美しい手


「ねえ本部長おお〜〜給料上げてくださいよお〜!」
「い、いやあ、私の一存ではどうにも」
「こんなに頑張ってるのに?毎日したくもない愛想笑いで上司の機嫌を取ってるのに?はあ〜〜人生つらーー!!」
「愛想笑いだったのか……。というか、君キャラ変わり過ぎじゃないか?」
「給料も上がらないしこれじゃ何のためにWBBAに入社したか分からないよおおお本部長おおおお!!!」
「と、とりあえず落ち着いてくれ!あ、ヒカル君水を頼んでもいいか」
「ねえ聞いてるの本部長おおおおお!!?!」
「聞いてる聞いてる。給料はまあ……うん、その、うん置いといて、他に何かないのか?君はいつも頑張ってくれているし、私にできることなら力になるぞ。給料はきっと後々翼がなんとかしてくれるはずだ」
「俺に振らないでください本部長」
「力になってくれるんですか……?」
「勿論だ。言ってみてくれ」
「………会いたい人がいます……」
「会いたい人?」
「WBBAにいればいつかは会えると思ったのに全然会えないし……っていうか何も、本当に何も知らない顔と名前しか知らない……しかもバトルブレーダーズ以降どっっっんなに大会覗いても一回も見かけないし……」
「バトルブレーダーズか、懐かしいなあ。じゃあブレーダーか?私も知っている人か?」
「ミーハーだって思いますかああそうですよどうせミーハーですよ大鳥ファンや盾神ファンとどうせ同類ですよ笑えばいいよ笑えばいいでしょおおおお!!!」
「ヒカル君、水ーッッッ!!水だーーッッ!!」
「どうぞ」
「ありがとうヒカルちゃん日本酒?!」
「水です」
「おいしいね!!!」
「水です」


 最悪だ。全部覚えてる。もう一から百まで全部覚えてる。
 何故あんなにも酔っ払ってしまったのだろう。アルコールは決して弱くないはずなのに、随分と最悪な酔い方をしてしまった。

 三日前。つまり週末のザ・華金に行われた部署合同での飲み会。イベント事業の打ち上げを兼ねたその飲み会で事件は起きた。
 部署ごとの垣根も低く、のんびりとアットホームな雰囲気で進んでいった飲み会。必然、気が緩んでしまったのもあるのだろう。週末の疲れも、お酒による勢いも、全てが科学反応を起こした結果があれだ。上司に掴みかかり、給料を上げろと泣き叫び、次期本部長の大鳥さんのファンをミーハー呼ばわり。役満どころの騒ぎじゃない。

 土日を挟んだことで最低限のメンタルは復活できたものの、翌日は一日布団にくるまって暴れたものだ。恥ず死を覚悟した。
 痛む頭を抑えつつ、何度目かも分からないため息をつく。すると隣から「こーら」と軽いお叱りが飛んできたので、いそいそと居住まいを正す。これも何度目かも分からないやり取りだ。
 だだっ広いWBBA本部エントランスで行われる、小さな攻防戦。ちらりと隣の同僚へ視線を投げれば、新色のリップに彩られた唇がなんとも美しい。かく言う私は体調もメンタルもボロボロのため、残念な化粧仕上がりである。恨めしい視線を送り付け数秒。こちらに気づいた同僚は、周囲に人がいないことを確認して軽く身を乗り出した。

「まだアルコールが抜けないとか言わないでしょうね?」
「それはないけど、もう最悪だよ……。なんであんな酔い方しちゃったんだろう」
「別にいいじゃん、猫被ってない方がアンタ付き合いやすいもん。最終的に本部長大ウケしてたじゃん」

