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■パラダイムシフトの鍵

「か、カフェインの禁断症状?」

何を言ってるんだ、この人。ブラッドはようやく起きて、座る姿勢になった私に、
「正確には離脱症状という。
珈琲、紅茶、緑茶などのカフェイン飲料を常飲している者がその摂取を絶つ。
すると倦怠感、無気力、頭痛、胃痛、抑うつ、眠気、神経過敏、興奮と、他にも
さまざまな症状が出る」
「え……はあ、そうですか」
「君は普段からカフェインを大量摂取していたから、それだけ症状が強く出て、
また長引いているのだろう。おかげで刑期まで長引くあたりが君らしいが」
「いえ、ちょっと待ってくださいよ、ブラッド」
私は鉄格子につかまって、よろめきながら立ち上がり、ブラッドに首を振る。

「ありえませんよ!あれだけ色々あって『そんなことよりカフェイン中毒で監獄から
出られません』って、どれだけ重度の依存症患者ですか、私は!!」
「だが実際に重度のカフェイン依存症だ。事実、玉露を手放せないでいる」
私が大切に抱えている玉露を指差す。私は慌てて玉露をぎゅっと抱え直し、
「い、いえ、この玉露は私の深層心理と申しますか!色々な色々がつまっていて!」
この世界に来た当初から持っていた物。重大な理由があるはずだ。
「玉露のカフェイン含有量は、珈琲や紅茶のほぼ二倍だ。
君が玉露を選んだことに深い意味はない。単にカフェインが一番強いからだ」
ブラッドは真理を告げるように言い切った。

「え、ええ?……ええー」
というか監獄の話のはずが、なんでカフェイン講座になっているんだろう。
何だかブラッドに言われているうちに分からなくなってきた。
そもそも自分は何で監獄に入っていたんだっけ。
――ええと私がこの監獄に入ったのは、自分が嫌になったからで、それから……。
「君は監獄に入る前、カフェインを絶っていただろう?」
「え、ええ。だってお仕事でしたし……」
夏祭りの直前はお仕事で何時間帯もお茶を取らなかった。
いつもは仕事の合間に飲んでいるけど、パレードだから忙しくて……。
そのあたりから今に至るまでカフェインの離脱症状が続いていたとしたら?
ワゴンがどうこうとか、ユリウスやエースの行動がショックだったとかではなく、
単にカフェインが切れて、具合が悪かっただけだったとしたら?

私は鉄格子をつかむ手を離し、立ち尽くした。
……だとすると全ての前提がひっくり返る。

「い、いえ、ちょっと待ってください。そんな馬鹿なことが……」
「だが我々から見ても、ありえないと思う愚行を次々に犯すのが君だろう。
最初の出会いからして、緑茶が元で屋敷の滞在を断り、次に捕らえたときは珈琲中毒
に陥って帽子屋屋敷を出る決意をしている」
「あ、あはは、ご、ご存じで……」
何だかどんどん分からなくなってきた。
どこまでがカフェイン由来で、どこからが私自身の問題なんだろう。
「君は君が思うほど今回の事態に打撃を受けていない。そう思い込んでいるだけだ」
マフィアのボスは私に宣言した。

「その証拠に、時計屋と別れたとき、ろくに食事も取らず衰弱していた君が、監獄
では普通に食べ、おかわりの催促までしていたと聞く」
「い、いえ、それ、関係ないです!本当に関係ないですから!!」
必死に否定するものの、冷や汗が浮いてくる。
あ、頭が混乱してきた。
「えと、ですから私は色んな人と関係を持って、皆に迷惑をかけて、だから……」
「玉露も紅茶も珈琲も、最良と言われる淹れ方ほどカフェインが強くなる。
フラワリー・オレンジ・ペコーも、上級なものほどカフェインが多いんだよ。
お嬢さん。つまり全てはカフェインだ」
ブラッドは謎の理屈を述べる。
「君はカフェインに振り回され、他のことはどうでもいい状態だ。
カフェインの摂取量をもう少し控えなさい、ナノ」
「は、はあ……」
ここ、普通なら『君は悪くない』とか格好良く説得するシーンじゃなかろうか。
もうカフェイン講座を通り越して健康相談室だ。
「その、もう少し上手な説得はなかったんですか?」
さすがに口を挟んだ。けれどブラッドは言う。
「だが私の話を聞き、立ち上がることが出来ただろう?」
「え?」
ハッと自分を見下ろすと、確かに私は支えなしに両足でしっかりと立っていた。

ブラッドは腕組みをし、呆然とする私に笑う。
「身体は心に従うと思う者は多い。だが、実は身体の方が、軟弱な心より頑健だ。
君が自分を許さずとも、看守や所長どもに酷な扱いを受けようとも、君はまだ、
両の足で立てる。それだけの力がまだ残っている」
「…………」
ブラッドのことはよく分からない。彼は私よりずっと頭がいい。
一瞬でも体調不良がカフェインのせいだと思い込ませ、私を立ち上がらせた。
そして今、彼は鉄格子をつかみ、睨むように私を見据えた。

「自分を見失うな、ナノ。監獄で十分に休んで、もう元気は出たはずだ。
私はもう帰るが、君はその鍵を使って、後から来い」
「え?」
私は自分の手を見た。
「ハロウィン・パーティーで君が来るのを待っているよ」
私が大切に玉露を抱えていた場所。そこにもう玉露はない。
その代わり、牢に入ったときと同じ物が。

あまりに軽い鍵がそこにあった。

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