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52 Reincarnation(2)


私たちは元々一つだった。私は最初からあなたのものであなたは私のもの。互いの半身は互いのもの。引き裂かれたらきっと生きてはいけない。
いつだってあなたの名を呼ぶ。何度見失ってもきっと探し出す。だから悲しんだりしないで。



リノリウムの床に規則正しい足音が響く。それはいつも決まった時間。扉を開けば。

「…いつも悪いわね。本当にもういいのよ」
「いいえ、私が来たくて来ているんです」
「でもね、いつになるのかわかんないから。あなたにだって幸せになる権利があるのよ? ご両親だって心配してるでしょう。私は大丈夫よ」

その人は疲れた顔で大仰に笑って見せる。でもその瞳に涙を滲ませてるのが解った。彼と同じで不器用なその人は、細面で鼻筋の通った整った顔で紫黒の髪をしていた。

「私の幸せはここにしかないんです。彼の傍にしか」

私はいつもの椅子に座ると、微笑んで愛しい人の頬に触れた。だって、こんなに温かい。手だって、こんなに。この手はいつも私を守り、私に触れて、私を包んでくれた。私はいつまでだって待てる。私はこの人の妻なのだから。



***



名前は瞳を閉じたまま。

――はじめさん。

またどこからか、お前の声が聴こえる。

――はじめさん。

以前よりももっとより近くに鮮明に聴こえる。左胸に手を当て静かに目を閉じる。どこから、聴こえる?



一太刀で絶命させた敵兵は大量の血飛沫を上げて倒れた。その手から銃を奪い取った。
そうしてどれほどの時間が経ったか。
名前を抱いたまま脱力していた斎藤は、忌まわしい場所から逃れたくて移動した。夕闇が近づいている。ここを今夜の野営地と決め、剥き出しの土を避けた柔らかな草が僅かに生えた地面に名前を横たえた。
まだ頬には温かみが残っている。弧を描く唇にそっと口づける。少し冷えているのは寒いせいだろう。彼女の指先の赤黒く固まった血をもう一度丁寧に拭う。力を失った細い両手を手で包んで温めた。
この手が自分の背や首に回される時、どれ程幸せだったか。
先程結びつけた薄紅の髪紐に唇を触れ、少し考えて下げ緒にしていた白い組紐の方を彼女の手首にしっかりと固く結び直し、代わりに名前の薄紅の方を己の刀の鞘に巻きつける。これが互いへの道標となるように。
細い身体に緋色の絹を纏わせ、前をしっかりと閉じると再び胸に抱いた。

「夜は冷えるな。寒くはないか、奥方殿」


しばらくの間、愛しいお前の瞳を見ることが出来ぬと思うとやはり辛いが、だがあの夜――。

はじめさんの瞳、青よりも深くて碧い空の色、大好きです。それともやっぱり、紺碧の海の色?

俺の瞳の色が好きだと言った名前は空や海に例えて笑った。そして空の高さや海の深さを超える程に溶け合い全てを一つにした。
俺達は幾度も確かめ合った。だが今ここでもう一度お前に約束しよう。この戦いを全うしたら俺は必ず帰る。長い間お前は俺の名を呼び続けてくれた。お前の元へと俺を導く為に。今になって初めて確信を持ってそう信じることが出来る。
あと少しだ。やっと応えることが出来るのだ。
お前はそれまで待っていてくれるだろうか。俺達は互いに待つことには慣れている筈だったな。そうだろう?

名前。

名前を抱いて夜を明かした。柔らかな髪に触れ、頬に触れ、そうしているうちにほんの一時意識が遠退いた気がする。次に覚醒した時腕の中に名前の亡骸はなかった。緋色の着物も消えていた。
それでも俺達は必ずまた会える。離れても、何度でも。何故ならば俺達は初めから一つだったのだから。




江戸に辿り着くと甲府ではぐれた永倉と原田は既に戻っていたが、二人は新選組離脱をすでに決めた後だった。

「お前は新選組に残るのか?」
「ああ、」
「……名前は、」

触れてはいけない事のように遠慮がちに原田が問う。
彼には名前の最期を聞く権利があると斎藤は思う。だが痛みを滲ませた目をする原田に、斎藤は何も言う事が出来なかった。

