鼓動は止まない


 どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
 頬を伝う汗を手で拭い、そのまま膝に手をつき大きく息を吐く。落とした視線の先では、拭いきれなかった汗が山道に落ち、小さな染みを作っていた。

 なんでこんなことになってるんだっけ?誰のせい?ねえ誰のせい?………オー私じゃあないかじゃあしょうがない。

 ちらりと視線をずらせば、目の前に広がる高い空と美しい山々。わあ、絶景。思わず笑い声が溢れたが、最早自分のものか疑わしい程に枯れ切っていた。

「おや、もうバテちゃいましたか?」

 飛んできた涼しい声に、なんとか視線だけを上げる。夏空を背景に先導する氷魔の表情は、声色同様まるで疲れを感じていないようだった。

「だ……だってまさか、こんっっなに険しいなんて……思わなかったんだよ……」

 己のもやしぶりが情けない。
 けれど、こんな状況になっているのは紛れもなく自分自身のせいだった。


 ことの始まりは、銀河をはじめ皆で話題にしていた花火大会のことだ。
 隣町で開催される花火大会は、この辺の地域では一番の規模で、毎年沢山の人が集まり賑わいを見せている。まさに夏の一大イベントなのだ。
 屋台が楽しみだ、今年はステージで何をするんだろう。まどかやケンタとはしゃぐ傍ら、氷魔はひとり「楽しんできてくださいね」と微笑んでいた。

『氷魔は行かないの?』
『ええ。その頃は村に戻らなくちゃ行けませんし』
『そっかあ。残念だね』
『ああでも、僕も花火は毎年見てますよ』
『そうなの?』
『はい。むしろ周りに何もない分、街中よりも綺麗に見えるんです』

 何それずるいじゃん。
 それを聞いた私の行動は早かった。
 氷魔にお願いをして、今年は私も一緒に古馬村のほうで花火を見せてもらうことにした。の、だが。

 ーーー今なら分かる。氷魔が「本当に大丈夫ですか?」「楽しめ……るといいんですけど」「やっぱり前日から、ああでもその日は北斗もいないし男の家にひとりで泊まるのも……」と、やたら心配そうにしていた理由が。
 なめていた、山を完全になめていた。
 思い返せば、あのキョウヤでさえも止めておけと忠告していたのだ。その時点で察するべきだった。
 
 が、時既に遅し。
 お察しの結果というやつである。いや、本当にここまでとは思ってなかったんだよ。

「だから言ったでしょう。あなたが思ってるよりも、ずっと大変ですよって」
「それは……そうなんだけどさあ……!」

 氷魔は軽やかな足取りで山道を下り、私の前で足を止める。
 どういう体力をしているんだろう。最早慣れとか、性別とかそういう次元ではない気がする。

「大丈夫ですか?」

 気力を振り絞って顔を上げると、氷魔の顔がハッキリと見えた。驚いた。この男、汗ひとつかいていない。夏だぞ、せめて汗はかきなよ。
 へらりと笑って見せるも、だいぶ酷い顔をしていたのだろう。目が合ってすぐ、氷魔は不安げに顔を曇らせると、視線の高さを合わせるようにこちらへ覗き込んだ。

「やっぱりやめときます?」
「ううん、大丈夫。まだ頑張れる。ここまできて諦めたくない」

 自分で言い出したことだ。泣き言ばかり言うわけにはいかない。
 それに、山道を歩きはじめてもう大分時間は経っている。目的地に近づいているはずだ。
 大きく息を吸い込んで、リュックの紐を掴み直す。少しだけ元気が出たような気がした。

「でも」
「大丈夫大丈夫!あとちょっとくらい何とかなるよ!」
「でもまだ半分以上ありますけど」
「そういう嘘はよくない」
「現実を見ないのもよくないですよ」

 …………まだだ、まだ慌てるような時間じゃない。いや慌てた方がいいかもしれない。だって花火の時間は決まっているから。
 自身を元気づける意味も込めて「でも頑張る!!」と、今日一番の声を張る。ヤケクソ感は否めないが。
 氷魔は少しだけ逡巡した後、困ったように笑いながらこちらへ手を伸ばした。

