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■エースの誘い・下

『ナノ。帽子屋の言葉に惑わされるな』
実際のところ、ナイトメアの指摘は正しかった。
私を打ちのめしたブラッドとの会話。
冷静に思い返すと、実は反論出来る点は多かったりする。
でもまあ、今さら個々にツッコミを入れても仕方ない。
それ以前に私の深層心理がどうこうなんて、世界一くだらない。
偽善の是非と同じで、考えることに意味が無い。
そんな難しい領域、頭の悪い私の手に余る。
第一、中身が空虚なのは私だけじゃない。この世界の人は皆そうだ。
貧弱な内面を言い当てられたところで、さして打撃にはならない。

……さして打撃にならない。けれど一瞬だけなら打撃を与えた。

そしてブラッドの狙いはその一瞬にあった。
やすやすと引っかかった私は彼に手をつけられ、ショックで逃げる気力を失う。
そして無気力にベッドにいる姿を多くの人に見られた。
あとは既成事実を積み重ね、虚構を事実にするだけ。
気がつくと私は後戻り出来ない場所にいた。

帽子屋ファミリーのボスは恐ろしい。
役持ちの階級は、伊達では無い。
全てが彼の思い通りになる。
私には、彼の奸計に為すすべがない。

「別にいいじゃないか。今から逃げたってさ。誰も気にしないぜ?」
そして別の役持ちは、私の悲観をコロッとひっくり返す。

「そういうわけに行かないんですよ。私、あなたと違って繊細ですから。
いろんな人に後ろ指を指されながら塔や城に置いてもらうのは嫌ですし」
「顔なしの陰口なんかどうだっていいと思うけどな」
「そうも行きませんよ。とにかく人がいるところは嫌なんです」
「ふーん、お城も塔もダメか……」
エースは首をひねる。私のために悩む、というより面白いパズルを解いている顔だ。
そして赤の騎士は身をかがめて、私の目をのぞきこむ。

「じゃあ第三の選択肢だ。
二人で森のドアをくぐって逃げよう」

「――っ!!」

ユリウス!!

瞬間に世界が色を取り戻す。
灰色の風景は深緑の田園に、空はより深く、エースの赤はより鮮やかな血の色に。
私とエースは同じ役持ちに懐いていた。
迷子の行き着く先、時計塔。
その唯一の住人、孤独な時計屋。ユリウス=モンレー。
ブラッドの、ユリウスに関する言及だけは正しい。
時計塔は、私が唯一安らげた場所だ。

時計の音、機械油の匂い、珈琲の香り。
朝起きて二人で古いパンをかじり、ユリウスは時計修理へ、私は厨房へ。
それだけで日課が終わる静かな時間。
ユリウス。嫌われていた寡黙な葬儀屋。
でも知り合うにつれ親切な人だと分かった。
穏やかな藍の瞳。眼鏡を外し目元をマッサージする仕草。
時折見せる不器用な笑顔。
私がテーブルに伏して寝入りかけたとき。そっと入ってきて、背にかけてくれた黒いコートの重さ。
珈琲を淹れるとき使わせてもらった飾り時計、悪趣味だと笑ったパジャマの色。
あのとき当たり前だった何もかもが、今は涙が出るほどに恋しい。

もう一度あそこに戻る。
それはあまりにも強い誘惑だった。

「時計塔ならユリウスしかいないから、人の目なんか最初から無い。
ユリウスは時計塔にいるときは無敵だし、外に出たいなら俺が護衛してあげる」
そして青空のように微笑む。
「道中は俺が君を守るよ。
今から俺とドアの森に行こう?ナノ」

「いいえ」
私は即答した。

そして自分が答えた瞬間に、一瞬だけ色づいた世界はすぐに元の無味無色な風景に。
希望はパンドラの箱に帰宅し、残った闇だけが空気を満たす。
そう。この爽やかな男は、別の意味でブラッド以上に危険だ。
幸か不幸か、それが分かるくらいのつきあいがあった。

「あなたとゴドーを待つ気はありませんよ」
私は静かに言う。
「違うぜ、ナノ。俺たちは待たない。こっちから会いに行くんだ」
「同じことです。あなたがまっすぐに目的地に行けたことはないでしょう。
永久にたどり着かないのなら迷うも待つも同義です」
明日がないこの世界。迷い続けていれば、私たちのゴドーは来てくれるかもしれない。
でも異界のエストラゴンは、破滅的な決意を断行するかもしれない。
それは、ユリウスに再会する可能性が永久に絶たれることを意味する。

「俺は迷い続けてるから。
いつでも声をかけてくれよ、ナノ」
迷子騎士は奇妙な別れのあいさつをした。
この世界の、彼の唯一の同族に。
私は答えずに、主の待つ帽子屋屋敷に帰った。

そしてブラッドの部屋に戻ると、テーブルの上にティーセット一式があった。
ブラッドは上機嫌に、
「紅茶を淹れてくれるかな、ナノ」
「はい、ブラッド」
私はもちろんうなずいた。

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