続き→ トップへ 小説目次へ ■ブラッドとpH そしてしばらく経った昼の時間帯。 私は厨房に相談に来ていた。 「それで、どうしても、ココアから酸味が取れないんですよ」 「それは困りましたね」 厨房の料理長さんも困ったように言ってくれた。 彼らとはすっかり顔なじみになってしまった。 「私たちもいろいろ調べているんですけどね」 私のココア作りは終わりが見えない。 完成はしているけど、どうも味に納得がいかないのだ。 呆れるほど作り直し、酸味以外は克服出来ていると思う。 グレイもナイトメアも美味しい、もう十分だと言ってくれるのだけど。 「チョコレートの製法を書いた本は多いんですが、ココアはね……どうぞ、ナノさん」 「ありがとうございます」 頭を下げ、差し出された、無愛想なブロックチョコレートを受け取る。 口に頬張ると、市販のものより甘さ控えめで、なめらかさがある。 カカオの香ばしさはグッと引き立てられ、甘さに依存しない、チョコレート本来の美味しさが口に広がった。 これは何と、あのカカオ豆から作った本物の『手作り』チョコレートだ。 カカオ豆を厨房の人たちが仕入れてくれたときのこと。 私はカカオ豆を仕入れてくれた厨房の人にお礼を言った。 けれど厨房の人たちも食べ物へのこだわりがあり、カカオ豆に興味津々だった。 カカオ豆を少しわけてくれないかと言われ、もちろん私は了解した。 それから料理人さんたちはカカオ豆を使い、長時間の作業を交代で分担。 何と本物のチョコレートを完成させてしまった。 もちろん自分たちが食べるだけではない。完全無添加の触れ込みで会合のデザートに出し、好評を博したらしい。さすが本職は違う。 「酸っぱい香りは、練り込み作業中も発生しましたね。正直、あの匂いがきつくて、途中で止めようかという話もあったくらいなんです」 でも役持ちの方々に喜んでいただくために頑張りました、と料理長さんは笑った。 その職人意識に私はため息をつくしかなかった。負けていられない。 ……で、それからさらに時間帯が経っても私の問題は解決しなかった。 「酸味……低いpH……ああ、どうしてもあれだけはダメです」 相変わらず厨房の帰り、私はいただいたブロックチョコをかじりながら頭を抱える。 今や私の頭は、手作りココアのきっつい酸味をどうするかでいっぱいだ。 すり潰しの時間を長くしても、ココアバターの含有量を変えても砂糖を増やしても治らない。 「ああ……どうすればいいんですか……」 「やあ甘い芳香をまとわせたお嬢さん。何かお悩みかな」 出会い頭に声をかけてきたブラッドに、私はブロックチョコを飲み込みながら、 「ええ。酸味が強いんです。pHが低くてとても悩んでるんです」 どういう悩みだ。 というか相手が誰か分かって話してるのか、おまえ。 もしかしたらブラッドもそう思っていたかもしれない。 この会話に関し、私が正気に戻り、壁に頭をぶつけてのたうち回ったのは後の話。 けれど、そのとき私は因縁ある相手に普通に話しかけたしブラッドも普通に返答した。 「pHが低い。ならアルカリでもぶちこめばいいだろう」 …………。 pHが低いのならアルカリを使えばいいじゃない。 byマリー・アントワネット い、いや違う。フランス王妃は水素イオン指数などに興味はないはず。 とにかく私は叫んでいた。 「それだぁーっ!!」 そしてブラッドの手を強く握り、事情を一切知らない彼に 「ありがとう、ブラッド!さっそく中和してみます! 抗酸化作用は減少するかもしれませんが、ポリフェノールは残っているから問題ないですよね!!」 ブラッドも私の手を握り返し 「そうだろうとも、愛しいお嬢さん。嗜好飲料を前にした君はいつでも理解不能な次元に吹っ飛び、私を驚かせてくれる」 「パルチミン酸とステアリン酸が飽和脂肪酸だから仕方がないですよ!!」 「私の提案が何やら君を狂喜させていることだけは嬉しく思うよ」 「そうですよね!やっぱりバンホーテンは偉大です!!」 「幸運を祈るよ、お嬢さん。君の頭の幸運を」 「はいです!!」 そう言って、ブラッドの手を離し、私は駆けだしていく。 ちなみに眼中にはなかったけど、そのときブラッドと一緒にエリオットがいた。 彼はその後『ナノの話が分からねえ、というかナノが分からねえ……』としばらくうなされたとか何とか。 とにかく、アルカリでカカオ豆の酸性を中和する。 それはかのバンホーテンが開発したダッチプロセスという工程なことも後で知った。 そうして、約十時間帯後。 「出来た……」 目の下に凄まじいクマを作った私は呟く。 そして口に含む。 色、風味、香り、のどごし。 全てが市販と遜色のない、いやそれ以上だ。 グレイのための特製ココアが完成した。 3/6 続き→ トップへ 小説目次へ |