ロマンス未遂


「なあ、前にどこかで会ったことないか?」

 ゼオ君の真っすぐな瞳に射貫かれ、喉の奥がきゅっと詰まる。
 視界の隅で友人が面白そうにこちらを見ていることに気が付いたが、それに文句を言えるほど心に余裕はなかった。逸らせない視線と、遠のいていく周囲の喧騒。どくどくと高鳴る心音だけが、耳の奥で響いていた。

◇◇◇

 約一時間前。

 賑やかな会場内の空気に隠し、少し強めに息を吐く。
 普段より高いヒールのせいで、足の裏がびりびりと痛い。予想よりもずっと和やかな空気に、ここまで見栄を張らなくても良かったなと少しばかり後悔した。すっかり気の抜けた頭で右肩を回すと、隣に立つ友人は「だから言ったのに」と笑っていた。

「だってさ、一応記念パーティーでしょ?そりゃあ服装にも気を遣うって」
「まあ正式なやつはこの前終わってるし。今日は内輪だけの楽しい会じゃん」
「そもそもWBBAを内輪って言っていいのか疑問じゃない?」

 我が社の超重要取引先であるWBBAアメリカ支部。
 そこの支部長が新しく就任したということで、今日はその就任記念パーティーに出席していた。といっても、仕事としての正式な会は既に先日終えている。今夜の会は、新支部長が「これからもよろしくね、今日は楽しんでね!」という思いを込めて開いた、本当に慰労や交流の意味合いが強い会だ。思いを込めたというか、実際そう口にしていた。新支部長は随分お茶目なようだ。

 貸切られたホテル会場は、大人から子供まで様々な人で溢れている。ご家族でいらしてる方も多いのだろう。出入り自由の会場は人の行き来が多く、本当に沢山の人が招待されていることが窺えた。まあ、こんな取引先の一社員までも招待してくれるのだから、WBBAの規模には恐れ入る。
 イベント会場の管理運営を生業とするうちの会社も、ベイブレードの大会といえば何かと会場提供に力を貸したものだ。大会行事で知り合った友人も多いので、今日は彼等に会うことを楽しみにしていた。一緒に来た友人もその仲間である。

「いやー、でもこんなパーティーにも呼んでもらえるとか、ほんと今の会社に入れて良かった。ブラックは怖い」
「例のアルバイト先?」
「うん。もうめちゃくちゃ昔だけど、あれを越える職場はなかなかないよ。大企業はやっぱり闇があるね」
「鉄腕アルバイターが言うと重みが違うわ」
「ふふん、それももう元だもん。今は只の正社員だもん」
「経験生かしてさ、WBBAとか狙おうと思わなかったの?」
「WBBAは無理だね」

 というか、WBBAには能力云々別の理由で絶対に就職できなかった。
 その言葉はシャンパンと一緒に飲み込んで、大げさに笑って見せた。

 言えない。今でこそ普通に働けているが、多分あのバイト先は法的……というか社会的にアウト寄りのアウトだった。記憶からも、経歴からも抹消しなくてはいけない。
 そう、ハデスインクが経営していたHDアカデミーでアルバイトをしていたなんて。
 ジグラットさんがあんな馬鹿みたいなことしちゃったから、業界的には悪い意味で超有名なのである。ベイブレードで何してくれちゃってんのよあの人。
 吃驚したよ、結果的に最終出勤日になったあの日、職場が空を飛んでそのまま海に沈むとか誰が予想した?最終月のお給料もらってないんだけど。
 いやでも、その少し前に社員食堂のおばさんと
「ねえ聞いた?うちの職場。昨日ここからビーム出たらしいわよ。怖いねえ」
「怖いですねえ」
 と会話をした時点で気が付くべきだった。怖いですねえってなんだ。
 先輩からの紹介と高賃金に目がくらみ、大分正常な判断ができていなかった。冷静に考えれば初めから問題だらけの職場だったのである。アルバイトという身分だったので罪に問われることはなかったが、上層部の人々がどうなったのかは分からない。

 しかし、全部過去の話だ。もう間違いは起こさない。

 以前、つい酔った勢いで友人には話してしまったがこれは封印すべき過去である。安定した職に就いた今、あの過ちが現在に牙を向かないようゆっくりと消していくだけだ。記憶からも、経歴からも。
 そして、平穏な毎日を送る…!!!

