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■ボリスとの取り引き・上

その時間帯、私はボリスの部屋で、部屋の主を拝み倒していた。
「いくらナノの頼みだからってさ……」
「ね、お願いです、ボリス」
私は必死に頼む。けれどボリスは渋い顔だ。
「俺の扉は、誰にでもホイホイ使わせる、都合の良いものじゃないんだよ」
「ね、お願いしますよ。今回だけ!次からは便利な道具に頼らず、自分の力で宿題を
片づけますし、遅刻もしません、ガキ大将とのケンカにも勝ちます」
「し、宿題?ケンカ?ナノ、ちょっと意味不明すぎなんだけど……」
あなたの能力にこのネタをつけずして何をつけろと!
しばらく考えていたボリスだが、やがてチェシャ猫特有の含みのある笑顔になった。
「それじゃあさ、言うことを聞いてあげる代わりに……」

…………。
「お邪魔しまーすっ!」
「っ!!」
私が扉を開けるなり、部屋の主は珈琲を噴き出した。
「うわ!汚いですよ、ユリウス」
「おまえ……何しにここに来たっ!」
時計屋ユリウスは怒りの形相を私に向ける。

ユリウス。
私の問題を知り、自由に外を歩けるように一時的に子どもにしてくれた。
私が滞在先を決めた後は、グレイとケンカをしてまで私を外に逃がしてくれた。
そこまでしておいて私が戻って来たなら、まあ普通は激怒するだろう。
「まさか、クローバーの塔の正面からノコノコとここまで……」
瞳を鋭くするユリウスに、いえいえいえと私は否定する。
「ボリスに扉をつなげてもらったんですよ。お聞きしたいことがあって」
チェシャ猫の名を聞き、ユリウスはようやく怒りの顔を改める。
憂慮をたたえたまなざしはそのままに。眼鏡を外し椅子を立ち、私のところに歩いてきた。
大きな背の優しい時計屋が私を見下ろす。
「そうか。私に会うために。何か重要なことか?出来る限り答えよう」

「はい。美味しいアイス珈琲の淹れ方を教えてほしいんです!」
……殴られた。

「そんな下らない質問をするためにチェシャ猫と取り引きをする奴があるか!
だいたいおまえという奴は、この世界に来て長いのに呑気で警戒心が薄くて……」
涙目の私はガミガミと叱られている。
「下らなくないですよ!遊園地では冷たい飲み物で勝負するんです!
でも使える材料は限られてますから、省ける無駄は省きませんと」
「そうだろう、そうだろう。遊園地では無尽蔵に高価な珈琲豆が使えないからなあ」
いつぞやの滞在時のことを、チクチクとつつかれる。
というか、ずっと根に持ってたんだ。暗い人だなあ……。
しかし嫌味を言われたものの、ユリウスは意外と親切に教えてくれた。
「人間は冷たいものに対しては味覚が鈍磨する。だから、アイス珈琲は苦みのある
深煎り豆を使った方がいいだろう。氷を入れ、子ども向けに甘味を増やすといい」
「ふむふむ」
私は熱心にメモをした。ユリウスは本棚から秘蔵の珈琲マニュアルを数冊出すと
渡してくれた。
「やる。おまえが持っていた方が有効活用出来るだろう」
「ユリウス……ありがとうございます」
私は深く頭を下げる。すると
「よせ」
ユリウスに否定される。
「私にそんなことをしなくていい」
「親切を受けたらお礼をするのは礼儀です」
するとユリウスは身体をかがめ、私の頭を撫でる。
「敬語は癖だから無理に直せとは言わない。だが私に必要以上にかしこまるな。
お互い、もうそんな他人行儀な間柄ではないだろう?」
「……そうですね」
私は本を抱え、笑う。ユリウスも笑う。そして言った。
「それと、そんな簡単な用件なら、次からは電話で聞け」

……電話?

……不思議の国すぎてたまに忘れることがあるが。
この世界にはちゃんと電話があったりする。
ユリウスの部屋にも、レトロなデザインの電話が当たり前に鎮座しているのだ。
「……おまえ、気づかなかったのか?」
でももうボリスとの取り引きは成立している。
い、いえ。ボリスは友達。まさか電話のことを知ってて黙っていたとは……。
けどつないだ扉の向こうにボリスの姿は見えない。
私の内心を読んでかユリウスのため息が聞こえた。
「これに懲りたら、役持ちとの取り引きに軽々しく応じるなよ」
「はい……」
けれど、彼と話すことが出来て何となくホッとした。
やっぱりボリスに扉をつないでもらって良かった。
――ユリウスも、そう思ってくれてたらいいんですが。

そしてエースから聞いたことを思い出す。
「どうした?」
私の視線に気づいたのか、ユリウスが怪訝そうな顔をする。
――ユリウスには今、好きな女性がいるんですよね。
聞きたい。聞きたくてうずうずする。が、さすがに女性関係は立ち入りすぎだ。
――こう、遠回しにスマートに聞けないですかね。
私は首をひねる。
最近、悩みとかないですか?……ダメ、ストレートすぎ。
この間、ある女性をじっと見てましたよね……無理。変質者扱いになる。
私、恋の相談でよく頼られて……どのツラ下げて私が恋の相談相手になると。
この頃ちょっとおしゃれですよね……清々しいほどに変化が見当たらない。
というか、見れば見るほど全く以前と変わりない。
――いやいや男だって恋をすれば変わるはず。こう、見えないところに変化が……。
「何かあったのか?私で良ければ相談に乗る。何でも話してみろ」
ユリウスの瞳は穏やかだ。それが何よりも話したい気分にさせてくれる。
――って、私が悩み相談をしてどうしますか!
頭を撫でる手を快く感じながら、私はユリウスの恋の変化を聞き出そうとした。

「今、何色のパンツはいてます?」
殴られた。

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