魔法なんてボクは欲しくなかった


どれだけ月日が経っても、染みついた感覚とは消えないものだ。良くも、そして悪くも。ましてそこに、欠片なりでも愛着といった感情の類を持ち合わせているなら猶更である。

闇に包まれたスラム街を歩き進め、入り組んだ道を大きく曲がる。奥へ奥へと足を運ぶ程、剥がれかけていた記憶がもう一度頭に張り付いていく。固い、そう、こんな地面だった。埃っぽい、そう、こんな空気だった。生まれ育った世界の空気だ。

被せたフードをさらに深く被り直し、大股で足を進めていく。
急かされるように進む足は、興奮からか、心細さからなのか。記憶の答え合わせが進むほど、自分が自分でなくなっていくような、元の自分に戻っていくような、不思議な感覚に陥っていく。そんな覚束なさが、嫌に気持ち悪かった。まるで、体と心が半分ずつ、宙ぶらりんにされてしまっているようだった。


さらに角を曲がって、曲がって、立ち止まる。暗がりの中僅かに人影が見えた。

あ、いた。

きゅっと口元を引き締め、拳に力を込める
壁際に積まれたゴミの山に背を預け、だらしなく崩れた体。投げだれた四肢は、記憶のそれよりもずっと逞しくなっていた。
こちらに気づく様子もなく、体はぴくりとも動かない。距離が縮まるにつれ、口元に血が滲んでいるのが分かった。喧嘩の後か、揉め事か。しかし幸いにも周囲には人気はないようだった。

「アルゴ」

声をかければ、怪訝そうな顔がこちらへと向けられる。フードを外し目が合うや否や、その瞳が僅かに見開かれた。続いて、信じられないものでも見るかのように、頭の先からつま先まで彼の視線が這っていく。
久しぶりの再会だというのに、なんともデリカシーのない時間である。その視線に晒されること数秒、満足したアルゴは盛大に顔を歪め、小馬鹿にしたように笑いだした。

「こんな時間にこんな場所で、随分不用心なもんだ。外面だけじゃなく頭の中までツルツルにされちまったか」
「こんな時間にこんな場所で、ひっくり返ってる人に言われたくないよ…」

血の混じった唾を吐き、アルゴは手の甲で口元を拭った。痛々しい姿のわりに、彼はけろりとしている。しかし燻ぶった苛立ちが、全身からぴりぴりと伝わってきた。
ボロボロじゃないか。一体どれくらいの人がアルゴのこんな姿を知っているのだろう。彼を恐れるスラムの子供たちは、きっと驚くに違いない。

ん、と手を差し出してみるが、アルゴは私の手を一瞥し大きく視線を逸らした。
………誰にも取ってもらえず、伸ばした腕が非常に空しい。しかし、その場から動かないということは、それなりに体はキツイのだろう。
ムッとして指先を口元の傷へ伸ばしてみるが、それは「触るな」と払いのけられてしまった。

「何しに来た」
「世界大会、ブラジル代表になったんでしょ。おめでとうって言いたくて」
「俺を誰だと思ってやがる、代表なんざなって当然だ」
「うん、そうだよね。アルゴも皆も、すっごい強いもん」

動かないアルゴの代わりに、私が彼の隣へと移動する。山積みのゴミを避け、石壁へと背中を預けた。正面から向き合うのは、なんとなく苦しかった。

「でも言ってくれたら、私だって手伝ったのに」

兄弟全員が代表入りしたと知った時は、思わずテレビの前で飛び跳ねてしまった。そもそも、小細工なんてしなくたってアルゴたちの力は本物なのだ。
けれど彼らの性格だ。きっと念には念を入れたはすだろう。対戦相手への妨害か、嫌がらせか。予選の中継を見ていても、不自然に何かが起きているのは明らかった。
悪いとは思わない。世の中は、勝った方が強いのだ。正攻法でいくことが常に正しいとは限らない。それが私たちの世界だった。

言葉の意味を汲み取ったのか、アルゴは鼻で笑った。

「よく言うぜ」
「私だったらそもそも会場に来させないね。油断してる子ならベイごと盗っちゃえばいいし」
「どうせ腕鈍ってんだろ」
「それは否定しないけど」
「鈍臭えお前にできることなんざ、たかが知れてるだろ」
「でも、アルゴが守ってくれた武器はあるよ」

再び向けられた視線に、口元がにんまりと弧を描く。しかしこちらの意図とは逆に、アルゴの顔はみるみる顰められていく。
プライドなんて微塵も持っていないが、せめてもう少し良い反応が欲しかった。

「ねえアルゴ、私ってば見ての通りとびきり可愛いじゃない?」
「はあ?」
「アルゴもねえ、私の顔だけはねえ褒めてくれたもんね」

私は可愛い。これは武器だ。
しかし、どんなに容姿が整っていても、お腹の足しにはならないし寒さを凌げるわけでもない。
顔も知らない両親には悪いが、できるならもっとサバイバル的な能力がほしかった。足は遅く、体力もなく、勘も悪い。生きるためのスキルが私には圧倒的に足りなかった。いつ死んでもおかしくなかったのだ。
しかし、結果として今もこうして命を繋ぎとめることができている。それは、こんな鈍臭い私を見捨てず、本当の兄のように引っ張ってくれたアルゴのおかげだった。