「あ、いたいた。おーい!」
「あ、ルーカス久しぶり!元気そうね」
「わあ、スーツ見慣れないね」
「会う時大抵いつも作業服だからな」

 人込みを掻き分けやってきた体格の良い友人は、スタジアムの整備士をしているルーカスだ。所属する会社は違えど、度々顔を合わせる機会があり仲良くなったのだ。
 久々の再会につい心が浮き立つと、彼の後ろからもうひとり男の子がやってくることに気が付いた。「置いてくな!」と飛んできたその声に釣られ視線を向ける。

 そして、

「誰?」
「俺の友達。二人にも紹介しようと思って」

 友人の隣に立つ、ふんわりとしたダークブラウンの髪が印象的な男の子。

「ゼッ…」

 消しかけた過去が、砂入り袋で顔面を殴ってきた。

「えっと、初めまして。俺、」
「ゼ、ゼ、ゼゼゼゼオアビス…………」

 記憶よりもずっと大きくなった彼だが、間違えるはずがなかった。
 HDアカデミーで何度も見かけた、ゼオアビス君。
 彼の言葉を遮ってしまい、三人から不思議そうな表情向けられるが、それどころではなかった。忘れかけていた過去に何度もボディーブローをもらい、記憶がどんどん蘇ってくる。同時に、脳内警報がフルスロットルで鳴り響いていた。まずい、これはまずい。

「俺のこと知ってるのか?」
「えっ、あ、あの…そ、そう!せ、世界大会、ベイで、アメリカ代表で…」
「ああ、それでか」
「すごい、アメリカ代表だったんだ」
「もう凄い前だけどな」
「良く知ってたな」
「うん、知ってた、超知ってた」
「アンタ昔からベイ好きだったもんね」
「うん、ベイブレード大好き、超好き」

 唇をきゅっと噛んで、引き攣りそうになるのをなんとか抑える。
 まさかこんなところで、こんな再会を果たすとは思わなかった。飛びかけの意識で話を聞いていると、ゼオ君は今WBBAでブレーダーの指導員を務めているらしい。よかった、ベイブレードは続けているのか。
 先程の彼の様子を見る限り、私のことは分かっていないようだ。まあ、一職員だった私を覚えているわけはないだろう。しかもアルバイトの身分だ。
 しかし私個人としては、彼にはめちゃくちゃ後ろめたさがある。だって、彼がHDアカデミーでどんな目にあっていたのか知っているから。なんならアレンジシステムにも超関わってた。中身は殆ど分からなかったけど液晶に出る記録めちゃめちゃ取ってた。ってか、多分一回くらいなら話をしたこともあったんじゃないだろうか。
 駆け巡る当時の思い出に、サァっと血の気が引いていく。
 彼にとってHDアカデミーは恨みの対象であることに間違いないはず。しかも彼は今WBBAの人間だ、まずい、バレたら……業界的にも消される!!

 お互いに簡単な自己紹介を済ませると、彼等はドリンクを貰いに一度この場を離れた。見送ったその背中に、胃がキリキリと痛む。飛んでいきそうな意識と緊張で唾を飲み込んでいると、友人が意味深な笑顔で口を耳に寄せてきた。

「アンタ好きそうなタイプじゃん」
「や、殺られる…」
「ハートが?」
「リアルなハートが…」

 果たして生きて会場を出られるんだろうか。やっぱり、人間過去と決別なんて無理な話なんだ。不可抗力であったとしても、どこかで落とし前はつけなくてはいけないのだろう。でも命だけは助けてほしい…あと職…今の仕事好きだから…。
 少し先では、グラスを両手にゼオ君たちがこちらへと戻ってくるのが見えている。
 心臓を抑え、目を瞑って深呼吸をした。絶対にボロは出さない。「よし、頑張る」と思わず呟き顔を上げると、友人が「マジのやつじゃん。協力するわ」と言っている。頼もしい、マジで命がかかってるから協力助かる。やはり持つべきものは友人だ。

 彼等からグラスを受け取りお礼を言うと、ゼオ君が笑顔で返事をしてくれる。
 うっっ、痛い、胃が痛い…。覚悟を決めて一分で既に心が折れそうだ。もう全部白状して楽になりたい。
 しかしそういうわけにはいかないので、数々のアルバイト先で身に着けた話術でなんとか無難に会話を繋いでいく。ネタは豊富にある。ボロが出そうな話題は避けていく。よし、良い感じだ。