「分かりました。でも、無理だったらすぐに言ってください。それと荷物はこっちに」

 あれよあれよと手を回され、気がつけば背負っていたリュックは氷魔の手の中に収まっていた。
 手際の良さにぽかんとしていると、今度は目の前に手の平が差し出される。

「折角の楽しい日なんですから。休み休み、のんびり行きましょう」
 
 ね。
 と付け加え、柔らかな笑み共に広げられた左手。恐る恐る握れば、ぎゅっと握り返された。

「口説いてる……?」
「いえいえ全く」

 全くとはなんだ。


◇◇◇

 目的地に着いた頃には、空はすっかり暗闇に包まれていた。
 古馬村での途中休憩を経て、予定よりも大分遅れての到着である。転ばないよう開けた岩場を踏み進めると、既に花火は始まっており、豪快な打ち上げ音が響いていた。

 街中で見上げるよりもずっと色濃く、夜空を覆う大輪の光。
 言葉も出せずに氷魔を見やれば「どうです?」と微笑まれる。全力で頷くことしかできなかった。

 そのまま並んで岩場に座り込み、黙って打ち上げ花火を眺めた。次々と岩場がカラフルに染め上げられ、その度に鼓膜が大きく揺れる。
 そうしてどれくらい時間が経ったのか。気づいた時には、もう時刻は終わりに近づいていた。

「もうちょっとで終わりかあ」
「ですね」

 不意に訪れた静寂の隙間に、はあ、と息をつく。どうして花火の終わりって、こんなに寂しい気持ちになるのだろう。
 絶え間なく上がり続けていた花火は鳴りを顰め、今は暗闇に包まれている。ラストの打ち上げに備え装填を行っているのだろうか。じわじわと侵食する静寂が、特別な夜をいつもの夜へと塗り替えていくようだった。

「来て良かったでしょう?」
「うん、すごく良かった。連れてきてくれてありがとう」
「ふふ、どうしたしまして」
「ああー……でも、ごめんね氷魔」
「何がですか?」
「すごく無理なお願いしてたんだって、今なら分かるというか……。迷惑かけちゃったし、結局間に合わなかったし」

 道中の過酷さを思い出し、がくりと肩を落とす。とても疲れた。けれど、その何倍も楽しかった。来て良かったと心から思う。
 しかし、だ。
 でも、氷魔は?
 一日中私の面倒を見ていた氷魔は、きっと私以上に疲れているだろう。ひとりなら余計な苦労もせずに済んだだろうに。それでも連れてきてくれたのだから、彼は優しすぎる。
 手を引き、背中を押し、時には言葉で励まし………いや、なんか、うん。
 申し訳なさすぎて、みるみる小さくなってしまう。
 しかし、そんな私を横目に氷魔は頭を振って言った。

「謝ることなんて、何もないですよ」
「ちゃんと楽しめた?」
「ええ。むしろ、ここ数年じゃ一番楽しかったです」

 そうなの?
 驚いて振り向けば、氷魔は背を反らしながら軽快に笑っている。なんだか意外な姿だ。投げ出された足も相まって、普段よりも粗雑な振る舞いはどこか幼く見えた。

「誰かと一緒に花火を見るなんて、いつ振りでしょう」
「北斗がいるじゃん」
「北斗はあまりこういう場は得意じゃないんですよ。音がうるさいとか言って」
「なるほどねえ」
「それに、」

 その瞬間、氷魔の言葉を切るように再び花火が打ち上がった。
 いよいよフィナーレのようだ。今年の見納めと気合を入れ、夜空へ向き直る。
 視界いっぱいの大輪を見送りながら「それに?」と続きを促せば、氷魔は一拍置いて再び話し始めた。

「……諦めてたんですよね」
「え?」
「まさか名前さんが、自分から来たいと言ってくれるとは思ってませんでした」

 氷魔は正面を見据えたまま、笑みを含んだ声で言った。
 確かにこれまでも、体力を理由に遠出はほとんど断っていた。古馬村ツアーなんて以ての外である。生きて帰れる気がしない上に、迷惑をかけるのは目に見えていたから。
 じゃあなんで今回は挑戦したのかというと、それはもう、テンションとしか言いようがないのだけれど。

「今日この場所で、あなたと一緒に花火を見ることができた。僕はそれだけですごく嬉しかったですよ」
「……もやしはもやしなりに、行ってみたい気持ちはあったんだよ」
「あはは」
「だから、私もすごく嬉しかったです」

 お礼の気持ちも添えて、深々と頭を下げる。視界には枝垂れ柳の光が伸びていた。
 
「でも、来年はもう無理だなあ」

 悔しいけど。
 そう付け加えて、今回で痛感したことをハッキリ口にした。
 感動で忘れかけていたが、正直体はへとへとだし、明日は間違いなく全身筋肉痛だろう。
 休憩地点の古馬村で屍と化していたのを思えば、ここに辿り着けただけでも褒めてあげたい。が、まわりを巻き込んでしまってる時点で、それはアウトである。

