15 賑わいを失った教室には、ペンの滑る音がよく響いていた。時計の針は既に六時を過ぎており、校内に残る生徒はほんの僅かだ。本来ならば、屋外の部活動や校内に残る生徒の雑談で校内には静かな賑わいがあるが、明日が期末テストということもあり、部活動はなく生徒も帰り校内は静けさに包まれている。 毎度思うけれど、人がいなければ、ここってこんなに静かなんだな。居心地の悪い無音とは違って、この空気はなんとなく好きな気がする。そんなことを思いつつ、ノートに映る橙の光を眺めた。 「最近頑張ってるみたいじゃねぇか」 ふと頭上から聞こえた声に顔を上げると、そこには校内でも噂の黄色いスーツが広がっていた。相変わらず派手である。 「平井先生、どうも」 「お前ひとりか?」 「いや、カイジもいますよ。今はいないですけど」 息抜きだ!といってカイジが飛び出してから、もう30分は経つ。恐らく屋上にでもいってだらけているんだろう。今日は比較的涼しいから、居心地もいいだろうし。まぁ、クーラーの効いた部屋には適わないだろうけど。 カイジの脱走を察したのか、平井先生は小さく笑いを零しカイジの席を一瞥した。ふと見えた乱雑に散らばった筆記用具が、カイジの心境を表しているようで私もなんとなく笑ってしまった。 「勉強も感心だが、あと30分しないうちにここ閉めるぞ」 「はい」 そろそろカイジも戻ってくると思うし、切り上げるのにも調度いいところだ。後は、家に帰って少し見直して早めに寝よう。ぐっと伸びをしてから、帰り支度を始める。隣で施錠を始めた平井先生を見て、あんな形でも教師なんだよな…と失礼ながら思ってしまった。平井先生の数学は、分かりやすくて人気がある。同時に、大人の色気とでもいうのだろうか、その人柄に惚れたという人も多い。私も平井先生は好きだ。 全ての窓を確認し終え、目の前へと戻ってきた平井先生がふいに「魚は好きか?」と聞いてきた。唐突な質問に首を傾げると、「じゃあ海」と質問が変わった。とくに理由もないけれど、好きですと答えれば、平井先生満足そうにポケットから二枚の紙切れを取り出した。 「やるよ、生憎俺は暇がないんでな」 「これ、最近オープンした水族館じゃないですか」 「ああ、テストが終わったらダチとでも行けばいいだろ」 可愛らしいイルカのイラスト付きのチケットは、最近オ−プンした話題の水族館だ。なんでも、ショーのイルカが可愛いとか、360度楽しめる水槽とかなんとか。期限は夏休みの終わり頃まであるし、十分行くことができる。おお…! 「いいんですか?」 「ああ、まぁ、ご褒美みたいなもんだ」 「ありがとうございます」 失くさないように、財布にでも入れておこう。平井先生男前…! 「で、あてはあんのか?」 「あて?」 「女同士も悪かねぇが、別に男を誘ったっていいんだぞ」 そういえば、貰ったのは2枚だ。折角なら誰かと…と思うけれど誰だろう。美心を誘ってようかな、そうしたら部活の予定聞いておかないと。あ、でもたまには母さんに日頃のお礼を…。ん、待てよ。いっそ美心とカイジにプレゼントするのもありなんじゃないか。むしろ、それが一番有効活用かも。 「まぁ、お前の好きに使えばいい」 悶々と頭を抱えたところで、平井先生は上手く助け舟を出してくれたみたいだ。そうだよね、まだ日はあるし、後から考えよう。 もう一度お礼を口にしたところで、後ろの入り口が音を立て開いた。振り返ると、そこにいたカイジとアカギはなにやらそれぞれ対照的な顔をしている。言わずもがな、疲れきった顔をしているのは、カイジの方だ。 「アカギも一緒だったんだ。荷物あるのにいないから、どこにいるのかと思った」 「まあね」 「ぐっ…聞けよコウ…!アカギがっ…!」 「何言ってんの。教室抜け出してまで勉強をサボってるのが悪いんじゃない」 「お前だって、同じだったくせに…!」 