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■時計屋さんと失われた記憶・後

「白ウサギ? 殴った」
私は首をかしげた。それは動物虐待だ。
いたいけな動物に、そんな乱暴なことをしたのかとショックを受ける。
すると時計職人氏は私の心を読んだように、
「本物のウサギではない。『白ウサギ』という二つ名の男だ。
ちゃんと人間の姿をしていて、ハートの城の宰相をつとめている。
おまえに恋着するあまり、この世界に連れてきた、ろくでもない奴で……」
時計職人氏は説明を続けていた。
けれど、私はある単語が引っかかって仕方ない。
――は、ハトの城?
よく聞き取れなかった。
そういえば、記憶を失って最初に目覚めたとき、遠くにお城が見えたっけ。
――さすが不思議の国!あの城にはハトが住んでいるんですか!
ウサギさんが私をここに連れてきたんだもの。ハトの城だってあるに違いない。
きっと城中ハトだらけなんだろう。
糞害もすごそうだ。城の王様ハトはきっと見上げるような大きさだ!
年柄年中大量の羽が落ちているだろうから羽毛布団制作が基幹産業に違いない。
温かい布団はありがたい、本当にありがたい。
どうすればタダでせしめられるだろう。
豆でもまけばいいかな。王様ハトが『君はなんていい余所者なんだ、クルックー』
とか言って快く防ダニ防臭加工の一式をくださるに違いない。
私は不思議の国にふさわしいメルヘンな空想に酔った。

「で、おまえは適当に過ごせば元の世界に帰れるんだ。分かったか?」
「――はっ!」
メルヘンな空想に酔って、時計職人氏の説明を聞き逃していた。
どうも時計職人氏は、白ウサギさんの説明を終えて、この国に関しての説明をして
くれていたらしい。
……適当に過ごせばいい、以外、全く何も聞いていなかった。
バレていないことを祈ったが、時計氏は見逃さない。ため息まじりに、
「人が説明してやっているというのに。記憶を失って多少見られるようになっても
元が同じなら変わらんな。本当に女はろくでもない。
おまえも、もう出て行け。邪魔だ、不愉快だ、一秒たりともいてほしくない」
歯に衣着せぬ物言い。私も思わず時計氏に抗議しようとして、つい、

「うるせえな。口に茶葉突っ込んでタコ殴りにすんぞ、この腐れ長髪野郎……」

「……おまえ、今なんて言った?」
私はハッとする。見ると、時計職人氏が口元を引きつらせて私を見ていた。
口に両手をあて、私は、宙を仰ぎ、
「ええと……ああ。今のはきっと私の失われた人格が出て来たのですね」
「取り繕おうとしているようだが、口の悪い本性が出ただけではないか?」
「え、ええと、ええと、あ、あはは……」
私は意味もなく冷や汗をかき、玉露の袋を抱えて立ち上がる。
時計職人氏はひどいが、こちらも仕事中に押しかけた身。
これ以上いて得るものがなさそうなことも確かだ。
「では、と、とりあえず城に行って、豆をまいて羽毛布団をせしめてきますね」
「私の説明からどうやって、そんな飛躍をしたのか謎だが……。
まあ、出て行ってくれるならありがたい」
時計職人氏は素っ気なく言った。
そして再び眼鏡をかけ、カチャカチャと時計の修理を始める。
「……ええと、ありがとうございました」
ティーカップをためらいがちにテーブルに置き、立ち上がる。
けど時計職人氏は答えない。ここに来たときもそうだったけど仕事人間なんだろう。
「珈琲、すごく美味しかったです。ごちそうさまでした」
とりあえず頭を下げた。
すると、仕事に集中して、聞いていないと思っていた時計職人氏が顔を上げた。
「……どこからも拒まれて行き先がなければ、またここに来てもいい。
 異世界の人間だろうと、若い女一人が生きていくには危険な世界だからな」
「…………」
私はまじまじと時計氏を見た。
口は悪いが本当はいい人なのだろう。
そういえば、この部屋もやけに落ち着く。
「ありがとうございます、時計職人さん」
すると長い沈黙があり、
「一度名乗ったが、もう一度名乗ってやってもいい。
私はユリウス=モンレー。時計屋だ」
私は慌てて、
「私はナノです」
……って、私の方も一度名乗ってるのかな。よく分からない。
「ユリウスさん、ありがとうございました。今度は私が玉露をご馳走しますね」
「出来ればここには来ない方がいい。たいていの場所では歓迎してもらえるはずだ。
時計屋など、思い出すものではない」
「?」
何だか『時計屋』という言い方に引っかかりを感じる。
時計屋は時計屋。この世界では嫌な意味でもあるんだろうか。
けれどユリウス氏はもう仕事に戻ってしまった。
……というか玉露の方は完全にスルーされた。
この世界の人間はどいつもこいつも『玉露』の凄さが分かっていない。
玉露こそ日本の芸術の極み、日本人の心なのに。
私は温かい思いと寂しい思いを半々に、ユリウスの部屋を後にした。

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