「……そうですか」

 氷魔は僅かに目を見開き、すぐにそっと目を伏せた。口元の笑みだけはずっとそのままである。

「だからさ、氷魔」

 身を乗り出し、正面から氷魔と向き合う。
 少しだけ驚いた様子の彼を前に、ぐっと拳に力を込めた。
 そして、

「来年は前日入りしてもいい?!」

 言った。
 ドン、と無言の空間に花火が打ち上がった。風情。

「…………………えっ?」
「やっっぱり私の体力で組んでいいスケジュールじゃなかった!!めちゃくちゃ反省した!!」

 やはり当日出発は無理があったのだ。時間にも体力にも余裕がなくて、本来ならのんびり探索したかった古馬村でも、返事がないただの屍のようだになってしまった。
 悔しい、とても悔しい。思わず拳にも力が籠る。

「来年は万全の状態で挑みたいし、今日みたいな失態はおかさない……!!」
「………。」
「あ、勿論体力つけることは大前提だし来年までにめちゃくちゃ鍛えるけど!!でも現実的に前泊できればメンタルもちょっと余裕あって嬉しいなあー……なんて……」
「………。」
「氷魔?」

 終始無言だった氷魔は、目を丸くして固まっている。いけない、つい熱くなりすぎてしまった。
 流石に図々しかっただろうか。恐る恐る氷魔を覗き込んで数秒、やっと目が合った。
 
「来年も来るんですか?」
「やっぱり駄目かな?!?!」

 秒で謝った。

 だって、だってあんまりにも良かったから。来年もリベンジしたいって思っちゃったから。こんなにいい景色で堪能しちゃったら、もう下界では満足出来ないと思っちゃったから、思っちゃったから、思っちゃったからしょうがないだろう!?
 後半は逆ギレだったが、なんとか内側だけに留めておく。

「あ、いや、えっと、そうじゃなくて」

 胸の前で両手を振り、氷魔は慌てた様子で違うのだと伝えてくる。
 良かったどうやら違うらしい。項垂れた体を起こし、黙って言葉の続きを待つ。まだ少し慌てながらも、氷魔はいつも通りの笑みを浮かべていた。

「駄目なわけないです。大歓迎ですよ」
「本当?!」
「ええ、勿論」
「じゃあ来年もよろしくね!!」
「はい。……はいっ、お待ちしてますね」

 そう言って、またにこりと笑った。

 



「あなたって」

 もう本当に残りわずか。フィナーレに相応しく怒涛の花火が夜空を埋め尽くしている。
 そんな時、氷魔が不意に呟いた。

「全然めげませんよね。諦めが悪いというか、しぶといというか」

 それはどういう感情なんだろう。意外だと言わんばかりに、氷魔はなんともいえない表情をしている。
 うん、褒めてはいないな。氷魔の言葉だから悪意がないのは分かるけれど、どうも素直には受け取りづらい。

「ダメかな?」
「いいえ、美点だと思いますよ」

 ドンと大きな音と共に、氷魔の顔が鮮やかな光を受けた。輪郭に光が滑り、また夜に沈んでいく。
 思わず頬が緩んでしまったが、流石にちょっと照れくさい。だからだろうか。咄嗟に口から飛び出してしまったのは、茶目っ気たっぷりのこんな言葉だった。

「口説いてる?」

 ふふふ、と隠す気もない表情で氷魔を覗き込む。勿論、期待した返事を待ちながらツッコミの準備も忘れずに。
 頬杖をつきながら、氷魔がこちらを見た。
 両手で自分の頬を包み、いつでも来い、と気合十分に可愛いポーズをとってみる。しかし、待ち望んだツッコミがいつまでも来ない。それどころか、氷魔はじっと無言でこちらを見続けていた。
 なんだその反応は。
 突然の根比べに勝てるはずもなく、私は恥ずかしいポーズのまますぐ様白旗をあげた。

「……な、な、なにさ」
「いーえー?」

 氷魔は意地の悪そうな笑みを浮かべ、そのまま夜空へと視線を戻す。妙に楽しそうな表情が少し怖い。落ち着かないまま、おずおずと視線を逸らした。
 赤い花火が夜空に咲き、続けてドンと大きな音が響き渡る。身体の芯が震わされるようで、肌の表面がぴりぴりとした。

 ああ、もしかしてさっきの言葉は花火の音で聞こえてなかったのかもしれない。
 それなら納得である。まあ、だからといって、もう一度言ってみる勇気なんて持ち合わせてはいないのだけど。


20230727








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