たったひとつの願い事


※学パロ

ほんの遊び心だった。特に深い考えがあったわけでもなく、言うならその場のノリというもの。

卒業間近ということもあってか、周りを取り巻く雰囲気はいつもと違っていて、自分もその何かに飲まれていたんだと思う。意味もなくジャケンをして、負けた方は勝った方の言うことを聞く、とか。どこの漫画だとは思ったが、お前もお前もと急かされ、気が付けば俺も一緒になって笑っていた。結果、俺はとある女子に負けた。俺よりか弱く見えても、ルール上は勝っている苗字の手のひらは、ぴっと開いている。「忍くんにお願いだなんて、折角だからゆっくり考えさせて」と笑った苗字とは、決して親しい間柄ではなかったが、彼女の落ち着いた雰囲気は嫌いではなかった。彼女だったら、無茶なことは言わないだろう。しかし、そんな軽い考えは、耳元で囁かれた友人の台詞で崩れた。



「苗字って、忍のこと好きなんだぜ」



◇◇◇



そんなこともあって、俺は苗字と少しだけ距離を置くようになった。元々、そこまで話す間柄ではなかったのが幸いしたのか、誰もこの変化には気づいていない。恐らく本人も。

ただ、俺は焦っていた。いや、でもそんなまさか。いくらお願いだなんて言っても、そんなことで、お、お付き合いをしてください、なんて言うはずないだろう。いや、絶対に。
冷やかしてくるゼロをひと蹴りし、その"お願い"とやらを考えているであろう普段と変わらない苗字の横顔を眺めた。そうすると、彼女に対して今まで感じたこともない感情が溢れ、顔を顰める。照れくさいだの、そういう感情も確かにあった。しかしそれよりも、嫌悪感に近いものが顔を覗かせていた。
がっかりしたんだ、"お願い"を利用して仲を築こうなんてする彼女に。


そういうのにトキメキを感じる奴もいるのかもしれないが、俺は違った。理想なんて大層なものじゃないが、俺のなかの彼女が、がらりと崩れていく。
"お願い"はまだ言われていない。彼女が振り返ったような気がして、静かに視線を外した。











そんな苦い思いも、焦りも、淡い思い出にすり替わってきた頃。
卒業式が終わった。

涙はすっかり乾き、周りは笑顔で溢れかえっていた。この後どこかで集まろうか、なんて話をしたところで、ふと教室の忘れ物を思い出した。皆には先に行ってもらい、既に懐かしさの込み上げる教室に足を踏み入れる。自分のだった机は、明日から別の誰かのものになる。取り出したファイルを机に置き、傷のついた表面を指でなぞった。


「忍くん」


教室に響いた鈴のような声に、どくんと胸が音を立てた。

入口に立つ苗字は、ほんの少しだけ頬を染めて緊張した面持ちだった。瞬間、ああ、と忘れかけていた出来事を思い出す。そういえば、そうだった。彼女の"お願い"は、まだ聞いていなかった。いや、もしかしたらそれとは全然関係ないのかも。彼女だって忘れてしまっているかも、なんて考えが一瞬過ぎったが、苗字の表情を見てそれはないと確信した。何か言いたげに口を結ぶ彼女の頬は、まだ赤い。


「苗字…」


どうした、と聞くのは気が引けた。自分から促すようなことはしたくなかった。というよりも、告白だって聞きたくないのが本音だ。彼女が内気な少女だということはクラスメートとして分かっているが、こんな遊びに乗じて気持ちを口にされるなんて嫌だ。先ほどまでの寂しさは、どろりとした黒い感情に飲まれ自然と目を細めた。
卒業しちゃったね、と当たり障りのない会話が途絶えたところで、彼女は意を決したように口を開いた。


「お、覚えてる…?あの、私、忍くんにお願いがあって、ここに、来たの」


ああ、来た。と、ここからの流れを察し素っ気なく、覚えてるとだけ返事をした。一瞬の空白に、彼女はさらに顔を赤くし視線を彷徨わせた。それが無性に嫌で、時間よ早く過ぎろと願い口を閉じた。深呼吸をして落ち着いたのか、苗字はゆっくりと口を開いた。


私、忍くんのこと。


「すっごい尊敬してた!」
「は?」


予想だにしなかった言葉に、思わず間抜けな声が出た。
は、今なんて?


「忍くん、頭も良いし運動できるし、人気者だし、格好良いし、お料理上手だし!ほかにも、いろいろ…」


指折り数える彼女の姿に、間抜けに開いた口が未だに閉じられない。頬の赤みは残したままだが、大分落ちついたのか彼女の口調は最初よりも穏やかだ。


「忍くんみたいになれたらなーって、いつも思ってた。でも、それって無理な話でしょう?それに、忍くんとは進路違うし。もう会えないだろうし」


確かに、これからは進む道が違う。毎朝、教室に行けば会えていた今までとは違う。会う気がなければ、会わないというのは必然。静かに目を伏せた彼女が、やんわりと微笑んだ。そうか、もう明日にはここにいないのか。俺も、苗字も。その事実を改めて知り、俺も目を伏せると、彼女はばっと顔を上げた。


「だからね!忍くんにお願いだなんて、もう絶対できないことだから、一生懸命考えたんだ!」



ゆっくりと息を吸い、彼女は笑った。



「私のこと、忘れないで」



呆気に取られたまま、彼女の言葉に耳をすます。


「友達とか、クラスメートとか、知り合いとか…そういうのじゃなくていい。忍くんに憧れてた、女の子がいたなって。名前だって、顔だって、忘れちゃっていい!私の、こと、私がいたってこと、それだけ!忘れないで」



ああ、そうだった。
彼女はこういう人物だった。いつも一歩後ろから、微笑んで、前には出ず。俺のなかの苗字は、こんな女子だった。

…は?

俺、なんてこと考えてたんだ。告白?、誰が、苗字が、俺に?
途端、自分の勘違いにひどく羞恥心がこみ上げて来た。恥ずかしさと罪悪感から苗字の顔が見れず、手のひらで顔を覆った。心配そうに俺の名を呼ぶ苗字に、返す言葉が見つからない。ただ、これだけは言いたかった。


「忘れない、絶対忘れない」


ありがとう、そう言って顔を上げた。きっと、ひどい顔をしていたと思う。俺の言葉に、苗字はありがとうと花が咲いたように笑っていた。

そのまま教室から出ていこうとする苗字の背中に、ちくりと胸が痛んだ。もうきっと、苗字と会うことはないんだろう。いや、同窓会なんかがあるか。でも、それって一体いつだ。何日後、何年後?そのとき、今日のことを思い出して笑うんだろうか。その時も、苗字は今日みたいに俺に笑ってくれるんだろうか。


そんなに、格好つけなくてもいいんじゃないか。


気づいたら、慌ててその手を掴んでいた。ぱちりと目を開き首を傾げる彼女に、今度は俺が照れる番だ。咄嗟とはいえ、何やってんだ俺。だけど、覚えてるってだけじゃ、やっぱり、嫌だな、って。



「…アドレス、交換しないか」



俺と君の物語、

(多分、ここから)




20130504








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