 ケタケタと響く笑い声に、キッと顔を顰める。しかし自業自得だから何も言えない。誰に強要された訳もなく私は自ら酒を煽った。アルハラのない職場、本当にありがとうございます。じゃなくて。
 WBBAに入社して数年。組織の顔――――受付スタッフとして築きあげた品行方正な姿は完全に闇に葬られてしまった。
 ドン引きだった周囲の視線を思い出し、出かけた涙をぐっと堪える。既に枯れ果てたはずの涙は、いとも簡単に溢れてしまう。ダメだ、泣くのはせめて家に帰ってからだ。
 しかし無情にも、まだ時計はお昼過ぎを指したばかり。意味がないのは分かっているが、進め進めと時計に念を送ってみる。進まない。うん知ってた。
 何やってんだ私。
 阿保らしすぎて再度顔を覆う。するとこちらの気を知ってか知らずか、同僚は再び「ねえ」と楽し気に声を弾ませた。

「結局、その会いたい人って誰なの?」
「えっ」

 その言葉に心臓がどきりと跳ねる。

「名前は言ってなかったけど、バトルブレーダーズの関係者なんでしょ?選手?」
「え、いや、その」
「だったら結構出入りしる人多いよね。大鳥さん……は違うか、ほぼ毎日会ってるもんね。盾神コーポレーションの御曹司だって偶に来るし。じゃあ湯宮君と天童君も違うか。鋼銀河も有名だけど有名すぎて逆に……」
「ああああもうやめてやめて〜!」

 ほんっっとうに余計なことをしてくれたな私?!
 興味津々に目を輝かせる彼女は、次々とあの大会に出場した選手の名前を挙げていく。しかし覚えているのは一部のようで、肝心のあの人の名前は出てこない。それにホッとするような、でも歯痒いような。
 真っ先に名前の挙がった大鳥さんと盾神さんは、当時から人気に二分していた二人だ。最初に名前が挙がるのもよく分かる。でも、あの人だって二人に負けないくらい格好良かったと思うのだけど。
 妙な悔しさに、人知れず拳を握りしめる。言いたい、いやでも、言いたくない。厄介すぎる感情がぐるぐると脳内を巡っていた。


「で、誰なの?」


 無邪気な瞳に射貫かれ、ぐっと言葉に詰まる。

 私の会いたい人、それは氷魔選手だ。バトルブレーダーズ以降、姿を消してしまったあの人である。


 バトルブレーダーズで世間が賑わっていた当時、私も現役のブレーダーだった。といっても、周りの皆がやっていたし、そこそこ強かったし、そんなノリでやっていたレベルだ。
 ノリ。そう、本当にノリだけでベイをしていたのだ。
 当然特訓なんてせず、髪を巻いて、可愛い服を着て、バチバチメイクにゴテゴテのネイルをして………思い出しても恥ずかしい。大会なんて着飾って遊び行く場所だと考えていのだ。実際、ベイよりもオシャレの方が大事だったのである。

 まあ、つまりクソガキだった。
 
 でもそう、そこそこ強かったのだ。だから調子に乗るのも早かった。当時は若かったのである。そこは責めないでほしい。
 そしてそんな生意気に拍車をかける如く、チャレンジマッチはほぼ負けなしだ。本戦出場も夢じゃないと本気で思っていた。流石に当時から有名だった鋼銀河や盾神さん、あとは大鳥さんとかには勝てる気はしなかったけれど、大抵の人になら負ける気がしなかったのだ。

 しかし、私は負けた。
 全く無名だったあの人に。

 氷魔〜〜?誰こいつ知らん〜〜と挑み、見事に叩きのめされた。あまりの強さに呆然とした。スタジアムアウトしたベイが額に直撃するレベルで呆然としていた。
 負けた悔しさやら大衆の面前で顔面ベイキャッチを披露した恥ずかしやら、とにかくあの日は消えてしまいたいほど落ち込んだ。最終的には、時間がなくてちゃんとネイルができなかったから気分が乗らなかっただの、睫毛がいつもより上がらなかったからだの、馬鹿みたいな言い訳を繰り返し自分を納得させていた。否、怒り狂っていた。

 ほんっっっとうに若かった……。

 思い出したくもない黒歴史である。
 しかし、私は今でもこの日を繰り返し思い出してしまう。それは、この後の出来事のせいだ。

 大会後、怒り狂ったまま会場を出ると、そこには私を負かし優勝した氷魔選手がいた。顔も見たくなかった私にとって、それはもう宿敵との再会である。しかもどうやら私を待っていたというのだ。

