続き→ トップへ 小説目次へ ■顔なしの物語・下 私は街を歩いていた。 会合期間中の塔下商店街は賑やかだ。 行き交う人も美男美女が多く、平凡な顔立ちの私なんか見向きもされない。 それを良い事に、私は誰にも何も言わず、買い物に出て来てしまった。 いちおう、今も何度も何度も後ろを確認している。 良からぬ人にも、つけられてはいない。 出てこずにはいられなかった。料理長さんに渡されたお金を見た瞬間に。 意図していなかったとはいえ、この世界に来て初めて稼いだお金を見た瞬間に。 足取りが軽い。景色が全て鮮やかに色づいて見える。 私は息を乱し、ほとんど小走りにウィンドウの中を見て回る。 私が堂々と稼いだお金。何を買ってもいい。 「何を買いますかね」 ココアの本が欲しい、珈琲の本も、紅茶の本も。 お世話になったナイトメアへのお礼の品も買いたい。 頑なに遠慮しているけど、本当は新しい服や靴もちょっと欲しい。 とはいえ、封筒の中身を見てため息。 そんなに長い時間手伝ったわけではないから当たり前だけど、多くは入っていない。 「頭を使って買い物しないといけませんね」 頭を使う……私の一番苦手なことだ。 「うーん、必要な本はとりあえずハートのお城でもらってきましたし。うう」 頭痛がしてきた。もらってきた経緯に関しては思い出したくも無い。 本は速攻で除外し、服や靴も、今ある物で足りているからと除外する。 「となると、ナイトメアへのお礼ですかね」 多分何を買っても喜んでくれるだろう。 でも彼はこの国の領主だ。 安物は買いづらい。 「ケーキセットですかね。でもそれだと逆にお金が余るかな」 かといってお金が無くなるくらいたくさん買えば、ナイトメアのことだ。 ご飯が食べられなくなるに違いない。 「だとするとナイトメアとグレイと私、三人分を買ってお食事の後に食べるとか……」 いや、待てよ。それだとこっそり外出したことがグレイにバレる。 自分が叱られるだけならまだしも、料理長さんたちにお咎めが行くのだけは嫌だ。 私は困ってうめく。やっぱり自分は頭が悪い。利口な買い物なんて苦手だ。 「やっぱり塔に帰りましょうか……」 そう思ったとき、小さな店が目に入った。 「まあ、珈琲を飲みながら考えますか」 私は鼻歌を歌いながら、あまり客のいない珈琲ショップに入り、ブラック珈琲を注文する。 外は温かい昼。そこはたくさんの人であふれ、ざわめいている。 遠くのオープンカフェではスタイルのいい美人が長い美脚を組んで友人と談笑している。 別の店では親子連れが大きなチョコレートパフェを一緒につついてはしゃいでいる。 私は顔なしの店主が出してくれた珈琲を一口飲み、目を見開く。 「すごい。エルパルゴマウンテンって、こんなに重厚に出来るんですか」 私の言葉に、顔なしの店主は感心したようだった。 「分かるかい?個性がないと思われているけれど、深煎りすると味が出るんだ」 「ですよね。でも煎り方が難しくて私も……」 それから私は店主としばらく珈琲の話をした。 決して名は出さずに、ユリウスのことも交えて。 「厳しい師匠にしつけられたんだね。話を聞いただけでも分かるよ」 「えへへ。でも領土が違ってたから、引っ越しで別れちゃいまして」 こういうことを話せるくらい、自分は新しい国に馴染んできたのだと思う。 すると店主さんが思わぬことを言った。 「それじゃ、今は師匠がいないのか。なら、うちで働くかい?」 「え?」私は目を丸くする。店主さんは手早くサイフォンで珈琲を攪拌しながら、 「マフィアの抗争の流れ弾で店員を失ってね。住み込み従業員を募集しているところなんだ。 珈琲好きの人は大歓迎だよ」 唐突な申し出だったけど、私の心は大きく揺れた。 もし、こんな美味しい珈琲を淹れる店で働かせてもらえたら……。 それは、あの時計塔にも勝る平凡で穏やかな時間になるだろう。 でも胸が痛い。グレイやナイトメアにお礼をせず、突然お別れする事を考えると。 そして帽子屋ファミリーのボス。 彼のことを考えるだけで、彼に忘れられることを考えるだけで、なぜこんなに胸が痛いんだろう。 でも、いつまでも権力者の庇護に頼って生きてはいられない。 「ええ、ぜひお願いします」 私はうなずいた。お世話になったお金は働きながら少しずつ返していこう。 顔なしの店主さんは顔を輝かせて私に、 「それは助かる!じゃあ、詳しいことを奥で話そうか」 と私を手招きする。いきなりのことで、皆はきっと驚くだろう。 ――でもこれで、良かったんですよ。 そして私は胸の痛みを無視して立ち上がった。 店主についてカウンターを越えようとしたとき。 瞬間、鼓膜を破るような爆音がした。 「……?」 私は目を開けた。傷だらけで、店の……店だった場所のあたりに倒れていた。 感じるのは煙の匂いと炎の匂い。聞こえるのは悲鳴と泣き声とうめき声。 見えるものは……とても、とても嫌な物ばかり。 「あんたは大丈夫そうだな。運がよかったね」 「っ!!」 私のすぐそばに、顔なしの店主さんが倒れていた。 ……彼の方は手遅れだ。私でさえ見た瞬間に分かった。 けれど店主さんは、 「マフィアの抗争が多かったからなあ。やっぱり店を建てる場所を間違ったな」 目前の運命を前にして、顔なしの店主さんはあまりにも呑気な声だった。 私は返答出来ない。 『マフィア』という言葉に、ただ傷だらけの拳を握る。 「あんたも悪かったね。うちの店に入ったばかりに巻き込まれて」 「そ、そんなこと……」 震える自分の声。額から、ぬるりとした生温かい液体が落ちるのを感じる。 私も決して無傷ではない。店主さんの声が少しずつ遠ざかっていく。 「まあ、顔なしにはどうにも出来ないよ。仕方がないさ」 諦念というには残酷すぎる、悟りきった声。 「ああでも。もう少し、いろんな珈琲を飲みたか……」 それきり店主さんの声を聞く事はなく、私の意識も闇に沈んだ。 2/6 続き→ トップへ 小説目次へ |