アルゴは、この顔を褒めてくれた。どんな揉め事に首を突っ込もうとも、この顔に傷をつけることだけは許さなかった。
初めは、彼に好かれているからだと思っていた。けれど違った。「アルゴは私の顔大好きだもんね!」と言った時の、彼の冷めた表情が今でも忘れられない。正直、めちゃくちゃ凹んだ。純粋な乙女心は羞恥心で打ち砕かれ、二日は寝込んだ。とはいえ、おかげで神経は大分図太くなった。そう、私は超可愛い。
アルゴは初めから分かっていたのだ、この顔が金になることを、いずれ生きていくための武器になることを。

実際に、この義務的に守り続けた顔は私の人生を大きく変えた。

眩しい世界の偉い人が、私に目をかけてくれたのだ。当時はよく分からなかったが、アルゴに話したら、行けと言われた。アルゴが世界の中心だった私だ。アルゴに言われれば、私は行くしかない。
モデルとしてスカウトを受け、眩しい世界へと足を踏み入れた。生まれた時から染みついた習慣も言葉遣いも、果ては好みまで正され、磨かれ、より完璧なお人形へと生まれ変わったのだ。
ライトに照らされるたび、アルゴの言った武器という意味を実感した。傷がつかないよう、悪い大人に騙されないよう、アルゴが守ってくれた身体だ。美しくない訳がない。
やっぱりアルゴは凄い。生み出されるお金は、私の力じゃない。アルゴの力だった。


「でも、狙った男ひとりを口説き落とせないんじゃ、私の魅力もたかが知れてると思わない?」
「ガキが生意気に何言ってやがる」
「アルゴと二つしか変わらないよ」
「なんだ、ついに惚れた男でもできたか」

揶揄うような発言に、じっと視線を返す。
訪れた静寂の間に、アルゴの顔が一瞬強張ったのが分かった。
罠にかかるなんて珍しい。いつもだったら躱されていたはずの言葉に、乗ってきたのはアルゴの方だった。揺らいだ目が、しまったと言わんばかりに悔いている。

しかし、どうしてこうも上手くいかないのか。折角盤面を整えたというのに、肝心な言葉は出てこない。
悲しいとも、寂しいとも、言い出してしまえばキリがない。愛情の類ならもっとさらに。けれど直観的に、それらの言葉は届かないような気がしたのだ。


「今の私は結構、いろいろ使える存在じゃ、ありませんか」


敬語になってしまったのは、単純に恥ずかしいからだ。
アルゴの力になりたい。それだけなのだ。守られてばかりだった私も、やっと彼の力になれるんじゃないかと思った。ううん、絶対にそうでなければいけないのだ。

私は生きたかった、けれどお人形に憧れていたわけじゃない。
アルゴは言った、それは武器になるって。
だから私は、お人形になることを選んだのだ。私の生きる武器として。そして何より彼の武器の一部として。
けれど結果はどうだ。私の武器は私のためにしか使えていない。彼は何も求めてくれない。刃を磨けば磨くほど、アルゴが私から遠ざかっていく気がしてならないのだ。

「名前」
「なに」
「もうここには来るな」

静かな声だった。
横目でその表情を覗き見るも、闇に紛れて良く見えない。真意はもっと分からない。でも多分、言葉通りの意味なんだろう。
薄汚れた背後の石壁に深く身を預け、ずるずるとしゃがみ込む。ああ、泥落とすの面倒だな、なんて頭によぎって舌打ちをしたくなった。

そっか、来るなか、そっか。
つんと、鼻の奥が熱い。

「……お兄ぃーちゃあーん!!」
「気色悪い呼び方をすんな」

無駄に声を張り上げたのは、そうでもしないと震えてしまいそうだったからだ。
顔を伏せ、情けなく鼻を啜れば甘い香りが不意に漂った。自分の香水だ。鼻が慣れて気づかなかった。それが無性に悲しくて、心に穴を空けていく。

アルゴは欲しいものはどんな手段を使っても手に入れる。使えると思ったものは、容赦なく踏み台にしていく。分かってる、だから悲しいのだ。
私のことは、いらないんだろうか。私は、踏み台の価値もないんだろうか。
私はただ、アルゴの力になりたかったのだ。だってやっと、使えないお人形から使えるお人形になったのだから。

「ここのことはもう忘れろ」

目も合わせず、吐き捨てるようにアルゴは言った。
それに言葉を返せずに、私はただ鼻を啜るだけだ。

泣いてるとバレたくなかったから顔を伏せたのに、これではなんの意味もない。
なんとか呼吸を整えて「無理だよ」と返す。「無理じゃねえ」と平然と返ってきた。


「人生まだクソ長いんだ。すぐに忘れちまうよ」


分かってる、きっと私たちは長生きをする。鍛え抜かれたしぶとさで、這ってでも生き抜いていくだろう。
でも多分、遠い未来で思い出すのは暖かい部屋でも照明の眩しさでもない。


積まれたゴミの山から、バランスを失った人形が崩れ落ちて来た。泥に塗れながらも、しっかりと原型を留めている。
捨てられてしまったのだろうか。でもきっと、また誰かが拾って遊んでくれるだろう。大事にしてもらえるだろう。


アルゴはこちらを見向きもしない。青白い月に照らされた横顔が、ずっと遠くを見つめている。
ねえアルゴ、生きるってなに。使えないお人形でも、アルゴの側なら生きていけてたじゃん。貴方が示した生きるの先に、貴方がいないってどんな罠よ。詐欺じゃん。一緒に生きるために、私は生きたかったんだよ。


長いまつ毛も、赤い唇もいらなかった。
道端に投げ出されたボロボロの人形。
羨ましい。私はね、そういう風になりたかったの。


20220128








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