「いろいろ詳しいんだな」
「経験だけは豊富だからね」
「この子、本当に昔から青春そっちのけでアルバイトばっかりしてて…」

 友人の呆れ声に思わず苦笑するも、それは事実なので仕方ない。長女として、もしも弟達が大学に行きたいと言った時に少しでも足しにできればと思っていただけだ。特に野望もなかった自分と違い、夢多き弟達は誇りに思う。
 へえ、と感心したように頷くゼオ君の視線は少しばかり照れくさい。というか、見ていられなくて視線を外して頬を掻いた。

「いや、うち兄弟多くて。そんなに裕福ってわけでもないから」
「偉いな」
「いやいやいや…」
「家族思いの良い子なのよ」
「いやいやいや…」
「いや、ほんと凄いよ」
「いっ…」

 っっっっが痛いからッッ……!!!
 もうやめて?!?!
 少なくとも私の口座の一部は、貴方をアレンジシステムにぶち込んで得た汚いお金なんだ…笑顔やめて…許して…嫌だ…胃が痛い…。
 キリキリと痛む胃に、乾いた笑いが込み上げてくる。アルコールがダイレクトに胃に沁みて、もうグラスを傾けることはできなかった。
 そしてさっきから、やたらと友人がウインクを飛ばしてくる。なんのウインク?こわいこわい。聞きたいけれど、今口を開くと嗚咽と共に泣き出してしまいそうなので、ぐっと顔面に力を入れた。

「ねえ、あの話聞かせてあげなよ」
「あれって?」
「あのほら、ビーム出たバイト先の話」

 え…
 あまりに唐突すぎてツッコむ暇さえなかった。いきなり友人に売られてしまった。え、なに、急に悪魔にでも憑りつかれた…?
 あの話好きなんだよね、面白くて。と言って、友人がこちらに眩しい笑顔を向けてくる。え、…もしかして憑りつかれたんじゃなくて売った…?魂を…この数分で…?何があったの、こわいこわい。

 突然の裏切りに頭が真っ白になるも、再びかけられたウインクでハッと我に返った。悪魔のウインクだ。意識さえ飛ばすなってか、なり立て数秒で悪魔の素質を開花させてどうする。
 先程とは別の感情でぐっと顔を顰めるが、事態は最悪を極めている。どんな話?と、興味深々な二人分の瞳に心臓がバクバクと跳ね上がった。

「い、いやそんな大した話じゃないから!」
「ビームは気になるだろ」
「ほ、ほんと、全然そんな島消し飛んだくらいで」
「ウケるよね」

 人の心はないのか…?!
 お腹を抱えて笑う友人に対し、このノリに慣れていない男性陣は目を丸くしている。その表情に、益々脳内は大パニックだ。何より、引っかかった顔をしているゼオ君に焦りを禁じざるを得ない。

「え、なんて会社だ?」
「た、たた多分知らないとこだよ!」
「どこらへんにあったの?ビーム打てるとか相当でしょ」
「っていうか今もうなくなってるから!ばっ爆発して海の底だから!」
「そんなことある?」
「…俺それ知ってるかも」
「そんなことある?」

 顎に手を添え、ゼオ君が何か考える素振りを見せている。
 当然だ。ビームを打った・爆発した・今海の底のベン図で丁度三つ重なる場所にいるのなんて恐らくハデスインクくらいだろう。むしろ他にあっても困る。
 じっと向けられた瞳に、情けない悲鳴が出た。

「な、なにか…」
「いや…」

 ゼオ君は言葉を止め、難しい顔で視線を落としている。
 まずい…バレたかもしれない…。
 こんないちアルバイトのことを思い出すとは到底思えない。
 と、高を括っていたが、彼という存在と時間を共にすることで、どんどん当時の記憶が蘇ってきた。割と都合の悪い方の奴だ。彼と私を直接的に結ぶわけではないのだが、ひとつだけ私という存在を彼が認知している可能性があった。

 当時、HDアカデミーではひとつの噂が流れていた。
 私が、アメリカ代表チーム幻の四人目だという噂だ。内容は全く持ってデタラメなのだが、職員の中では有名な話だった。
 何故って?
 ゼオ君のアレンジに記録係として立ち会う度、激痛に苦しむ彼の姿に耐えられず毎回「いだいよう…」と無関係にも拘わらず大号泣していたからだ。人が痛がってるの見ると痛くなっちゃうあれだ。
 最初こそ一緒に立ち会っていた先輩達が慰めてくれたのが、いつしか通常の光景となってしまい誰にも慰めてもらえなくなってしまった。だから遠慮せずに泣きまくった。

