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■帽子屋屋敷・2

秋の光射す帽子屋屋敷は、快い空気が流れている。
だけどブラッドには最悪の陽気だろう。
「ナノ。ほら、もうすぐだぜ」
エリオットはずるずると私を引きずって屋敷内を歩いて行く。
ついに、ひときわ大きな扉の前に立った。
そして腹心殿はごく気楽に中に声をかけてくれる。
「ブラッド、ナノを連れて来……」
エリオットが言い終わるより先に、扉の中から低い声がした。
「当分誰も入れるな。何かあってもおまえたちだけで対処しろ」
「了解!」
そしてエリオットは扉を開け、私を中に引き入れる。
「…………」
怖い。部屋の主が見られない。
私は完全に立ちすくみ、せめてもの救いを求めてエリオットを見上げるが、
「じゃあ、頑張れよ。ナノ」
何を?と確認する前に扉が閉まった。
「…………」
そーっとそーっと扉に手をかける。ガチャガチャといじってみる。
開かない。
「………………」
「来い、ナノ」
「……はい……」
私は肩を落とし、とぼとぼとブラッド=デュプレの座るソファへ。
ボスは帽子と上着を脱いで、くつろいだ格好でいらっしゃる。
「横へ」
「はい……」
少し距離を開け、ブラッドの横に座ると、ジロリと睨まれた。
仕方なく、少しだけ距離を縮めると、腰を引き寄せられ、一気に身体が密着する。
「久しぶりだな。お嬢さん。脱獄おめでとう」
言葉だけは祝ってるけど、声はこれ以上にないくらいの氷点下。
前回、私が帽子屋屋敷に来たときは子どもの姿になっていた。
ゆえにブラッドの対応も柔らかかったけど今は違う。
あれからチェシャ猫に時計屋に道化と、異性関係も乱れに乱れたし……。
「ええと、ブラッド。あのときはありがとうございます……」
上目遣い気味におどおどと言ってみる。
彼が示した視点の転換は、その後、監獄を出るきっかけになった。
どん底になっても立ち上がる力があると教えられなければ、私はまだ監獄の奥で、
自分の不幸に溺れていたと思う。
「何、君の健康にアドバイスが出来て良かった。
おかげで挨拶回りの一番後に回されるとはな。
マフィアのボスも軽く見られるようになったものだ」
……すねてる、すねてる。
というか、あれやこれやで来るのが遅れ、ハロウィンなんぞとっくに終わってると
思っていた。ブラッドの怒りが怖くて、つい先送りしていたのだ。
「そんなことありませんよ。ブラッド。おかげでカフェインの摂取量を見直すこと
が出来ました。この間も、珈琲の量を何と二十五杯まで減らせたんですよ。
放っておけば、胃洗浄を受けるレベルまで飲んでいるところでした」
「………………」
ちなみに胃洗浄は口から胃まで直接管を通します。激痛で軽くお花畑が見えます。

「ナノ、君には本当に失望した」
ブラッドは私を抱き寄せ、ブランデーのグラスをあおりながら言った。
「金に毒され、珈琲に毒され、紅茶の腕も落ち、男を渡り歩き、堕落したものだ」
男性関係に関しては否定したい、が反論が雨あられと降り注ぐと思うと何も出来ない。
彼は少しアルコールの入った目で言う。
「ハートの国だった頃、君を手に入れなかったことが悔やまれてならない。
男を知らない純真無垢で、紅茶一筋だった頃の君を私のものにしていたら……。
君は俗事に何ら悩まされることなく、今も私のために紅茶を淹れていただろう」
「『完璧なペットとして』という言葉をお忘れですよ」
「……賢しい口も利くようになった。本当に……してしまいたい」
そして私は頭に、冷たい金属を感じた。

横を見ることが出来ない。腰に回されていた手はすでに離れている。
「私のものにならないのなら、この手で命を奪うまでだ」
いつか聞いた言葉をブラッドは一言一句違えず繰り返す。
「これ以上、堕落していく君を見るくらいなら、いっそこの手で……」
指は引き金にかかっているだろう。見なくても分かる。
私も静かに言った。
「撃つ気、ないでしょう?」

すると、拍子抜けするくらいアッサリと銃口が離れた。
「ふむ。泣いて命ごいをする君を見たいと思っただけなのだがね」
うーん。本当に撃たれると思ったらやりかねないなあ。
「でも何となく撃つ気はなさそうだなと思って」
あ。漫画みたいに『殺気を感じなかった』って言えば良かった。
でも言い直す前に、ブラッドが銃を下ろす気配。
「度胸がついたか?脱獄しただけあって、多少は開き直るようになったな」
私はテーブルに置いてあったクッキーをかじる。紅茶に合いそうな味。
ボスの雰囲気が少し和らいだので、私も言う。
「まあ実は私も今の異性関係には問題があると思い、正常化の最中なんです」
が、どうも成果が芳しくないのだ。
「で、もしあなたが私に興味を無くしたのなら、喜んで身を引……」
銃声。
何か早すぎる風が頬をかすめました。かすった箇所は傷ついてませんが熱いです。
冷や汗がだらだらと流れます。硝煙の匂いがすっごい間近です。
次の瞬間、私はブラッドに、ソファに押し倒されていた。
「すいません。最近調子に乗ってると自分でも思っておりまして……」
そんな私の唇を、ブラッドの指がなぞる。
「家を出て、野良猫と交わり、残飯の味を覚えた猫をどうすると思う」
「…………」
何となく想像はつく。
「閉じ込めてしつけ直すより他、仕方がない。非常にだるいことだが」
だるいなら止めてほしい。
けどブラッドはそれ以上は何もしなかった。
「だが、ハロウィン・パーティーに呼んだのは私自身だ。ナノ。
準備はあと××時間帯あまりで整う。君はその間、屋敷をうろついているといい」
ブラッドは不機嫌そのものの顔で立ち上がり、私に背を向ける。
――はあ……こんな嫌々参加するパーティーなんて始めてですね……。
私は、一度も振り向かないブラッドの背中を見送った。

けど、悪いことはそれだけではなかった。

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