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■昔のグレイ

私は窓辺に腰かけ、ココアを飲んでいる。
そして専用厨房の窓から、夜景を眺めていた。
夜景がよく見えるよう、わざわざ厨房の灯りを消して。
満天の星にきらびやかな地上の星たち。クローバーの国は本当に景色がきれいだ。
どこからか聞こえるクジラの鳴き声も幻想的な気分をかきたてる。
――そういえば、あのクジラって何なんでしょうね?
何となく玉露の袋をなでながら考える。
今度ナイトメアに聞いてみよう。
私はもう一度ココアを飲む。
今回のココアでは、ココアバターの含有量を一割増やしてみた。
カロリー的にはよろしくないのだけど、脂肪分が増えただけあって味がまろやかになりコクが出る。とはいえ、もう少しカカオの味わいも強くしたいところだ。
――やはりブロマプロセスも再評価してみるべきでしょうかね。
酸味は強くなるけど、その分ココア本来の味に近いと言える。
――グレイにも意見を聞いてみて……グレイ……。
私はふとココアを飲む手を止める。
真っ暗な厨房に月明かりが差し込む。
グレイはどうしたんだろう。
ユリウスの話をした途端、激しく動揺した。
その後もほとんど口をきかず、手をつなぐこともなく、塔で別れるとき、ろくにあいさつもしなかった。
首をかしげるしかない。
ユリウスが原因なことは確かだ。
時計屋ユリウスは世間での評判が悪い。
はなぜか知らないけど『葬儀屋』という蔑称で呼ばれ、避けられていた。
でも一緒に暮らして、ユリウスの仕事に軽蔑すべきものは何一つ感じなかった。
むしろ尊敬に値する崇高な仕事だとさえ思っていた。
グレイは職業差別をする人には見えないのに……。
ココアが苦くなった気がして私は窓辺から離れた。
「珈琲でも淹れますかね」
歩いて、珈琲豆の棚を吟味する。
「やはりブルーマウンテン、いえたまにはブレンドもやりますか」
そして何をブレンドすべきか……とうなる。
とりあえず、暗い中を手探りし、いくつか豆の小袋を適当に出した。
――あ、そうだ。買ってきたエプロン!
いそいそとテーブルに置かれた紙袋のところに向かう。
珈琲豆の袋は脇に置き、紙袋を開けてにんまり。
これをつけたら気分が出るに違いない。
「さて、灯りをつけますか」

「ナノ」

私は顔を上げる。
厨房の入り口にグレイが立っていた。
「あ、グレイ。いらっしゃい。すぐ灯りをつけますね。
それと、ちょうどココアのご意見を聞きたいと思っていたんです」
グレイはこちらに近づいてくる。
気のせいか無表情だった。仕事で疲れているのだろうか。
「いい。どうせ奴の事を考えていたんだろう?」
その言い方は妙に意地悪かった。
奴?ブラッド=デュプレのことは極力考えないようにし、ひどい悪夢はナイトメアが追い出してくれる。グレイは本当に世話焼きだ。
もう私は安全圏にいるというのに。
「グレイ。私は大丈夫ですよ。私のことなんか、あまり気に……」
言葉は途切れた。
グレイが目の前にいた。
厨房が真っ暗なせいだろうか。距離があまりに近い気がする。
私は思わず後じさる。するとグレイが一歩近づく。
私はさらに後じさる。またグレイがこちらに踏み出す。
後じさるだけ距離を詰められる。私は後ろに下がりながら
「グレイ?あの……」
どうしてだろう。グレイが何だか怖い。
何も言わずに近づいてくるからかもしれない。
やがて私の背が壁についた。
全く分からない。グレイはどうしたんだろう。
私は横から逃げようかと考えた。
「っ!」
グレイが私の頭の側にそっと両手をつく。まるで逃げ道を塞ぐように。
「あの……」
それ以上声が出ない。
真っ暗な中、月明かりにグレイの顔がかすかに見える。
本当に無表情だ。
私は混乱する。
グレイは初めて会ったときからずっと私のことを心配してくれた。
時には私のために戦ってくれた。
マフィアに捕まったときは私を助けるべく裏で尽力してくれた。
彼がいなかったら、私は今頃エースかマフィアにどんなひどい目に遭わされていただろう。
そんな大恩ある彼が、いったいどうしたのか。
「俺は……」
「!」
グレイの手が、ゆっくりと私の頬を撫でる。
もしかしたらココアの粉末を気にしているのだろうか。
そういえばエプロンを忘れていたから、そんなにきれいじゃない。
何だかお風呂に入りたくなってきた。
思考が散漫になりかけるくらい私の頬を撫で、ようやくグレイが口を開いた。
「俺は、昔の俺を思い出すのも嫌だった」
「へ?」
あれ。これは悩み相談か何かのシーンなんだろうか。とりあえず、
「昔のグレイですか?きっと昔も頼りがいがあって真面目だったんでしょうね。
勉強熱心で、クラスのリーダーで、官僚のエリートコースみたいな」
我ながら貧弱だけど、そんな想像しか出来ない。
するとグレイがフッと顔を和らげ、
「いいや。全く違う」
厨房に入ってきて初めて笑った。ほんの少しだけど。
けれど私はその笑顔に安心した。グレイは続けて、
「昔はろくでもない男だった。悪い事をしていた時期があったんだ」
「そうなんですか。グレイが悪い男なんて、想像がつかないですね」
本当に意外だったので、呑気に首をかしげた。
「ああ。思い出すと情けないやら恥ずかしいやらで……。若かったと赤面してしまう……」
ううむ。これは本当にお悩み相談コーナーの流れかもしれない。
私に悩みを相談されても答えられるのは嗜好飲料の入れ方くらいのものなんだけど。
まあ、とりあえずグレイのためなら何でもしたいので話を進めることにした。
「それで、何で昔のご自分を思い出されたんです?」
「ああ。力を借りる必要があったからな」
「力?」
意味を考える前に、ただでさえ間近だったグレイが一層距離を詰めてきた。
近い。本当に近い。息がかかる。
「あ、あの、グレイ……」
もう悩み相談なんていう距離ではない。
けれどグレイはそれに答えず
「騎士や、帽子屋や……時計屋に、君を攫われる前に」
「?」
グレイの顔が見えない。月が雲で陰ったのだろうか。
「ぐ、グレイ……」
「遠慮などしなかった昔の自分に……今だけでも戻れるように!」
何か問おうとした私の言葉はついに出なかった。

グレイが私を強く抱きしめ、唇を塞いだ。

2011/04/16

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