 そして噂はひとり歩きし、アレンジ立ち合い中に何故か号泣する女子職員から、アレンジに号泣しながら耐える女子職員になり、最終的には職員でありながらジグラットさんに適性を見出され号泣しながら抵抗するも極秘で無理矢理アレンジを受けさせられている幻の四人目となったのである。長いな。そして常に号泣している。

 ちなみに、この噂の存在を知ったのは割と時が経ってからだ。途中からいろんな先輩方が急に優しくなったのはこのせいだった。
 仲良くなるためには共通の敵を作った方がいいって何かに書いてあったから、先輩達に混ざって「あの人マジで人使い荒いっすよね」とジグラットさんの悪口を言ってたら、「やっぱりドクターの指示なのね…何もできなくてごめんね…」って泣かれてしまったこともある。先輩達とは仲良くなれたが、職場内のジグラットさん人気は下がった。それに関しては少し申し訳ないと思っている。
 結局、ジグラットさんからの通達で、噂は誤解だと幕を閉じたわけだが。
 ゼオ君にもこの噂が飛んでいれば、もしかしたら顔くらいはバレているかもしれない。自分のチームの四人目となれば、多少なりとも興味のひく話題ではあっただろうし。

 友人達の会話に耳を傾けつつ、どうしたものかと頭を悩ませているとすぐ隣で名前を呼ばれる。顔を向けると、先程まで隣にいた友人と代わりゼオ君が隣に立っていた。
 ぎょっとして正面へ顔を戻せば、いつの間に場所を交換したのか彼女はルーカスと話しながら、またウインクを投げてくる。マジで殺しにきてる?友情はどこへいったの?

 ゼオ君がどんな技を身に着けているかは分からないが、完全に間合いに入ってしまったので、いつ消されてもおかしくはない。
 再度名前を呼ばれ、恐る恐るゼオ君へと顔を向ける。
 そして、

「なあ、前にどこかで会ったことないか?」

 ゼオ君の真っすぐな瞳に射貫かれ、喉の奥がきゅっと詰まる。逸らせない視線と、遠のいていく周囲の喧騒。どくどくと高鳴る心音だけが、耳の奥で響いて―――。

 これ、消されますね。

「え?!ちょ、おい!」

 気絶した。

◇◇◇

『いだいよお…』
『痛くない!』

 そういえば、号泣する私の隣で、いつも顔を顰めて一緒に記録係をしている仲の良い先輩がいた。当時は、先輩も泣くのを我慢してるんだなって思っていたけど、多分違った。大人になって分かった、があれは多分別の感情を押し殺している顔だった。今ならわかる。子供故に気が付かなくてよかった、世の中にはいろんな人がいる。そんな先輩も今年結婚するそうだ。

 私はここで消されるかもしれないので、先輩だけでも幸せになってほしい。どうか…どうか…


「ハッッ!!」

 目を覚ますと、満天の星空が飛び込んできた。
 なんだろう、なんだか特に見なくてもいい夢を見た気がする。ぼんやりとした頭を振ると、目の前には、月明かりに照らされた美しい庭園が広がっていた。
 ……もしかして瞬殺された?まだイエスともノーとも言ってないのに。
 届いた賑やかな声に振り向くと、どうやらまだホテル会場だということが分かった。開放された室内と、この庭園はひと続きになっているらしい。

「大丈夫?」
「っあ…吃驚した…」

 隣からかかった声に息を呑むと、それはゼオ君ではなく友人だった。
 ホッとしてベンチに体を沈めていくと、急に気を失ったのだと教えてもらった。多分人に酔ったんだろうとのことだ。理由は全然違うが、少し感動していた。あの緊張感に人の体は耐えられなかったか…精神が壊れる前に緊急脱出とはよくできている。

 周りにはルーカスもゼオ君もいない。ここへ運んでくれた後、友人があとは自分が見ているから大丈夫と言って二人とは別れたらしい。助かる、やはり持つべきものは友人だ。
 友人にも彼等にもこんな別れ方で申し訳ないが、正直難を乗り越えてホッとしている。
 落ち着きを取り戻した私に、友人は「口説かれてたじゃん」と言っているが、口説かれてないんだわ。尋問されてたんだわ、あれ。
 何故友人がそう思ったのかは分からないが、誤解を解こうと口を開けた瞬間。ホテルの方から、こちらへ向かってくる人影が見えた。
 あれは間違いなくゼオ君の姿だ。
 喉の奥から変な声が出た私を見て、友人もゼオ君の存在に気づいたようだ。そして、にんまりと口元を上げこちらへ笑いかけた。

