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「……。」
「……。」

大きな窓から差し込む光を、顔面から浴びる。
…いっそこのまま溶かしてくれないだろうか。しかし、クーラーの冷気が届くこの場所では顔面が少し熱くなるだけだった。なんてことだ。


建物同士を繋ぐ渡り通路。設置された椅子へと腰かけ、数分が経過していた。ちらりと隣へ視線を向ければ、そこには変わらず宇海がいる。その現実にもう一度窓ガラスへ顔を向けるが、結果は同じである。

元々休憩スペースとして扱われているようで、多少の会話は静寂を保つ建物内には届かない。場所を変えようと提案したものの、こんな最適な場所があるなんて少し想定外だ。自ら整えてしまったシチュエーションでは、逃げることすら敵わない。



「あれって、どういう意味だ」



届いた声にハッとして、視線を向けた。

この青は、知ってる。


宇海の表情はいつも通りだった。先ほどの怒った様なものではなく、善なのか悪なのか、よく分からないそれ。
あ、やっぱり宇海だ。なんて当たり前のことを再確認して、何故か不意に力が抜けた。この目を見る度、距離感が分からなくなる。今自分が近づいたのか、遠ざかったのか、そんなことも分からなくなる。だけど、これが宇海だった。私にとっての宇海は、この距離にいる時が一番落ち着くのだ。


伸ばした手が空を掴む感覚。
だけど確かに、その青に掬い上げられた。



「天才だと思ってたの」
「は?」
「私、天才だと思ってたの」



あ、と思ったがもう遅い。
目を丸くする宇海を見て、彼の質問を無視してしまったことに気が付いた。実は質問の意味も分かっていないけれど。


自分でも不思議だった。今更な内容とはいえ、もう少し心が揺れるものだと思っていたのに。余りにも穏やかに言葉が浮かんでくる。
意味が分からないという表情は、私も同じだった。なんで今、言ってしまったのだろう。どうして宇海に言ってしまったのだろう。不思議だけど、後悔はなかった。そして抑えられない。

多分それには理由がある。その理由が分かった時、私は初めて宇海とのこの距離感に名前を付けられるよう気がした。今、追究する気はないけれど。



「だけど、本当は天才なんかじゃなかったんだ」
「…どういう意味だ?」
「凡人が頑張ってるだけって分かってたはずのに、いつの間に天狗になったんだか」
「おい」
「"天才は違うね"って、たったそんな一言で」
「……。」
「…随分周りを酷い目で見てたんだって気づかされて」



思い出す光景は、まるで映画の様に他人事。でも、映画にするにはドラマが欠けていた。山も落ちもない。だって、誰も悪くないのだ。私ひとりが気づいた本心が、私ひとりを失望させ、私ひとりを退場させた。情けないほど、空しいひとり芝居。



「結構酷い奴なんだよ」



あはは、と自然と笑ってしまったのは強がりではない。過去は過去だ。身の丈に合った生き方を知った今、消したいとも変えたいとも思わない。本当に、只の思い出なのだ。

なんだかすっきりしてしまい、ふーっと小さく息をついた。うーん、本当になんで宇海にこんな話をしてるんだろう。
それにしても、思ったより綺麗に言葉になった。なんだか今なら、条ちゃんにもちゃんと話せるかもしれない。条ちゃんには、もう頑張れないと大泣きした姿を見せてしまったからなあ。あれは良くなかった。間違いなく、私以上にトラウマになってしまったんだろう。大号泣だったもん、子供とはいえ。


覗き込む困り果てた表情。
痛んだ目元と喉。
耳に残る感情任せの情けない声。


苦笑いで思い出したワンシーン。

そこに、知るはずのない青が過った。




「私、宇海みたいになりたかったのかも」




無意識に出た言葉に心は追いつていなかった。本心かどうかも微妙だが、嘘ではないはずだ。宇海にしてみれば、言われ慣れてることかもしれない。随分と唐突に月並みなことを言ってしまったものだ。

あ、というよりも宇海の質問に答えてなかったじゃないか。


「ごめん、なんかひとりで喋っちゃった。あれってなんの話?」


慌てて視線を戻すと、その青は驚いたように星を散らした。
その意味が分からず問いかけようとすると、宇海はゆっくりと立ち上がった。あれ、どうしたんだろう、帰るんだろうか。
離れていく背中が見えなくなって、一、二分。ペットボトルを二本持った宇海が戻ってきた。差し出されたそれを、訳が分からずも受け取る。合っているかは分からないが、取り敢えずお礼も付け加えて。


……ん?


説明もなく、両手で只それを握りしめることしかできない。飲んでもいんだろうか。いや、ダメということはないだろうけど。隣の宇海に習うように、私もキャップ開け一口口にした。……思ったより喋り続けていたようだ。喉を通るお茶は、とても気持ち良く染み渡った。


「酷くねえよ」
「え?」
「多分、普通だよ」



暫く無言の時間が流れていたが、不意に届いた言葉。




「只の、普通の良い奴だよ」




喉が、きゅっとした。
その一音一音が星を纏っていた。

今、私、宇宙を呑んだ。



宇海が立ち上がり、ハッとして意識を戻す。その右手にはカバンが掛けられていて、今度こそ本当に帰るのだと分かった。
呆けてしまった頭では、かける言葉も取るべき行動も見つからない。慌てて名前を呼んでしまったが、特に理由はない。強いて言うなら、まだ別れ難い気持ちがあった。
……そ、そそそうだお金!奢ってもらうのもなんか変な感じだし。しかし、宇海は別にいいよと何の気なしに歩き始めてしまう。作戦は失敗だ。次の作戦はない。ど、ど、どうしよう。


後から思えば、自分でも大分混乱していたのだろう。開けっ放しの財布から見えた紙切れに、意味も理解せず再度声をかけた。



「す、水族館行かない?」



いや、何を言っているんだ自分。


突拍子もない提案の意味を、言葉が形を成してから気づいてしまった。案の定、振り向いた宇海はまた目を丸くしている。そして、怪訝そうな表情でこちらを見ているではないか。あんまりだ、恥ずかしすぎる。

訂正するのも今更おかしいし、どうしたものかと頭がフル回転する。視界の先で、宇海の口が小さく動いた。



「いつ?」
「え?あ、えっと、…こ、これから?」



その返事は予想外だ。
思わず流れで言ってしまった言葉に、再度頭を抱えた。怪訝そうな表情が、さらに何かを考えている。



数秒の沈黙の後、その口が動いた。




「いいけど」




え、いいんだ。




20210117








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