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■白ウサギ氏・愛の激情

薔薇の迷路のベンチに案内され、私たちは並んで腰かける。
そして改めて白ウサギ氏と話をした。
「それでですね、ピーター」
「僕はペーターですよ。そそっかしくて可愛いナノ」
「ウサギはピーターと決まっていますよ。ピーターラビット」
「分かりました。すぐに婚姻届と改名届を出します!」
素直なウサギさんでした。そして婚姻届はいらない気がする。
可哀相なので本名でお呼びすることにした。

さて、記憶喪失もそうだが、まず謝るべきだろう。
「ペーター。この間は、ぶん殴ってしまってごめんなさい」

頭を下げると、ペーターは怪訝そうな顔をした。
「殴って……?」
そして私の言葉の意図をつかもうと宙を見。突然ニッコリと笑顔になった。
「ああ、あのときの、あなたの愛の鞭ですね。
いいんですよ。あなたにならいくら殴られても、どれだけ惨い仕打ちを受けても耐えられます! 
強請られようと、足蹴にされようと、借金の連帯保証人にされようと!!」
「え? そうなんですか?
じゃあ、お一人様一点限りの激安トイレットペーパーを五回並んで、それだけを五個
買って、こっちの顔を覚えた店員に嫌な顔をされるとかいうことも引き受けてくれるんですか?」
「あなたのためなら何十回でも!……というか、例えがせこくありませんか?」
世界一勇気がいる行為に対してなんてことを。
とはいえ、このことでピーター、いやペーター氏の愛が本物だと分かった。
「許してくれてありがとう、ペーター。
あなたは本当にいい方ですね」
するとペーター氏は目を潤ませた。
「ああ……ナノ。
なんて優しく正しく情け深く慈悲深い! 
愛しています愛しています愛していますっ!!」
また、イマイチ実感の湧かない愛の讃辞が続きそうだったので、早めに話題を切り替えることにした。

「それで、私は記憶喪失らしいんですが」
「え……!?」

初めてペーターが本当の困惑を顔に出した。
「えええええっ!?
ぼ、僕と過ごしたあの愛の時間を忘れてしまったのですか!?
あのうららかな午後を?
あなたに寄り添っていた甘やかなひとときを!?
僕をあんなに深く深く情熱的に愛してくれていたのに!?」
今度は私が驚いた。
「え……? 私とあなたは恋人同士だったのですか?」
「あ、いえ、そういうことではな……」
否定しかけたペーターは言葉を切る。
そしてしばし天を仰ぎ――その赤い瞳が薄ーく薄ーく細められた。
さながら窮地に陥った町娘に対し、悪事を企むお代官のように。
そして、すましたように言った。
「ええ。そうです。あなたは僕の婚約者なんですよ。ナノ」
「えええっ!」
衝撃に驚く。私はこんなウサギ耳の男性と婚姻関係を承諾するようなたいそうな物好き……いやそういう人間だったのか。
私の困惑に白ウサギは微笑み、そっと両手で私の両手を包み込む。
「僕たちは愛し合っていたけれど、住んでいる場所も違い、会える時も限られていた。
だからつい、あなたを連れてきてしまったんです。
この世界に来るまでの長くも短い間、あなたは情熱的に僕を抱きしめ、
『迎えに来てくれたのね、嬉しいわ、愛しのペーター!』と何度も何度も何度も熱い口づけを……」
そ、それは王子様が迎えに来る憧れのシチュエーション!
……ただ、私がずっと玉露を持っていただろう点だけは疑いようがない。


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