「サプラーイズ」
「いよいよ大悪魔か…?」

 しまった忘れてた、友人は悪魔に魂を売ったんだった。上げて落とされ、もう心のライフはゼロだ。
 体に力が入らず、立ち上がる彼女を止めることもできない。待って、行かないで。泣きそうな気持ちで見上げるが、そこには今日一番の笑顔があるだけだった。

「あとは上手くやりなよ!」
「上手く殺りなよ?!」

 殺られる前に殺れってこと?!
 それだけ言って、友人はゼオ君とは反対側へサッと走って行ってしまった。
 急な過激な発想に吃驚しちゃった。一体彼女はどっちの味方なんだろう。ゼオ君のことで大忙しだというのに、割と君の事でも今日は頭がいっぱいだよ。大悪魔じゃなくて小悪魔なのか、ってバカッ。
 友人が走り去った方向から向き直れずにいると、後ろから足音が近づいてくる。意を決して視線を向ければ、お水を持ったゼオ君と目が合った。

「気が付いたのか、大丈夫か?」
「は、はい…」
「あれ、ひとり?」
「あ、ちょっと、なんかきゅ、急用なのかな…」
「まあいいや、これ飲めよ」
「ありがとうございます…」

 グラスを受け取ると、ゼオ君が自然な流れで隣へと腰かける。
 その近さに、どきりと心臓が跳ねた。
 ふと視線を落とせば、グラスの水面を月明かりが綺麗に滑っていた。賑やかなパーティーと離れ、庭園に吹く風は生温いながらも心地いい。ゆっくりと息を吸って、夜の空気で満たしていく。

 ――戦いとは突然で、それはこんな穏やかな夜にさえやってくる。

 彼が隣に座ったということは、これは彼の間合いである。しかしそれと同時に私の間合いでもあるのだ。
 口封じのため、殺るしかないのか…?!
 頭の中では、小悪魔と化した友人が「上手く殺りなよ!」と囁いている。天使側が不在だ、せめて囁くなら両側から平等に囁いてほしい。
 ゼオ君が体調を気遣い、こちらへ何かと話を振ってくれる。なんて優しい子なんだ、こんな子を正当防衛以外で手に掛けるなんて私にはとてもできない。でも、一瞬の油断が命取りになる。やはりこちらから、仕掛けるしかないのだろうか。
 ゼオ君の言葉が止まったところで、ちらりと様子を窺ってみる。すると、彼もこちらを見ていたようで見事に目が合った。

「っ」
「なあ」

 逸らせない視線に、難しい表情。
 やれ、やるしかない、今行くしか―――!!

「やっぱり俺達、どこかで会ったことないか?」
「許してください何でもしますジグラットさんが」
「え?」
「あっ」

 できないよおおおおッッ……!!!!
 そりゃあそうだ、だって人を手に掛けたことなんてないもん。
 ハッとして、口を抑えるが遅かった。極度の緊張で、言わなくていいことまで言ってしまったじゃないか。
 ゼオ君は目を見開いて、こちらを指さしている。あ、これ、完全にバレた奴だ。

「ア、アンタやっぱり…!」
「し、失礼しますーーー!!!!」

 こういう時は、逃げるが勝ちである。
 スイッチが入れば、意外にも体はすんなりと動いた。すごい、命の危機には心よりも体がちゃんと反応するんだね。地味に感動しながら、高いヒールで全力ダッシュをした。









「どうしたのゼオ、難しい顔して」
「いや…」
「そういえば、昨日のパーティーはどうだった?」
「……。」
「何かあったの?」
「……トビーには前に話したことあったよな。HDアカデミーで、無理矢理アレンジの実験体にされてる奴がいたって話」
「でもそれって、誤解だったんじゃ…」
「只の噂って可能性もゼロじゃない。だけど、内部の人間は皆本当の事だと思ってたんだ」
「そうなの?」
「ジグラットが慌てて否定したのが如何にも怪しいし、”アレンジ辛い…”っていつも泣いている女子の話は俺も聞いてたしな」
「そんな…」
「多分だけど、昨日そいつに会ったんだよ」
「え?!」
「俺のこと見て挙動不審になってたし、妙に怯えてる感じでさ…」
「そうなんだ…」
「辛い過去の記憶を、思い出させちまったのかなって」
「ゼオが気に病むことじゃないよ。……でも、うん。何か力になってあげられることがあればいいけど…」
「だな」



「……!!、なんか私に都合の悪い勘違いが起きている気がするな?!」
「ランチの時間なくなるよー」


20210828








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