「……そうか」

黙したままの斎藤にそれ以上を言わず、単身で戻った彼を責める事もせず、原田が微笑んでみせる。

「斎藤、お前大丈夫か。俺達と行かねえか?」
「俺は残る」
「……そうか。道は分かれても目的は同じだ」
「ああ」
「んじゃ、俺達はもう行くわ」

原田と永倉は斎藤の肩を叩いて別れを告げ、共に去っていった。
四月三日に投降した近藤勇は二十五日、板橋において斬首された。副長土方以下新選組を守る為、彼の身を以ての英断ではあったが、喜ぶものは新選組にはなかった。このおよそ二カ月後に沖田総司は千駄ヶ谷の植木屋の離れで病没するが、彼は最期まで近藤の刑死を知らされず、その身を案じていたという。
宇都宮から転戦北上し、負傷し離脱した土方に代わり斎藤は隊を率いて会津藩の指揮下に入った。四月三日には白河口、行軍を続け八月二十一日には母成峠と戦いを続ける。常に最前線にあるその姿はさながら鬼神の如し強さであった。しかし兵力に劣る会津軍は敗戦を喫し若松城下に撤退する。土方と再会したのはこの退却の最中、猪苗代でのことだった。
会津が落ちるのは時間の問題である。それは誰の目にも明らかだ。
戦況を読んだ土方は共に仙台へと根気強く説得したが「我々をこれまで庇護してくれたのはこの会津藩です」と斎藤は譲らず頑なに首を縦に振らなかった。

「俺は己の信念に従い残留し、武士としての微衷を尽くしたい」

斎藤は土方に「申し訳ありません」と頭を下げる。決して主張を曲げない彼を見つめた土方は深く息をつき、諦めたように、しかし優しい目で「お前は間違っちゃいねえよ」と最後に言った。
斎藤と袂を分けて後、土方は函館へ渡り榎本武揚の幕下に参じることとなる。斎藤はここにおいて会津新選組の隊長となった。
鶴ヶ城に籠城する会津藩を援護する形で、城外で藩兵と共に新政府軍への応戦を連日続けたが追い詰められ、僅かに残った隊士を率いて如来堂に立て籠もる。




九月五日。最後のこの日。
新政府軍に囲まれた会津新選組はついに壊滅状態に陥った。
祠のような心もとない小さな建物の、戸板一枚の向こうから引きも切らず銃器の音が聞こえる。
そして怒号の声。
じわじわと輪が狭まるのを感じる。
兵を失い続ける自軍と違い、次々と援軍の送られる敵の数はもはや見当もつかない。いつ全滅してもおかしくない状況下で斎藤は最後の決断をする。
薄紅の髪紐を鞘から外すと、斎藤は右手で己の左手首に巻きつけ、片端を噛んで固く結びつけた。
そうして、ここまで自分に黙々と付き従い死地を潜り抜けてきた生き残りの七名の隊士に向き直る。彼らを前に静かな声で告げた。

「ここまでよく従いてきてくれた。礼を言う」
「隊長……、」
「この先は指揮を出来ぬが、俺が活路を開く。お前達は後に続け。会津はまだ落ちぬ。犬死にをするな」

一様に疲れ果てた顔をしながらも斎藤への限りない信頼を寄せた七名の目は、未だ輝きを失わずしっかりと頷く。斎藤の戦いぶりを見てきた隊士達は、この隊長と最後まで生死を共にする覚悟をとうに決めていた。

