笑っている。
「解放ねえ……」
「だからさ。ナノももう少し自分をいろいろ解放してみたら?」
そして今度は抵抗を許さない力をこめ、私にのしかかってくる。
……て、これ以上解放するものがあるか。

チェシャ猫の手が身体を這い回るのを止める気力も無く。
身体はゆっくりと熱を上げていく。
――ボリスはずっとボリスですよね。
チェシャ猫は寄る辺なくとも迷わない。縛られない。
季節が終わっても、私が遊園地を出て、私と別れても。
永遠に居場所を持たず、それはこれからも変わらない。
悲しいことでもある気がするのにボリスは気楽だ。
でも、とても私を安心させてくれる。

「ナノ、大好き。楽しかったよ。また遊びに来てね、俺の部屋に……」
別れの言葉にキスを交え、抱きしめてくる。
「ありがとう、ボリス」
せめてものお礼に、彼を強く抱きしめ、キスを返した。

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