君が君であるということ


こんなにも、誰かを近く感じることはなかった。当たり前だ、僕はひとりだったんだから。いつまでも、これからもずっとそれが続くと思っていたのにそいつは急に現れた。そして、今まで聞いたこともないような言葉を連ねる。

僕にとっては、もう充分すぎるほどこんなにも近いというのに彼女はもっと近くにという。分からない。ひとりだったから、人との距離感なんて分からない。


「…ねえ」
「……。」


…冗談だろ、寝てるし。


壁に背中を預け器用に寝息を立ている姿に、誰に聞かれるでもない溜息を零した。先ほどから彼女の言葉には確かに覚束無いものがあったが、まさか本当に寝てしまうなんて。というより、よくもまあこんな状況で眠れるもんだ。怖くないんだろうか。


…そっか、何も知らないんだ。


彼女は、僕のことを何も知らない。いや、もしかしたら知ってるのかもしれないけど、彼女自身の口から僕の話を聞いたことはなかった。


昨日も、一昨日も、もうずっと前から見慣れた破片のきらめきが頭を過ぎる。深い色に沈んだ、名前も知らない誰かの瞳が思い浮かぶ。


ただ、壊して、壊して、壊して。


そんな繰り返しに不満はなかった。壊すことは楽しいし、面白い。自分にとっては、それ以外ないのかもしれない。それでも良かった。疑問も持たなかった、壊し続けるだけの自分の存在に。今もそうだ。そしてこれからも、変わらないだろう。


何気なしに、ポケットにある趣味の悪いヘアピンを取り出しぐるりと眺めた。なんかキラキラしてるし、なにこれ。


本当、余計なお世話だ。
しかも、勝手に何か勘違いでもしたのか物凄く気まずそうに言葉まで付け加えて。意味が分からない。


僕はいらないと言った。なのに何故、手元にあるのだろう。突き返すタイミングを逃したといえばそうなのかもしれない。

怒ると思ったんだ。なのに、まさかあんな表情をするなんて。見たことも、想像もしなかった弱々しい笑顔にひどく気分が悪くなった。


指先に力を加えると、か細いそれはぎしりと軋む。ほら、簡単だ。あとほんの少し力を加えてしまえば、何事もなかったかのようにあまりに簡単に折れてしまう。



ぎしり、ぎしり、と。



だけど、止めた。


一瞬過ぎったあの表情に、やっぱり気分が悪くなったから。当初と変わらない形を保ったそれをポケットに戻し、膝に顔を埋めた。

寝息を立てる美羅が、起きる様子はない。いつも、こんな時僕は何をしてたっけ。この空間で、僕は何をしてたっけ。この暗闇に響いていた、あの煩い声が今は静かな寝息とすり替わっている。不思議だ、なんだか気味が悪い。聞きなれた機械音だけが、嫌に耳に届く。アイツの声が聞こえないと、こんなにもここは静かだったのか。



壊すだけの僕を、彼女はどう思うだろうか。こんな僕でも、近づきたいと言うんだろうか。

無防備な姿に、指先を伸ばす。

簡単、こんなにも簡単。いつだって壊せる。いつだって傷つけることができる。そのいつが、いつ来るかは分からないけど。



「…なんで来ちゃったんだろうね」



君は、きっと分かってないんだろうね。自分の存在の意味を。僕は気づいていた。だから、僕にとって君という存在は無意味だと思っていた。必要なんてないって。

僕はここから、どこかに行こうなんて思わない。行きたい場所もない。この場所にいる意味なんてないけれど、逃げたいなんて思いもしない。
だって、理由はないけど利用されているつもりもないんだから。

それなのに、用意された鎖。間抜け面を浮かべている、鎖。指先で触れる、鎖。



「君って、ほんとひどいね」



何も知らないんだろう、どうせ。だけど、君に与えられた僕への役目はそういうこと。だから、憎まずにはいられない。憎まずにはいられない、のに。


壊すことは、楽しい。
たけど、その周りはどうだっていいんだ。
暗黒星雲なんて、正直どうだっていい。僕がここにいる意味も、どうだっていい。散らばった鉄の欠片も、どうだっていい。明日になれば忘れてる、絶望に立ちすくむ名前も知らない誰かのことも、どうだっていい。


だから、そう。


彼女のことも、どうだっていいと言いたいのに。


「…苛つく」


自分でも分からない、痛い。


無意味なんかじゃなかった。言葉を交わす度、その姿を現した。君は確かに鎖だった。





20121230








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