「こいつ、何故かテストは強いからなぁ」 平井先生がそう零すと、カイジはさらにぐっ…!と悔しそうにしていた。大方、アカギにちくちく何か言われたんだろう。帰るよ、とアカギに促されカバンを持って立ち上がる。慌てて帰り支度を始めたカイジの横では、平井先生が「しっかりやれよ」と笑っていた。あ、カイジ半泣きだ。 ◇◇◇ 「つーか全然分かんねぇし…ていうか無理…不可能…」 「今のカイジ見てると運気吸い取られそう」 「確かに」 まだ明るい帰り道、橙のコンクリートに影が真っ直ぐ伸びていた。 やっぱりというか、明日のテストにあまり見込みのないカイジは心中穏やかではない。私も決して余裕ではないから、その気持ちは分からないでもないけれど。 「あー!こんなことなら、零に早めにいろいろ聞いときゃ良かったな!」 その名前に、胸がどきりとした。久しぶりに聞いたその名前の主を、無意識に思い浮かべてさらに心が重くなった。宇海は、図書室で勉強でもしていたんだろうか。それとも、もう既に家だろうか。その姿を思い描こうにも、普段の笑顔が思い出せずなんとなく霧がかってしまっている。 「カイジさん。一回教わってから遠慮がなくなったよね」 「うるせえ。そうだ、これから零んとこ行かねーか!俺近所だし!」 「はっ?」 ヤマ聞きに行こうぜ!と張り切るカイジの言葉に、一瞬頭が回らなかった。冗談、そんな会いにいけるわけない。 「嫌だよ。行くならカイジだけで」 「んだよっ、お前だってその方が助かるだろ」 「第一、宇海だって迷惑だよ。テスト前日に」 「あー…そうか」 あまり動揺はせず、言葉は選べたはずだ。とりあえず、このまま宇海の家にだなんてことは免れたようで、ほっと胸を撫で下ろした。自分が行かなければ済む話だが、カイジが宇海に自分の話をするのではと考えると、そうもいかない。自分の話を聞いて、あの仮面で微笑む宇海を考えたくはない。 諦めたのか、「だめかー」とため息をつくカイジの横から、ふと視線を感じた。アカギは目が合うや否や、閉じていた口を開いた。 「零と会いたくないの?」 「えっ」 再び、どきりと。 真っ直ぐなアカギの目に、見えるはずもない心境を全て読まれたような気がして、思わず声が上ずった。アカギは、なんでこう変なところで鋭いんだろうか。そうなのか?!と食いつくカイジはともかく、アカギに下手な嘘はつけないだろう。 「そんなことないよ」 「そういや、お前最近零の後追っかけなくなったよな」 「人を追っかけのように…」 爆弾を投下した本人は、そ知らぬ顔で欠伸をかみ締めている。あんまりだ。何か話題を変えようと思うが、なにせ混乱していて何も思いつかない。視線をあたりへ散らすと、そこに広がるのはいつもの日常でやっぱり思いつかない。どうしよう。 そんな困り果てたとき、あることを思い出した。 「テストが終われば夏休みだね」 「え?…あぁ、そうだな」 あ、上手く逸らせたかもしれない。カイジは完全に頭が切り替わったようで、夏祭り、焼き鳥、ビール…!と学生あるまじきのことを口にしている。誤魔化せたかと思い、ちらりとアカギに視線を向けると若干笑っていた。くそう、全部お見通しってことか。 「夏休み、何しよっか」 「俺は、涼しけりゃなんでもいいな…」 「じゃあ海とか」 完全に変わった話題から、どんどん話題が広がっていく。あれだこれだと話すうちに、私も段々楽しみになってきた。早く始まらないかなぁ、夏休み。 「あ、でもあんまりお金ないや」 「…俺も」 「じゃあ、雀荘でいいんじゃない。涼しいし」 「それはお前専用の小遣い稼ぎだろ…!!」 「あらら」 「小遣いのレベルで済めばいいけどね」 20131126 ← ×
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