「合図をしたら走れ。脇目を振るな。己が生き残る為に走れ」

その瞬間、斎藤の眼前を、髪に触れるか触れないかの弾道で弾が撃ち込まれた。観音扉を開け放つ。

「行くぞ!」

斎藤が抜刀し左腕を高く掲げた。刀身を白く閃かせ、先頭を切って無数に囲む敵の中に突っ込み、片っ端から敵兵を切り倒し走り抜ける。

「止まるな、続けっ!!」





――はじめさん。

あれからもう半年が経つ。
随分待たせてしまったな。
お前はまだ待っていてくれるだろうか。

俺を呼ぶ声を聞きながらあの時と同じ空を見た。目に染みる程の青だ。名前の言った青よりも深い碧とは、これか? 彼女が消えた日も空はこんな色をしていたが、あの時はこうして考える余裕などはなかった。
ここが何処かはまるで解らぬが、俺はどうやら地面に仰向けに倒れているようだ。視界には空しか映っていない。身体中が軋む。腹部に当てた手がぬるつくのは、出血のせいらしい。
耳元に草を踏む音が聞こえた。
緩慢な動作で少しだけ横に首を動かせば、目の前に男の足先がある。燃えるような赤毛の男は立ったままだ。

「……誰、だ」
「斎藤」

この声には覚えがある。あの時の薩摩藩士か。塞がれたような喉から無理矢理に声を絞り出した。

「お前は、薩摩の……」
「あの折は名乗りもせずに失礼しました。私は天霧と言います」
「蛤御門、の……ときの」
「はい。あの時は君の深慮に助けられた」
「なに……ゆえ、ここに……」

掠れた声が吐息だけになっていく。
咳き込んだ拍子に損傷した臓腑から出血したのか、赤黒い血が唇の端を伝った。

「もう喋らなくていい、斎藤。君は君の場所へ帰りなさい」

天霧が静かな眼差しでじっと見下ろしていた。
見下ろされたまま意識が徐々に遠のく。
ゆっくりと目を閉じる。
瞼の裏に名前の姿が浮かぶ。

――はじめさん。

やっとお前に会えるのだな。
意識は途切れた。



天霧はすぐには立ち去らず、しばらく足元に横たわる男を見ていた。

「これ程に幸せそうな死に顔を見たのは、初めてですね」

誰に言うともなく呟いた。



***



待っている、いつまででも。だって私はあなたを待つことなんて慣れているのだから。

この人は眠っていても綺麗だ。
無駄の無い輪郭に通った鼻筋、髪はお母様と私とでいつも手入れをしているからさらさらと形よく枕にかかっていて、長めの前髪から覗く眉はいつも涼しげだ。閉じた睫毛は直射日光に当たることのない白い頬に濃い影を落とす。
この瞼が持ち上がれば現れるのは、青色よりも深く碧く澄んだ美しい瞳。あの頃より少しだけ大人びた、二つ年上の私のかけがえのない恋人。
高校時代は剣道部の主将と後輩というだけの関係だった。先に卒業した彼の後を追うように私も同じ大学に進学する。片思いだとばかり思っていた彼に想いを告げられた時は夢だと思った。長い時間をかけて心を深く通わせて、私達は将来を誓い合うようになった。
気の利いたことも言わず生真面目で硬派の彼だったけれどいつも不器用に愛を伝えてくれる、そんな彼が大好きで幸せで離れたくなくていつも一緒にいた。
彼の影響で剣道の魅力に目覚めた私は、彼と同じ道場に通うようになった。その日もいつもと同じように一緒に汗を流した帰り道だったのだ。
二人で交差点の信号が変わるのを待っていた。ふいに私の傍らを駆け抜けた小さな子どもが車道に飛び出し、思わず連れ戻そうとした私の目前に迫った眩しいヘッドライト。

「名前!」

強い力で腕を引かれた。
激しいブレーキ音と衝撃音。
気づいたときには私は路肩に蹲っていて、ふと目を上げた私の目に映ったのは、意識のない彼が車道に俯せに倒れている姿だった。竹刀を取らせたら無敵の剣士と言われた彼はその瞳を固く閉じ、白い病室のベッドの上でいつまでも目を覚まさなかった。


それからずっと。
私は彼が目覚める日を待ち続けた。
長い長い時間だった。
どれ程泣いただろう。
私は絶望の淵にいた。


そんな私にあの日――。
奇跡が起こったのだ。



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MATERIAL: ユリ柩 / FOOL LOVERS

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