続き→ トップへ 小説目次へ

■最後の手品

「ええ?いいですよ」
「サーカスでも観客参加の芸とかあるだろ?」
かまわずに、ジョーカーは道化服の懐を探っている。
「いいですよ、本当に私、出口を探さないと」
「うるせえな。ほら、これだ。持てよ」
ジョーカーはやけにしつこい。
断りも聞かず、何かを私に握らせた……重く光る銃を。
「ジョーカー?」
「サーカスの小道具で偽物だ。殺傷能力はねえ。
おまえ、銃は触ったことが無かったよな」
「は、はい……」
触ったことがないから本物と偽者の区別なんてつかない。
でも重さといい精巧さといい、どこからどう見ても本物にしか見えない。
さすがサーカスの品、としげしげと銃を見る。
「ナノ」
「はい?」
「これから手品をするから、目を閉じろ」
「は、はい」
もう参加させられる流れらしい。
これも早く出るため、と仕方なく目を閉じる。ネタの仕込みかな。
定番から言えば、ウサギやハトが出るんだろうか。
それはそれでちょっと楽しみだ。
「外へ出たいって思え」
ジョーカーが静かに言う。
「は?」
「会いたい奴の顔、行きたい場所、やりたいこと。そういうことを考えろ」
――会いたい人……。
真っ先に浮かぶ、仕事を黙々とする時計塔の主。
何かを企む笑顔のマフィアのボス。
上司を叱るトカゲの補佐官。
怖いこと、嫌なこともあるけど、大好きな不思議の国。
遊園地の空の入道雲、明るく笑うオーナー、ネズミを追いかけてはしゃぐ猫。
きらめく水しぶき、カラフルなかき氷、パレードの大きな花火。
雪の降るクローバーの塔、グレイの吐く煙草の煙、パチパチと揺れる暖炉の炎。
木々を揺らす風、草を踏みながら歩く騎士、一目散に駆けてくる白ウサギ。
秋のティーパーティー。賑やかなお茶会。皆の笑い声。
「そうだ。もっと想像してみろ」
ジョーカーの声が近くに聞こえる。私は言われた通りに思い出す。
猫を抱きしめて眠る夢魔、かけてあげた毛布の重さ。暖かいコタツ。
コポコポとサイフォンの中で沸騰する珈琲、急須から流れ出る緑の雫。
『美味しい』
私の淹れた飲み物を喜んでくれる、役持ち、役無し、いろんな人の笑顔……。
ジョーカー。暗い監獄にずっといて。乱暴だけど、優しい人。
鞭で打つときは、楽しむふりを装って、いつも悲しそうだった。
私の手をジョーカーの手が包む。
そして、私の唇に触れる、何かやわらかい……

音がした。

「え?」
大きすぎて聴覚が停止したのか小さすぎて聞こえなかったのか分からない。
でもどのくらいの音だったのか、よく聞こえなかった。

目を開けると、胸から何かを流すジョーカーがいた。
「え?」
同時に、私の手から、静かに銃が滑り落ちる。
「ジョーカー?」
何かこぼれている。止めなきゃ。でも身体が動かない。
「馬鹿……手品だって言っただろ?」
「でも胸から何か、出てますよ?」
首をかしげる。こんな手品、見たことがない。
「いいや。芸だって言っただろ?俺は消えねえんだ。決して、な」
だから手品なんだよ、言って、音を立てて監獄の床に倒れた。
胸から出た液が、何だか床に広がっていく。私も一緒に力が抜けて、ジョーカーの
かたわらに座る。作り物にしてはやけに精巧な液体が囚人服を濡らした。
「ジョーカー。ちょっと量が多すぎですよ。
これじゃあリアルすぎて逆に引くといいますか」
「何、言ってるんだ……観客には、本物、そっくりな……方が……」
ジョーカーはもう立てないらしい。いや、立てない風を装う。
床に倒れたまま、起き上がることなく静かな息をした。
私は、道化の帽子の取れた彼の頭を撫でながら、
――前にこういう呼吸をする人がいましたね。
クローバーの国のことだ。私の横で動かなくなった店の店主さんが、動かなくなる
直前に、こんな息をしていたっけ。彼はほんの少し顔を上げて片目で私を見、
「今の、俺は……道化な、んだ、これくらい迫真の演技をしないで……」
声がどんどん小さく弱くなる。
ジョーカーの手が私の方に伸びた。
もう視力も失せた……失せた演技をしているので、そのまま宙をさまよう。
私はその手を取って強く握った。
「ねえジョーカー。手品なのは分かりましたから、もう起きて下さいよ」
本職の演技はすごいなと思う。脈が少しずつ弱く、間隔が長くなっていく。
まだ呼吸をしているのに、手の温度まで少しずつ低くなっていくのだ。
私は少しでも暖めてあげたくて、その手を頬に強く当てる。
するとジョーカーの口がかすかに動いた。
私は急いでその口に耳を近づけた。
髪が液体にちょっと濡れる。本当に量が多すぎる。

『おまえ、みたいな、ばか……だい、きら……』

それきり、何も聞こえない。
嘘吐きの道化は起き上がらない。
でも次の瞬間にジョーカーが冗談だと、笑いながら耳元で大声を出すんじゃ無いか。
そんな気がして立てなかった。
だって彼が動かなくなる理由がない。
彼は監獄の所長で私は囚人だけど、脱獄は自由だと言っていたし。
何でだか出口が見つからなくて、彼は出口を知っているらしかったけど。
とにかく彼が動かなくなる理由がない。

私はずっと待っていた。
やがてジョーカーの脈が完全に止まっても。

液体の流れが止まり、手足の体温が完全に失せても。

彼の身体が時計も残さず消えても。

ずっと、ずっと。



…………。

………………。
「ナノ、ナノ」
目を開けると、白ウサギことペーター=ホワイトの笑顔があった。
「ペーター……」
彼に会うのはずいぶん久しぶりだ。
「こんな場所で寝ていたら風邪を引きますよ?」
ペーターは優しく言って、木の根元で寝ていた私を起こしてくれた。
「ここは……」
ずいぶん長く眠っていた気がする。
私はいつもの服を着て、もちろん身体には傷一つ無い。
――ジョーカーは……。
彼は手品をちゃんと終えたんだろうか。
「サーカスなら今は入れませんよ。ほら」
「え?」
とペーターの指差す方を見た。
『ただいま、準備中』という木札が立っていた。
どうも私はこの木札にもたれて眠っていたらしい。
「サーカスの森は立ち入り禁止になっています。帰りましょう」
優しく微笑まれ、手を引かれる。
「サーカスに行けなくて残念でしたか?ナノ」
「そんなことはありませんよ。最後の最後で見られましたから」
「え?そんな情報は……どういうことですか?ナノ」
「あはは。秘密ですよ」
私はとりとめない会話を交わしながら気持ちのいい森を歩く。
日の光が、涙が出るほどに嬉しい。
「ねえ、ペーター」
「はい、ナノ」
私が呼ぶと、笑顔で振り返る白ウサギ。
「久しぶりに会ったんですから、お茶でもしましょうよ」
「は、はい!喜んでっ!!」
本当に嬉しそうにうなずいてくれるペーター。
私も笑顔になり、話を続ける。
そうでなければ、泣いてしまいそうだった。

6/6

続き→

トップへ 小説目次へ

- ナノ -