続き→ トップへ 小説目次へ ■時計屋さんと失われた記憶・前 窓の外はうららかな昼の陽気である。 対して陰気な室内では、 「いきなり人の耳元で大声を出す奴があるか! 用があるなら普通に呼べばいいだろうっ!!」 時計職人氏に、私はガミガミ叱られていた。 「だから何度も呼んだんですよ」 私に耳元で怒鳴られ、ひっくり返って額をすりむいた時計職人氏。 彼は、私に延々と怒鳴り続ける。 「大事な時計修理の最中だったんだぞ! 手が滑って時計を傷つけていたら、どう責任を取るつもりだったんだっ!!」 「玉露飲みます?」 「緑茶など飲むか! まったく、これだから女は……」 ブツブツぐちぐち。というか女は関係ありませんがな。 時計氏は、とてもうっとうしい人だった。 「で、なぜまた来た?」 「え?」 思わず聞き返す。 「他のところで滞在を断られてすごすご帰ってきたのか?」 「……っ?」 突然そう言われて驚く。『また』来た?すごすご『帰ってきた』? 「あ、あの、私とあなたはお知り合いなのですか?」 案の定、眉をひそめられた。 「ついこの間会って、もう忘れたのか?おまえ、記憶は大丈夫か? そういえば最初と言動や態度が少し違うな」 「最初……」 私は素直に言った。そして、自分が何も覚えていないことを思い出す。 「あの、私、記憶喪失みたいなんですが……」 「は?」 時計職人氏が目を丸くした。 ………… 「ここだ。治りかけているが、少しこぶになっているな」 「痛い痛い、押すと痛いです」 「あ、ああ。すまん」 私は時計氏に頭を点検されていた。 「頭をぶつけたなんて気がつきませんでした」 「恐らく、転ぶかして頭をぶつけたんだろうな。そのショックで」 そういえば、起きたとき木の根元に倒れていたっけ。 どうも私は一度この時計職人氏と会ったようだ。 その後に塔を出て、すっ転んで記憶を失ったらしい。 「……なんてベタな」 「ああ、ベタだな」 時計職人氏も神妙な顔でうなずく。 「なら、ベタにもう一度頭をぶつければ治るのではないですか?」 だけど時計氏は首を振った。 「止めておけ。恐らく治らない」 なぜか妙に確信的に言われた。 「治るんでしょうか?」 「通常の記憶障害なら治るときもある。だが、おまえの場合は治らないだろう」 「ええー」 引っかかりを感じる言い方だけど、あまりにもキッパリと断言されたので、反論が ためらわれた。私はちょっと泣きそうな気分だった。 ………… とりあえず来客用のソファに座らされた。 そして時計職人氏は、私にコーヒーカップを差し出してくれた。 「珈琲だ。おまえの緑茶ほどではないが、上物の豆を挽いている」 「ありがとうございます」 お礼を言ってカップを受け取る。 「美味しい……」 珈琲の苦みとミルクの甘みが絶妙に溶け合っている。 時計職人氏は『改めて』私のこの世界のことを説明してくれた。 「ここは日本ではない。おまえは、別の世界からここにやってきたんだ」 「へえ、大変ですね」 私は素直に驚く。時計氏は珈琲を飲みながら、 「……おまえ、のんびりしすぎじゃないか?」 「そうですか?」 そして、私をまじまじと見ながら、 「記憶喪失で毒気まで喪失したか?最初のときはもう少し普通の反応をしていたぞ。 錯乱して白ウサギを殴っていたし『ここはどこなんですか』と、泣くわ喚くわ……」 「白ウサギ? 殴った」 私は首をかしげた。 それは尋常ではない。 というか錯乱していても、いちおう敬語だったらしい。 3/4 続き→ トップへ 小説目次へ |