 なんだっていうんだ。まさか笑いに来たんじゃないだろうな。

 苛立ちを隠しもせず、彼を睨み上げる。しかし、そんな敵対心マックスで臨む私を他所に彼は小さく頭を下げた。そして「すいませんでした」と口にしたのだ。突然の謝罪に困惑してしまうと、彼は心配そうにこちらを見つめ「オデコ、痛みませんか?」と続けた。
 時間も経っているし別にそこまで痛くもない。でも、文句の一つでも言ってやろうか。そう思ったのだが………結局何も言えなかった。目の前の彼が、本当にこちらを心配しているようだったからだ。

 途端全部馬鹿らしくなって、急に苛立ちも収まってしまった。

 大丈夫だと告げれば、氷魔さんはホッと息とついた。けれど、その視線はまだ不安げに額へと注がれている。だんだん恥ずかしくなってきたので両手で額を隠した。

『あんまりじろじろ見ないで!』
『あっ、すみません。…………あ』

 苦笑いを浮かべた彼が小さく声を漏らす。もう額は隠したというのに、その視線はまだ動かない。
 今度は何を見ているのかと思ったが、その視線が自分の爪に注がれていることに気がつき、顔に熱が集まった。今日はいつもの可愛いネイルじゃなく、手抜きのトップコートだけ。額を見られるよりも無性に恥ずかしくて、勢いよく手を降ろした。

『だからじろじろ見ないでってば!』
『すみません、そういうつもりじゃ』

 最悪。爪にも気を遣えない女だと思われたかもしれない。いや、別にこの人にどう思われようと関係ないんだけど。
 髪も服も全身着飾っているからこそ、シンプルな爪はどうしても浮いて見えてしまう。こんなの気にしすぎだって、今ならば分かる。けれど、当時はそんな些細なことに心を逆立ててしまう程幼かったのだ。

 何こいつ何こいつ何こいつ……!!!
 いつもはもっと可愛いし、気合入れてるし、こんな手抜きじゃないですし!!じろじろ見て馬鹿にしてるんだろうか。馬鹿にしてるんだろうな。乙女のプライドはズタズタだった。
 静まったはずの苛立ちが、まだ沸々と蘇ってくる。しかしこちらが言葉を発するよりも先に、まっすぐに目の合った彼の口が動いた。

『あの』
『なに』
『綺麗な爪ですね』

 綺麗な、爪ですね。

 その言葉を聞いて、私はまず――――メイクを控えめにした。別に、物腰柔らかだったし控えめな女の子のほうが好みかもしれないとか思った訳じゃないし。
 そして次に、髪は巻かずにストレートで下ろすことにした。別に始終敬語だったし真面目な女の子の方が好きかもしれないとか思った訳じゃないし。
 そしてネイルは、そのままトップコートだけにすることにした。いや、遊びでもベイを続けるならゴテゴテしたネイルは危ないなって思っただけだし。それだけだし。


 それだけ、だったんだけどなあ。

 気づいたら、あの人のことを大会で探してしまうんだからもう駄目である。白状しよう、恋に落ちたのだ。初恋だった。
 友人たちが大鳥さん派か盾神さん派かで盛り上がるなか、私は断然氷魔さん派になっていた。しかし、言えなかった。だってなんというか、恋への落ち方があまりにリアルだったから。流石に言いづらかったのだ。

 もう一度会えないだろうか。お話できないだろうか。しかし、別に何か話したいことがあるわけではなかった。ただ、もう一度会えたらなあと漠然と思っていた。
 そして、その夢は意外にも早く叶った。
 先々の大会で見かける彼は、何故かあの日よりも輝いて見える。怖い、恋って怖い。しかし彼のまわりには鋼銀河やら湯宮くんやら、とにかく誰かが一緒にいることが多かった。なんとなく話しかけづらい。そもそも私はたった一度話しただけの他人で、友人といえる間柄ではないのだ。ひとりの時も勿論あったのだが、それはそれで話しかけづらい。


 次こそは、次こそはと言い続け遠くから見つめるだけの日々。そんなことを繰り返しているうちに、バトルブレーダーズは終了してしまった。暫くは大きな大会もないから、彼を見かけることも少なくなってしまうのだろう。かなり落ち込んだ。
 しかしあれだけ実力のあるブレーダーだ。きっとまたどこかの大会で見かけることがあるだろう。

 そう思っていたのに。

 まさか、あれ以来一度も大会で見かけなくなるなんて思わないじゃん……?!
 いない、本当にどの大会にもいない。流石に世界大会の日本代表選手権にはいると思ったのに、そこにもいない。
 そうして一切表舞台に出て来なくなった氷魔さんの話題はみるみる減っていき、私はひとり涙をのんだ。さらに世界大会が始まってからは、日本代表選手の話題で持ちきりである。一方その頃、盾神さん派の友人は彼がアフリカ代表になったと聞いて泣いていた。しかしその後角谷選手のファンになったというのだから人生分からない。

 元盾神さん派の友人然り、ベイブレード会の飛躍と共に友人たちが新たな推し選手と出会っていくなか、私はというと完全に拗らせてしまっていた。話しかける機会はあったのに勇気を出せなかったことも。初対面の時にあんなにひどい態度をしてしまったことも。褒められて、素直にありがとうと言えなかったことも。
 恋と憧れは混ざり合い、私は最早意地になっていた。名前と顔と、ブレーダーであるという事実しか知らない男の子に心を奪われ続けていた。恋にしては綺麗すぎて、憧れにしては醜すぎる。誰にも言えずひとりで拗らせつづけていた。

 そうして気が付けば、WBBAにまで就職している始末である。
 拙い初恋は実ることも朽ちることもできずに、いつまでも胸の一部に居座っていた。また会えるかもしれないと、そんなことを思って。今更彼とどうにかなりたいわけでも、何か言いたいことがあるわけでもないというのに。



 そして現在。
 結局彼には会えていない。現実ってこういうものだ。
 折角大鳥さんやヒカルちゃんとも接点ができたのだから、聞けば済む話なのだろう。それができなかったのは、他人であると分かっていつつ、単なるファンだと思われるのも嫌だったからだ。なんて面倒くさい。
 そうやっていつまでも拗らせた初恋を、まさかあんなかたちでぶちまけてしまう日が来るとは思わなかった。人生は本当に残酷である。思い出す飲み会での失態は、胃をキリキリと締め上げた。

(本当に、何やってんだろ)

 空しくなって、指先へと視線を落とした。
 透明な光が滑る爪は我ながら完璧の出来である。あの日以来、もう見慣れてしまったシンプルな爪だ。どこが疎かになろうとも、このケアだけは毎日欠かさず行ってきた。ついでにクリームで手のケアもバッチリである。もちもちだ。それすらも、今は薄ら寒いし惨めに思えてくる。


「で、誰なの?」


 再度かけられた言葉に、ハッと我に帰る。随分と思い出に浸ってしまった。
 興奮冷めやらぬ同僚に内緒だと強めに言い切ると「ケチ」と一言返ってくる。しかしあっさりと身を引いてくれた。彼女のこういうところが好きだ。
 いずれ笑って話せる日がくるだろうか。少なくとも、今はまだアルコールの力を借りてよううやく発散できる代物だった。

 そんなお喋りを挟みつつ、時間は刻刻と過ぎていく。
 今日はもう終わりだなあと、すっかり気分は終業モードだ。ファイルを開き本日分の記録を纏める始める。そうして硝子戸の向こうから夕日が差し込み始めた頃、エントランスの扉が音を立てて開いた。人の気配が近づいてくるのを感じ、ファイルから視線を上げる。

 そして、

「すみません、流星さ……本部長に呼ばれて伺ったんですが、お取次ぎいただけますか?」

 えっ。

 淡い水色の髪に、すらりとした長身。
 肩には重そうな手提げカバンをかけた男性が目の前に立っていた。耳に飛んできたその声は、その姿は、いつまでも色褪せないあの人を思い出させた。
 というか似過ぎである。本人?いやでも、もう何年も経ってるからちょっと自信がない。しかし思考停止させるには十分すぎるインパクトだ。
 口を半開きで動かない私に、その人は困ったように眉を下げた。

「………あ、もう本部長は翼に替わったんでしたっけ?えっと、鋼流星さんに頼まれていた資料をお届けに伺ったんですが」

 こんな声だっただろうか。こんな話し方だっただろうか。

「あの……?」

 でも、この人だ。絶対この人だ。いややっぱり自信ない。絶対分かると思ったのに、全然自信がない。色褪せなかったはずの記憶が、急に頼りなく自分の頭を埋め尽くしていく。全部が疑わしくて、何も分からなくなってしまったのだ。
 視線の片隅では、未だ硬直する私を見かねた同僚が「少々お待ちください」と告げ、にこやかに応対を始めていた。

「お名前をいただけますか」
「氷魔です」

 本人じゃん。

 確定してしまった。珍しい名前だ、同姓同名なんてことは絶対ない。
 うそ、うそうそうそ。こんなことってあるんだろうか。いや、確かにこんな日を夢見ていたはずだ。しかし現実のそれは、なんの予告もなく心を置き去りのまま始まってしまった。
 心臓はどくどくと鳴るどころか、あまりの展開にずっと静かである。大丈夫?死んでない?私呼吸できてる?不思議そうに向けられた視線にも胸は打たない。むしろすごい圧力で締め付けられるようだ。

 呆けている私を他所に、同僚はテキパキと仕事をこなしていく。仕事ができる。彼女は内線で確認を取ると「ご案内します」とにこやかに口にした。その声でやっと我に帰り、今さら慌てふためく。もう行ってしまうのか。まだ、まだ何もできていないのにっ。
 縋る思いで同僚へと視線を送る。しかし彼女は立ち上がる素振りもなく、それどころかこちら見つめ淡々と口を開いた。

「ご案内してあげて」
「えっ」
「本部長が貴女にお願いしてって」

 な、なんで?!そんな指名システム今までなかったでしょう。え、まさかバレてる?私の会いたい人が氷魔選手だったって本部長にバレてる?
 あの飲み会でも決して名前だけは言わなかった。けれど流石に当事者たちには分かりやす過ぎたんだろうか。恥ずかしさやら、情けないやら、もう頭はパンク寸前である。

 狼狽える私を急かすように、同僚が彼に見えない位置で腕を小突いてくる。いけない、そうだ仕事だ。これは一応仕事。一応って言っちゃったが百パーセント仕事である。

「ご、ご案内しまー……す」
「お願いします」

 引き攣った笑みには、人当たりのいい笑みが返ってくる。うっ、格好良い。でも正直辛い、吐きそうだ。もう帰りたい。心臓は限界だ。

 先導する私の気も知らず、氷魔さんは後ろを付いてくる。不自然にならないよう視線だけ後ろへ向ければ、やはりいる。本当にいる。
 エレベーターまでの僅かな距離でさえ、足元はおぼつかない。決死の思いでたどり着き、パネルを押して到着を待つ。ちょっとなんで最上階までいってるの、気まずいでしょ早く来てよ。

 無言の時間が辛すぎて、そわそわと心は落ち着かない。ずっと会いたかった人がすぐ傍にいる。その事実に急に後頭部が熱くなってきた。待って、私今日髪はねてなかった?アイラインよれてない?大丈夫?隈ちゃんと隠せてた?
 最低のコンディションを思い出し、膝から崩れ落ちたい衝動に駆られる。世界は残酷だ。

 悶々とひとり項垂れていると、急にガタッと目の前から音がした。
 ガタッ?
 驚いて顔を上げれば、既にエレベーターに乗り込んだ氷魔さんが、閉まりかけた手を扉で抑えているところだった。驚いた表情と目が合い状況を理解する。サッと血の気が引いた。

「す、すす、すみません!」
「いえ、大丈夫ですか?」
「は、はい!失礼いたしました!」

 私も慌てて扉へ手をかけると、扉は機械的な反応で停止し再び開き始めた。どうやら閉まりかけてすぐのところで抑えてくれたようで、氷魔さんも手を挟めたりはしていなさそうだ。自分のすぐ横に並んだ手を見て、静かに息をついた。

 ああもう最悪だ。絶対変な奴だと思われた。それに来客にエレベーター抑えてもらうなんて大人としても恥ずかしい。仕事だろ、しっかりしろ。
 気を取り直してエレベーターへ乗り込み、本部長の待つ最上階のボタンを押す。
 ……………長い。
 再び訪れた無言の時間が、胃を締め上げてくる。しかし気の利いた会話を振る勇気など、先ほどの一件ですっかり消え失せてしまった。少し訂正だ。そんな勇気は最初から持ち合わせていなかった。
 そのまま行き場のない視線を彷徨わせていると、氷魔さんの視線がある一点に注がれていることに気がついた。そして今度は彼自身の手へ。ちらり、ちらり。行ったり来たりを繰り返す視線の先は、彼の手と私の手だった。

 もしかして、やっぱりどこか痛めたんじゃないの……?!

 挟まってはいなくとも、ぶつけたりしていたんじゃないだろうか。それはまずい。非常にまずい。声も発せないほど緊張しているが、流石に見過ごせない状況である。慌てて一歩踏み出せば、彼は驚いた様子で目を見開いた。

「あ、あの!やっぱりどこか痛めて……?!」
「え?ああいえ、違うんです」

 一瞬呆けた後、氷魔さん笑いながら手をひらひらと振る。さらに大丈夫だとアピールしてくれているのか、彼は顔の横で右手を閉じたり開いたりさせていた。い、良い人〜〜……。
 思わず右手を胸に当て、ホッと息をつく。しかし安堵するのも束の間、彼の視線がまた私の右手へと注がれていることに気がついた。理由が分からず首を傾げていると、彼は少し口籠った後、困ったように笑みを浮かべた。

「失礼だったらすみません。綺麗な手だな、と思いまして」

 へ。

 と、間抜けな声をあげる。心のなかだけかと思っていたら実際に声にも出していたらしい。ぱちりと目を開き、氷魔さんはくすくすと笑いだした。恥ずかしい。ちょっと口元何勝手に緩んでるんだ。ちゃんと締めといてよ。
 なんだか妙に空気が緩んでしまい、心地いいのか悪いのかもよく分からない。しかし、先程までも割と柔らかく見えていた彼の表情が、さらに柔らかくなったように見える。氷魔さんは軽く姿勢を崩し楽な調子で口を開いた。その声はどこか軽やかである。

「流星さんの故郷はご存知ですか?」

 不意な話題に、今度は私が目を丸くする番だった。否定の意味で首を振ると、氷魔さんはさらに言葉を続ける。

「ここよりずっと遠い、人里離れた山奥に村があるんです。大自然のなかにポツンと。流星さんも僕もその村の出身なんです」
「へえ……」
「まあ、今はすっかり人もいなくなってしまって村といえるのかも曖昧なんですけど」

 なんと、いきなり氷魔さんの故郷の情報を手に入れてしまった。あとついでに本部長のも。名前と、顔と、ブレーダーであるということしか知らなかった私にとって、これはビッグニュースだった。どんな小さなことでも、好きな人を知ることができるのは嬉しい。
 分かりやすく目を輝かせてしまった私を他所に、彼は肩から下げた鞄を軽く持ち上げ肩をすくめた。

「でも歴史的な資料も多く残っているんです。ですからこれも、急に蔵から持ってきてほしいなんて言われてしまって」

 また新たな情報を手に入れてしまった。本部長の実家には蔵があるらしい。いや、これは特にいらない情報かな。
 一体何に使うのやら。ため息混じりに言う彼だが、その声に不満は微塵も感じられなくて、なんとなく本部長との関係性が垣間見える。きっと仲良しなんだろうな。想像して、つい笑ってしまった。

