今年度の担当が記された書類を配られて、黄瀬は知らず知らずピアスをいじった。「高校二年生1、2組 英語」黄瀬涼太の欄に記された文字を確認して、一度プリントを置き、別の書類を探し始める。新年度のクラス名簿を取り出し、青峰大輝の文字を探す。記憶と変わらず、やはり1組の欄にその名前はあった。運良いのか悪いのか分かんねーな。二年連続担当になるとは。あれから、事務的な会話をすることはあったが、昔のようにじゃれ合うことはなくなった。当初は絡んできた青峰も、今では出来る限り近付かないようにする努力をしていた。身長伸びたな、英語の成績ちょっとずつ上がってるな。そんな成長の一つ一つを近くで見守れることは、黄瀬の本音としては嬉しかった。ただ、どんなにあがいても、自分から突き放した以上はもう自然に笑い合えることはないのかと思うと、笑顔を見るたび息がしづらくなった。


 新学期が始まり二学年に進級しても、顔ぶれが変わるわけではない。騒がしい教室の中で、ネクタイに伸びなくなった人差し指を青峰はずっと追いかけた。今になって気付いたが、あの仕草は恐らく黄瀬の警戒を紐といた証だった。梅雨が終わり夏が近付き、蒸し暑くなっても、きっちりと締められたネクタイの結び目を、苦々しい気持ちで見つめた。
「青峰くん、補習ね」
 この頃、補習にかかる点数は取らなくなったのに、とポーカーフェイスの下で黄瀬は苦虫を噛みつぶした思いだった。試合が毎週続いたのは知っていた。だから授業中の昼寝の頻度が上がっていたことにも、目を瞑ってしまった。起こせば良かった。他に補習にかかる点数の生徒を頭の中で探したが、思い当たらず。二人きりだったらどうしよう。久方ぶりに息苦しさを感じた。


 黄瀬に言われる前から、青峰は律儀に一番前の席に座った。さすがに真前に座る勇気はなく、黄瀬は教卓の前に椅子を置く。一年前の状況を繰り返すように、同じ爽やかな夏の空気が漂った。
「プリント解いたら渡してね」
 ちゃんと笑えていただろうか。心配しつつ、黄瀬は違う仕事を進めた。しばらくして無言で返されたプリントの解答欄が全て埋まっているかざっと目を通し、赤ペンを手に取った。黄瀬がたんたんと丸つけをしていく、そのペンを動かす音だけが部屋の中で息づいていた。夕暮れが、黙りこくったイエローオレンジと濃紺を包む。
 青峰がぽつりと黄瀬を呼んだ。
「せんせー」
「…なに?」
 黄瀬が顔を上げて青峰に視線を定めた。久しぶりに深い海の中に沈んでいく感覚を味わう。
「…せんせー、好きだよ」
 低くて安心する、黄瀬が好きな声。甘えるような、不安だとすがってくるような、気持ちが溢れるこの声に対して、俺が返さないといけない言葉はただ一つ。黄瀬はにっこりと微笑んだ。目を細めて、皆に見せる黄瀬涼太の顔で、綺麗に微笑んだ。
「俺も青峰くんのこと好きだよ」
 教師として思いを伝えることしか出来ない。ちゃんと笑えてるかな。ひきつってないだろうか。青峰は、一瞬だけ目を見開き、眉をひそめて俯いた。黄瀬は、手元のプリントに意識を集中することだけ務めた。耳触りな物音を鳴らして、青峰が机に突っ伏した。
「…………………好きだ」
 かすれた声に心臓を掴まれる。黄瀬は止まってしまいそうになる手を必死で動かした。その間も二人の影は少しずつ長くなっていった。古くなった机は、もう二度と新しくはならない。

 何とか採点し終わったプリントを青峰に返した。黄瀬は、声を出す前に無機質なピアスに触れて気持ちを静める。
「一問だけ間違ってたよ」
 震えていない自分の声に少し安心した。もう帰れる、それだけを念じて、笑顔を取り繕った。
「どこ間違ってた?」
 青峰にそっけない対応にも黄瀬は胸を撫でおろした。良かった、なかったことになっている。そう思うと、乾いた口の中が少しずつ湿ってきた。
「大問二の、」
「先生、俺、どこで間違った?」
 溺れる、と感じた。いつからか俺が身勝手に求め続けた海が波を寄せる。眼力のある双眸が黄瀬を射抜いた。
「俺が、最初っから、間違ってた」
 素の黄瀬涼太として答えずにはいられなかった。苦しそうで儚い笑顔に青峰は思わず息を飲んだ。もう帰っていいよ、と手を振られる。追い払うような動きに、一度決心が鈍ったが、これ以上ここにいると止められなくなりそうだった。青峰は教室から出て行き、後ろ手に扉を閉めた。黄瀬は前髪をかき上げると、湿った息を長く吐き出した。乱暴にネクタイを緩めても一向に喉のつまりは解消されない。長くなった一人分の陰は、居場所を求めて壁にまで伸びていた。


NEXT





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -