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■ご飯と猫の誘惑

言うまでもなくお食事は、監獄における唯一の楽しみである。
「カレーライスを注文したのにハヤシライスって、どういう嫌がらせですか!」
私はスプーンでご飯をかきこみながら憤る。
最初見たときはちょっと感動したのに。感動したのに!
匂いに『もしや』と懸念を抱きつつも一口食べ……あの衝撃は忘れられない。
「嫌なら食うなよ……」
牢屋の中に立ち私を見ていたジョーカーが、空になった皿に呆れたように言う。
私は彼に皿を差し出し、
「おかわり」
「あるかっ!!」
鞭で壁を叩かれた。相変わらず豪快なツッコミだ。
でも食事中に邪魔をしないあたり、食べ物を大事にする人に相違ない。
「なら食後の番茶を下さいよ。水だけってどうも落ち着かなくて」
「嫌なら泥水でもいいんだぜ?」
「おいしゅうございますね、このお冷や」
でも何か足りない。
食べ終わってダルくて、ぐでっと横になる。
「……太るぞ」
痛い呟きは聞かないフリをする。
でもジョーカーは珍しく普通に私の様子を見に来ただけらしい。
食後の私をいじめて盛大に戻させる真似はせず、さっさと気配が消えた。
――というか用がないなら来なければいいのに。
いや、大事な食事中に他の人がちょっかいかけないか見張りを……。
「うぬぼれすぎですね」
本人に言おうものなら罵倒とともに鞭が飛んでくるに違いない。
そういうわけで、私はハヤシライスの余韻……コホン、後悔に浸ることにした。

…………。
「ナノ、ナノ」
誰かに呼ばれて、暗い海の底から浮上する。
薄闇の中で目を開けると……起きがけにきっついピンクの配色を見た。

「……ボリス!?」
牢屋の前にいつの間にか出現した扉、しなやかに尻尾をふるチェシャ猫。
「ナノ、元気?……でも無さそうだね」
痛々しそうに傷だらけの私を見る。私は床の上で玉露の袋を抱え直し、
「いえいえ元気ですよ。カレーライスとハヤシライスの違いに憤慨するくらいです」
「え、ええと本当に元気じゃないんだね、ナノ」
何かかわいそう認定された予感。
私もちょっとだけ身体を起こし……それでも肘を床につく程度だったけど、ボリスに微笑んだ。
「パレードのときはありがとう、ボリス」
困ったお客さんを……ええと、静かにさせてくれた。
やり方に賛同はしかねるけどそれはまた別の話だ。
「いいよ。友達が困ってたんだから。それよりさ、ナノ」
笑うボリスだけど、私の面会に来ただけではなさそうだ。

「ナノ、外に出よう」
夢魔と同じ事を私に説く。
「あんたが頑張れば、牢屋の扉を開けられるんだ。そうしたら俺が外に連れてって
あげるよ。それで、また遊園地で遊ぼう。プールはまだ行ってないだろ?」
チェシャ猫は、本当に気軽に言ってくれる。私は疲れた息を吐き、
「ダメですよ。今は身体がダルくて立つのも疲れますし」
そう言うとチェシャ猫は、
「だよね。あんた、仕事以外じゃ俺の部屋でいつもゴロゴロしてたもんな。
運動不足が祟ってるんだよ」
違う。それ猛烈に違う。あとゴロゴロしてたのはボリスもでしょう。
と思ったけど軽口を返せるだけの気力もなく、無表情にチェシャ猫を見上げる。
するとボリスはやっとため息をついて尻尾をたらした。
「皆元気ないけど、おっさんが一番落ち込んでる。オーナーとしてあんたのことを引き
受けたのに、パレードや夏祭りにかまけて、ちゃんと見ていてやらなかったって」
「子どもじゃないんです。ゴーランドさんは関係ないですよ」
「関係あるの。あんたが商売上手く行かなくて段々落ち込んで、盗みにあって、
ワゴン壊されて、申し訳なくて、監獄まで行っちゃった。おっさんはそう思ってる」
「…………」
「な。申し訳ないって思うならまたおっさんを元気にしてやってくれよ。
恋人がたくさんいるのがいけないなら、女王様なんかどうなんだよ。
あの人、愛人がすごいたくさんいるんだぜ?」
「…………」
ボリスは夏祭りの件をどこまで知っているのだろう。
猫は猫でも謎めいたチェシャ猫。猫の王様みたいなものだ。
けどあの出来事が知れ渡っていないらしいことにはホッとした。
あんな不名誉な噂が広まったら、ユリウスも塔で生活しにくくなるだろう。

一向に動こうとしない私にボリスは辛抱強く語りかける。
「ねえナノ。そんなに自分の居場所なんかで悩むならさ、猫にならない?」
「猫に?」
私はピクッと顔を上げる。私の関心を引けたボリスは嬉しげに、
「そう。それでさ、俺に飼われるの。チェシャ猫がご主人なんだぜ。
あんたはこの世界で二番目に敬われる猫になるんだ」
「猫……」
単に猫耳と尻尾が生えるのか、本当に全身猫になるかは知らないけど。
でも不思議の国だし、そういうことも出来そうな気がしてきた。
ぬくぬくと可愛がられ、気楽に日向ぼっこする猫に憧れを抱いた、遠い日の思い出が
かすかに胸によみがえった。
「猫には居場所なんて関係ないよ。扉を開いて、俺の手を取ってよ、ナノ」
「ボリス、ありがとう」
本当に嬉しい。私の失敗を自分の責任のように思ってくれるゴーランドさん。
監獄まで追いかけてきてくれたボリス。
でもだからこそ……罪悪感がより深くなる。
「ナノ……」
お利口な猫さんはすぐに分かってくれた。
動かない私の手をつかもうと、精一杯に手を伸ばす。けれどなぜか届かない。
「っ!!」
ボリスは顔を上げ、どこか別の方向を見て毛を逆立てる。そして扉の方へ走り、
「また来るよ!」
「いいですよ。ゴーランドさんに謝っておいてください」
「嫌だね。おっさん、ワゴンを買い直したんだぜ。
謝るんじゃなくてお礼を言いに来てよ」
ゴーランドさん……。胸が熱くなる。
でも、もう一人の友達のことも思い出し、聞いてみた。
「そう言えばピアスはどうしてます?」
ボリスは扉を閉める手を止め、嫌そうに、
「あんたのことを悔やんでて、あいつが言うにはノコギリであんたを……」
「うるせえよ」
バタンと扉を閉めたのはジョーカー。
一瞬の後には、私のすぐそばに立っていた。
もう一度見ると、すでに牢の外にボリスの扉はない。ジョーカーは冷酷に
「監獄に来てまで男を誘惑か?本当に誘うのが好きだな、おまえも」
「ええ。脱獄をささやかれ、ちょっと考えちゃいました」
「素直なのはいいが、おしおきは必要だな」
ジョーカーが鞭をつうっと撫でる。
――だって、誰が『猫にしてあげる』という誘惑に耐えられるんですか。
ふりあげられる鞭を見ながら思う。

あと、ピアスに関しては……何も聞かなかったことにしよう。

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