21 暗くて、綺麗だなあ。 小さい頃から同じ感想を抱くくせに、語彙力は全く成長していない。 閉館間際の水族館は、人も疎らでとても静かだ。 青の世界をゆったりと泳ぐ魚の姿に、本来は心を緩め、落ち着かせることが正解なのだろう。実際、その姿に癒されてはいる。そういう意味で、この静けさは非常に空気が読めていた。 しかし、視界の隅で何かが動く度、緩んだ表情筋がぴくりと反応してしまう。いや、何かとは失礼だった。しかも、視界の隅というかすぐ隣である。信じられないのは、この状況を作り出したのは紛れもなく私だということだ。 なんで私、宇海と水族館に来ているんだ…? いや、確かに私が誘った、けど。 普通に考えればありえない状況に、勢いに任せた感情はハッと我に返ってしまった。確かに現状楽しんでいるのは事実だが、川の魚たち、クラゲの世界、ペンギンの国、なんて可愛らしい名称がついたゾーンを回り終え、ラストの大水槽に来る頃には、頭の中は疑問符で埋め尽くされたいた。そもそも、宇海があの場で誘いを受けてくれたことも、今となっては可笑しくて仕様がないのだ。まあ、断られても寂しかっただろうけど。 落ち着け…、と言い聞かせ水槽へと視線を移す。目の前に広がる、水と光と、泡の世界。 もう少し上手い言い回しはないだろうか。悩んでみても、やはり単純明快な言葉に落ち着いてしまうのは、勉強が足りないからなのか。それとも、まともに考える気がないからだろうか。所謂、現実逃避。 宇海はどうして、誘いに乗ってくれたのだろう。聞いてみてもいいのだろうか。嫌われてはいないはずだし、……多分。 今何を考えてるのか、それを知りたくて隣の表情を見上げてみる。 ……なるほど。 耐えきれず吹き出した私に、驚いた様子で宇海が振り返った。 「っ…ふっ…ふふ」 「……なに笑ってんだよ」 「い、いや、っふ…なんでもないんだ…」 "なんで俺、コイツとこんなとこに来てるんだ?" 私と全く同じ感想が、顔には書いてあった。 ◇◇◇ 「別に誰に言われた訳じゃなくて、本当に当たり前のことだと思ってたの」 隣から聞こえる、水野の声。 もうちょっとだけ、昔話をしてもいい? ひとしきり笑い終えた後、何かが吹っ切れたように水野は話し始めた。図書館での話から、相変わらず言葉が足りないなとは思っていた。あと表情も足りない。だけど、それは言わなかった。その無表情が、最早通常と分かっているから。そして、断片的に語られる内容を結びつけることは、あまりに容易だったから。 最大限努力することも、皆に好かれるような人柄で有り続けることも。嘘をついてるつもりもなかった。 だけど、それが当たり前じゃなくて、しがみ付いていただけなのかもしれない、演じていただけのかもしれないと思った瞬間、急に世界が変わったみたいで。 誰にも責められてなんかいないのにさ。認められない努力とか、悪意のない周囲の声とかに、今まで思いもしなかった本音が顔をのぞかせたら、もう完全にダメだった。ひとりで、ダメになっちゃった。 「母さんも、条ちゃ…仲の良い近所のお兄さんも、吃驚させちゃって」 ぽつりぽつりと、紡がれる言葉に何度相槌を打ちかけたか。だけど、それは音にも形にもならず、誰にも気づかれずに胸の中で消えていった。 「むしろ気づかなくてごめんだなんて、そんなことまで言わせちゃって」 物語性を持って、頭の中を巡るイメージ。でも、そこにいるのは水野じゃなかった。覚えのありすぎる姿だ、その正体は分かり切っている。そして、そいつはもういない。いや、きっとそんな奴初めからいなかったんだ。 水野の顔を見ると、少しだけ笑っているのが分かった。こいつ、こんな風に笑うのか。そんな、今更過ぎる感想を持つくせに、分かったことがひとつあった。認めたくなくて、気づかないふりをしてしていたもの。だけど、もう認めざるを得ない。 こちらの視線に気づいたのか、水野は言葉を止め首を傾げていた。 「俺達って、」 「あれ?水野さん?」 不意に出てしまった言葉は、後方からの声に遮られてしまった。振り向くと、どこかで見たような男の子が立っていた。記憶を辿っていくと、すぐに思い当たる人物がいた。あの人だ、講習の帰りに、ファーストフード店で友人達と盛り上がっていたひとりだ。ということは、あの時話に出ていたのは、やはり水野のことだったのか。 すると、水野が彼のものと思われる名前を呟いた。やっぱりか、と確信を得て視線を戻す。 そして、三度見した。 ここから起こる数分の出来事が、夏休み一の強烈な思い出になってしまうことを、俺はまだ知らなかった。 「久しぶりだね!中学以来かな?」 「だね。吃驚したよ、まさかこんな所で水野さんに会えるなんて」 「私も吃驚しちゃった」 だ、誰だお前ッ…?! にっこりと笑う口元も、光の宿った目も、跳ねるような音も、初めて見るそれだった。というより、いや、別人だろ最早。親し気に会話する様子は、なんの違和感もなく周囲の背景に溶け込んでいる。俺だけだ。普段の水野では想像もできないような姿に、俺だけが間抜けに口を半開きにしている。 会話の内容も頭に入らず、ころころと変わる水野の表情から目が離せなかった。リズムよく続く音の応酬。お前、そんなに話題を広げる力があったのか。完全に呆けていると、ふと彼からの視線を感じた。慌てて表情を戻して頭を下げると、彼はおそるおそるといった様子で口を開いた。 「も、もしかして彼氏ですか?」 「え」 「あはは、違うよ。友達」 あはは?!そんな軽やかな返しできたのかお前?! ないない、と言わんばかりに軽く手を振る水野。相手から追究を躱すような、媚びすぎず、素っ気なさすぎず含みのない笑顔と言葉。それには相手も、そうなんだ、と返すしかない。なんだこいつ、誰なんだコイツ。まるで、ふ、普通の女子高生みたいじゃないか!!驚きを超え、最早恐怖すら感じている俺に水野は一切視線を合わせてはくれなかった。 それからすぐ、じゃあまた、と彼が去っていくまで俺は一切動けずにいた。沈黙の後、水野が大きく深呼吸をした。振り向いた表情は、いつも通りの味気ないもの。それでも暫く固まっている俺を見て、その顔は小さく不満げに歪んだ。 「……言っとくけど、宇海だってこんな感じだからね」 いや、それはないだろ、絶対。 20210509 ← ×
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