「じゃあ、本部長に頼まれて態々その……山?に登られて資料をお待ちになったってことですよね?大変でしたね」
「まあ山道は慣れてますから。それに登るのはこれからですよ」
「これから?」
「僕は今もそこに住んでるんで」

 へっ。

 二回目の声が出てしまった。その反応に氷魔さんは満足げに笑っていた。



 それから彼は、村での生活について教えてくれた。今の自分では想像もできないような環境は、なんだか現実味が持てず驚くことばかり。しかも他に村人はおらず、家族ような人と二人で暮らしているというのだからさらに驚いた。……女の人だろうか。悲しくなりそうだから考えるのはやめた。
 きっと不便なことも多いだろうに、何故彼はその村に住み続けているのだろう。気になりはしたけど、聞けなかった。なんとなく触れてはいけないような気がしたからだ。そして、何故彼がバトルブレーダーズ以降見かけなくなったのかも納得した。
 色んな事が一気に分かって、けれど同じくらい分からないことも増えて。ひとりで拗らせていた世界が少しづつ晴れていくようだった。

 エレベーターを降りた後も、氷魔さんの話は続く。なんでこんな話になったのかも忘れ、私はただ憧れの人との会話を楽しんでいた。しかし、本部長室はもうすぐ先である。この時間が終わってしまうかと思うと、自然と足が重くなった。しかし、当然そんな私に気がつくはずもなく彼は言葉を続けていく。

「村に活気があった頃は勿論女性もいらっしゃいましたけど……言った通り、本当に山奥なんですよ」

 そこまで言って彼は視線を落とした。それは、また私の指先へと向けられている。
 ああ、そういえばここから話が広がったんだっけ。
 彼の視線に釣られ、私も自身の手を一瞥する。そして逆に彼の手を見た。細い指。けれど顔の割にずっと男らしい、ごつごつとした大きな手だ。指先に見えるいくつかの傷跡も、山奥での生活を聞いた後だと理由が分かる。

 照れくさそうに彼は笑い、自身の頬を掻いた。

「だから、そんな風に指先まで綺麗にしている方なんて殆どいなくて」

 ぽつりと呟くような声色で、

「綺麗だなあ、と」

 そう言った。

 涙が出そうになった。
 全身が熱くて。胸がどっと苦しくなって。何より自分の想像よりも、ずっとずっと大きかった気持ちに気づいて泣きたくなった。
 貴方に褒められて嬉しかったから、綺麗にしていたの。ずっと会いたかったの。ねえ、あの時はひどい態度をとってごめんなさい。それから、それから、それから。
 カラカラになった喉から、ようやく絞り出した言葉。それはあの日言えなかった一言だった。

「ありがとうございます……」

 油断すると涙が零れそうだったので、そのまま顔を背ける。バレてはいないようで、背中からは「いえいえ」と楽しげな声が飛んできた。
 それが嬉しくて口元が緩んでしまう。けれど同じくらい悔しさも感じずにはいられなかった。

 あの日の後悔を払拭し、私はまたひとつ後悔を作る。一番言いたいことっていうのは、結局また言えないんだなあと。





 その後、用を終え帰宅する氷魔さんを本部長と見送った。隣からそわそわと向けられる視線は、正直かなり煩わしい。

「……合ってたか?合ってたか?」
「………どーもありがとーございましたー」 
「んんんそれはどっちだッ?!」

 分からんぞ!とヤキモキアピールをする本部長はスルーだ。感謝はしている、そりゃもうとてつもなく。が、ちょっとムカつくから暫くはスルーだ。

 不意に視線を落とせば、爪の先がきらりと光った。綺麗だと言ってくれた、あの笑顔が頭を過ぎってまた顔が熱くなる。

 指先で微かに煌めくネイルと傷ひとつない手。氷魔さんが褒めてくれた手。確かに綺麗なのだろう。
 けれど、ああ、どうして言えなかったんだろう。たった一言で良かったのに。大きくて傷跡ばかりのあの手の方が、私にはずっと美しく思えていた。


20230219








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