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■時計屋・上

「遅いっ!!」
時計屋の部屋に入るなり怒鳴られた。
でもその声さえ苦痛で、私は腹を押さえてうめく。
ユリウスは皮肉っぽく笑いながら、
「フン。トカゲはしつこかったようだな。何なら奴のところに本当に住むか?」
どうみてもアレな方向に勘違いしている。
「ユリウス……そういう冗談は……痛……」
「どうした?」
ようやくユリウスも、腹痛だと分かったらしい。
グレイの作ったアンコウ鍋に当たった……。
それだけならまだしも、当たったのはなぜか私だけだった。
この世界の人間は胃腸まで常人離れしてるのか、納得行かない。
グレイは、私にいかがわしいことを出来ず、ガッカリしていたけど、時間の限り、
甲斐甲斐しく看病してくれた。しかし自分の料理に責任があるとは認めていない。
私の身体が弱くて、アンコウ鍋が負担になったと思ったらしい。
どうにか大波が収まり、ヨロヨロと部屋を出るとき。
見送るグレイは、気の毒そうに私に言った。
『養生してくれ。俺も次はアンコウ鍋ではなく、胃腸に優しいカレーを作ろう』
待て。カレーが胃腸に優しいというトンデモ知識をどこで仕入れた。
あとグレイはカレーにソースや醤油をかける派ですか。
けれど何も言うことが出来ず、あいまいなスマイルを浮かべ立ち去るしかなかった。
……そして今に至る。

「ほら、これを飲め」
「ども……」
部屋の主に薬湯を入れてもらい、ゆっくりとすする。
苦みのあるお湯が、優しく胃に染みこみ、痛みが薄れた気がした。
「で、結局、トカゲは説得出来たのか?」
「何とか。ナイトメアからも話が行ってたみたいで、今後は店の敷地に手出しをしないそうです」
グレイも、私の騒動で、いろいろ心境に変化があったらしい。
店を壊したのは間違っていない、という点は今も譲らないけれど、今後新たに壊す
ことはしないと約束してくれた。
どうやらグレイは長期戦に作戦をシフトしたらしい。
私の悪あがき……じゃない、地道な努力を長い目で見守る構えのようだ。
困ったときはいつでも頼れと言ってくれた。
「例の件は?」
「問題ないそうです。勝手に持って行ってかまわないし、お金はいつでもいいと」
「そうか。まずまずだな」
ユリウスはそう言って、それから私と店の今後について話し合うことにした。

…………。
「それで、おまえが数字に弱いという問題だが」
それなりにまとまったところでユリウスが言った。
「ええ。以前ブラッドにも、エリオットよりひどいと言われて……」
「三月ウサギ以上なら重症だな。で、おまえのために用意したものが……」
引き出しを開けて、何かを取ろうとした。私は好奇心を刺激され、
「え?何なんです?」
椅子から立ち上がり、ユリウスのところに行こうとした。

そのとき、バーンと扉が開いて、エースが満面の笑顔を見せた。
「ユリウス、ナノ!久しぶ……」

最後まで言い終える前に、扉の前に行き、目の前でバタンと閉めた。
私はユリウスに向き合い、
「それで、何なんですか?」
「いや、その……まあ、いいか」
扉をドンドンと叩く音がするけど、部屋の主であるユリウスが何かしたのか、扉は
こじ開けられないみたいだ。そのうちあきらめて帰ったのか静かになる。
私はユリウスの元まで歩き、彼が引き出しから出したものを見る。
「これをやる。寝る前に一ページずつ解け」
「…………」

『みんなのさんすうドリル』

「………………」
私は無言でペラッとめくる。
『□+5=12』
『23−□=7』
もう少しめくる。
『□−54−254=637』
『191+□−56=1081』
桁が増えるだけで、オール加算減算。私はこめかみをヒクヒクさせながら、
「あ、あの……ユリウス。私は数字が苦手なだけであって、基本的な計算が出来ない
わけではないんですが……」
するとユリウスは1ページ破り、
「なら、試しにやってみろ。採点してやる」
「望むところですよ」
あまりの失礼さに不機嫌になりながら、私は渡された鉛筆を取る。

「……72点だな」
算数の採点を終えたユリウスが冷酷に告げる。
「は?」
珈琲の採点ではない。白黒つく本物の採点だ。
私はショックに打ちのめされ、立ち尽くす。
「そ、そんな馬鹿な……」
「おまえ、焦って紙にかかないで、頭の中だけで計算しただろう。
13−7とか、未だに頭の中で指を折ってるんじゃないか?
そういう計算式になると手が止まるし、三桁になると解く時間が倍になる。
注意力も足りていない。『+』と『−』を間違えてるのが二箇所。それと……」
ユリウスの言葉はまだまだ続く。けれど私は呆然と採点結果を見ていた。

そして時間帯が変わり、夜になる。ユリウスは赤ペンを放り投げた。
「65点。もう打ち切るぞ。これ以上やっても集中力が落ちて点が下がるだけだ」
「うう……」
無理を言って何度もやらせてもらったけど、どうしても満点にならなかった。
イイ線まで行って、どうしても一問二問のケアレスミスをやらかしている。
何か小細工をしているのかとユリウスにもやってもらったけれど、私の半分、いや
四分の一の時間も取らずに終わり、満点を取ってしまう。
「遠くに、遠くに行きたい……海の見える街で空飛ぶ宅急便屋さんをやるんです」
「意味不明なことを口走るな。いいから、店をやるならちゃんと勉強しろ」
うなだれる。
「はい……」
それでも、頭を撫でてくれる手は優しかった。

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