見えなくてもここにあるこころ



頬に透明な雫が弾いた。その冷たさから雨が降り出しことに気づき、間一髪で近くの公園の小さな屋根付きの休憩スペースへと入り込む。剥き出しのため横から雨粒が来られると大変だが、今日は風が弱いので雨宿りには問題ないだろう。
ついてないなあ、さっきまで晴れていたのに。濡れた髪をハンカチで拭い、少し不安に思いながら荷物を広げてみる。良かった、中身は無事なようだ。カバンの中には、WBBAから預かった資料が入っているので、濡れてしまっては一大事だった。

さて、どうしたものか。
雫は一瞬のうちに無数の線へ変わり、濡れた地面から薫る雨独特の匂いが鼻を掠めた。小さな溜息は、ざあっと雨に飲み込まれ他には何も聞こえない。なんて静かな世界だ。急に、日常から切り離されたどこか別の世界へ来てしまったような気分だ。私が今自由の利く範囲は、ベンチが二つ並ぶだけのなんとも狭い空間である。それがさらに孤独感を膨らませていく。しかし、どうすることもできないので、取るべき選択はひとつ。大人しくベンチへと腰かけ、空を仰いだ。


それから間もなくして、雨音を裂く如く鳴り響くメロディ。ディスプレに映るのは、今正に荷物を届けようとしていた彼女の名前だった。


「もしもーし」
『あ、心葉?雨降ってきたけど大丈夫?』
「ダメだった、もう少しだったんだけどね」
『今どこなの?』
「あのほら、近くの公園。とりあえず荷物は大丈夫」
『ありがとう。ごめんね、タイミング悪かったわね』
「天気はどうしようもないねえ」


恐らくはすぐに止むだろう。まどかとお互いにそう判断して、そのままつい電話で話し込んでしまう。どうやらB-pitも、今はお客さんが誰もいないらしい。迎えに行こうかと言われたが、留守中にお客さんが来る可能性もあるのでそれはやんわりと遠慮しておいた。


世界を脅かしたネメシスクライシスから、もう二年が経とうしていた。
慌ただしい状況は続いているが、漸く復興作業も軌道に乗り始めていた。そのなかであっという間に月日は流れ、私もまどかも見た目こそまだ変化に乏しいものの、自分のやるべきことを見つけ始めていた。まあ、まどかはメカニックとして世界大会に参加した時から既にそうだったのだろうけど。
正式にWBBA所属の調査員となった自分も、それなりに忙しい日々を送っていた。好きなことを通して出会った友人と、今もこうして好きなことであり、やるべきことで同じ関係を築けているのは幸せなことだ。


なんだか懐かしい気持ちに浸りながら、まどかの話に耳を傾けていると突然、「あ、」と声が飛んできた。どうしたの?、という声はどうやら届いていないようで、電話口遠く「丁度良かった」という言葉が聞こえてきた。

お客さんだろうか、そういえば大分話し込んでしまった。通話を繋いだまま待っていると、戻って来たらしいまどかの声がダイレクトに飛んできた。


『心葉、まだ公園よね?』
「?、そうだよ」
『そこで待ってて。迎えに行ったから』


誰が?という問いは、「お客さんが来たからまた後で」に見事掻き消されてしまった。…残念、通話終了。


途端、またひとりになってしまった世界には未だ無数の線が降り注いでいる。雨なのに、少しだけ暖かい。春だなあ、と思いなんとなくそのまま目を閉じた。暗い世界には雨音だけがずっと流れている。時々聞こえる車の音も、世界の一部と交わって心地よい。そういえば、こんな風にひとりでぼんやりと過ごすのは久しぶりかもしれない。




そうして、どれくらい経ったのだろう。夢心地で雨音に浸っていると、じゃり、と誰かの足音が鳴った。

私、なんで分かるんだろう。

何故か分からないけれど、昔から彼の気配にはとても敏感だった。暗い世界に響く足音を、何度言い当てて驚かせたことか。最も、分かりやすく驚いてくれたことは一度もないのだけれど。


「キョウヤかな?」


確信に近い気持ちで呼んだ名前だが、返事はない。しかし、自分の近くで止まった足音にゆっくり目を開けると、想像通りの表情がそこにはあった。


「…だから、なんで分かんだよ」
「なんでだろうね」


傘の下の表情を見るに、今回も内心は驚いてくれているようだ。してやったり、を込めて笑って見せると目を逸らして溜息をつかれる。これも、いつも通りの反応だ。
まどかだけじゃない、キョウヤともこうしてあの頃と変わらない関係が続いている。いい友達を持ったな、なんて再び感慨深い気持ちに浸ってしまい、思わずその顔をじっと見つめてしまった。


なんだか、とても不思議な気持ちだ。
先ほどまで包んでいた、ひとりの世界がちっとも壊れない。なんだろう、もしかしてここだけ雨が降っているんだろうか。夢心地だった空間は、彼の登場によって壊れるどころか彼さえも包んでしまったようだ。
世界で二人だけみたいだね。なんて、そんなことを言ったら笑うだろうか。そう思い見上げた彼は、私と同じ様に口を閉ざしたままだ。笑ってくれたらまだいい方なのかもしれない。彼はこういうメルヘンな話に、全く興味はないだろう。


合った視線を一度逸らし、ベンチから立ち上がる。
改めてキョウヤと向き合い、お礼を言うとしたところで違和感に気が付いた。彼の左手には雨を弾く一本の黒い傘。そして右手には、何も持っていないということに。


「態とかな?」


数秒考えて、自分の口から出たそんな言葉。
あはは、と笑ってその顔を見るとキョウヤは黙って私を見ていた。その口はなかなか開かず、首を傾げて見せてもそれは同じだった。
とりあえず、幸いにも傘は大きいようだし入れてもらおう。そう思い、一歩踏み出した瞬間。



「態とだって言ったら、どうすんだ」



その言葉に、ゆっくりと、顔を上げる。
雨が降り続いていた。










その後のことを、実はよく覚えてない。

何も答えられなくて、何を言いたいのかも分からなくて。行くぞと声を掛けられるまで、どれくらい見つめ合っていたのか。彼がこの時どんな顔をしていたのか。何も、覚えていなかった。
只、私はこの日のことを未だに思い出し夢を見る。あの数分を思い出し、胸に穴が空くような満たされるような不思議な感覚に陥る。あの日の感情になんと名前をつけていいのか、大人になった今でもそれはよく分からない。只、一番近い表現でいうなら、あの瞬間は永遠に似ているような気がした。


それから、数年後。



20210414


(戻る)

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -