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■顔なしの物語・上

それから少しの間、時は平穏に流れた。
争奪戦の事件以来、神経質になったグレイは、私に対してさらに過保護になった。
私は、事が落ち着くまで安全な場所を出ないようにと言われ、お茶を飲んでのんびり過ごしていた。
ブラッドにもエースにも会う事はなく、私は守られ、何ごともなく時は過ぎ去るように思われた。

その時間を進めたのは私自身だった。

塔に帰還してからしばらくして、私は厨房に来ていた。
そして、私の話を聞いた厨房の料理人さんは呆れ顔をした。
「それは無理ですよ。ナノさん。カカオ豆を個人で購入しようなんて」
「そうですか……」

グレイ=リングマーク。
私のためにエースと戦い、ブラッドと戦い、他にもたくさん気づかってくれた人。
グレイ(それとお世話になったナイトメア)のために最高のココアを淹れたい。
けれど市販のココアは、牛乳を入れるだけというもので、種類も限られる。
それはそれで生産者さんたちの努力の結晶なのだけど、そこまで出来上がっていると私たち消費者がこだわれる余地はほぼ皆無だ。

だからココアの原料であるカカオ豆を手に入れたい。

でもナイトメアが用意してくれた専用厨房にもさすがにカカオ豆はなく、それで厨房の人に仕入れられないか聞きに行ったのだ。
「カカオ豆は普通の店では扱っていないでしょうね。
それくらい、個人で扱うには手に余る代物なんです」
「そうなんですか?」
顔なしの料理人さんは、魔法のような手つきでケーキにクリームを飾っていく。
「ええ。焙煎まではいいとして、問題はその後です。
焙煎したカカオ豆、つまりカカオマスに圧力を加えてカカオバターを抽出する。
これなんか機械がないと、とても力のかかる面倒な工程です」
「ふむふむ」
私は横で珈琲を淹れている。
突っ立って料理人さんの話を聞いているのもアレなので、私は皿を運んだり、会合の客用の珈琲や紅茶を淹れたりと、自分に出来るお手伝いをしていた。
料理人さんも一緒に作業をしながら、
「それを手作業で乗り越えたとして、それでチョコレートを作れるかといえば、それはほぼ不可能です。
カカオマスに砂糖や牛乳を加える事は出来ても、その後に地獄の『コンチング』があります。
温度を一定に保ったまま三昼夜休まず、チョコレートの元になるペーストを練り上げるんですから」
「ふむむむむ……」
別にチョコを作る気はなかったけど『ココアのついでに作れませんかね』くらいの軽い気持ちだった私は、思わぬ壁にうなる。
別の顔なしさんがトレイにカップを並べながら補足してくれた。
「ですから、今のチョコレートが作られるようになったのは機械化の進んだ十九世紀以降のことなんです。
それまでは単純にカカオ豆を湯に溶かして砂糖を加えた元祖ホット・チョコレートの時代が紀元前から続いてたんですから」
「なるほど、なるほど」
五十くらいのカップに手早く淹れ立て珈琲を注ぎつつ、私はうなる。
――というか不思議の国なのに、相変わらず元の世界の歴史が中途半端に混ざってますよね。
日付の概念がないはずなのに『三昼夜』とか普通に言われた。
もうこれは永遠の謎と割り切るしかないのか。
そして、仕入れ担当の料理人さんは
「とはいえ、ココアを作るだけなら不可能ではないと思いますよ。
とりあえず業者には当たってみましょう。たまに、そういった物が出回ることはありますから。
努力はしてみますが、あまり期待はしないでくださいね、ナノさん」
「いいえ、本当にありがとうございます」
保温カバーを珈琲カップにかぶせおわり、私は手伝いのために借りたエプロンと帽子を取って、料理人さんたちに頭を下げた。
グレイのためと言い訳しても、ずいぶんお仕事を邪魔してしまった。
でも料理人さんたちは口々に『助かりました』『いつでも来てください』と笑ってくれた。
誰も彼もが職人肌で、本当に優しい。
何で役持ちの人たちは(グレイでさえ)彼らを『顔なし』と蔑むのだろう。

「あ、ナノさん。ちょっと」
厨房を出ようとしたところで、私は料理長に呼び止められた。
長居した自覚があるので、ドキッとする。
厨房では会合の客のための、大事な食事を作っていたのだ。
――うう、そ、それは『作業の邪魔ですから以後ご遠慮を』とか言われますよね。
たじたじで声も出ない私に、料理長さんはにこやかに、
「少ないですが」
と封筒を差し出した。
「へ?」
顔なしの料理長さんはニコニコしている。
「『料理が気にくわない』と料理人が撃たれる事態が多発して、困っていたんです。
あの珈琲、味見させていただきましたが、お見事でした。
あなたの作と知らなくても、役持ちの方々はきっと満足されるでしょう。
本当に助かりました」
戸惑う私の手を取り、封筒を握らせ、では、と料理長さんは厨房に戻っていく。
私はよく分からず、何のメッセージが入っているんだろうと封筒を開けた。

お金が入っていた。


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