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46 寄る辺ない思い


遡る六月。名前が上七軒から戻り報告と礼を言いに行くと土方は不在だった。翌日も姿を見かけぬままに二日程経ち、再度赴けば畳に大風呂敷を広げ忙しげに荷物を出し入れしている。小さな声で名前が遠慮がちに声を掛けた。

「あの副長、先日はありがとうございました」
「書状を渡してくれたか」
「はい」

土方が手を止め名前を認めると、そりゃ助かったと笑った。何もかもを含んだその笑顔に思わず名前が照れてしまい俯く間にも、動かし始める手は旅支度を整えているようだ。土方が多忙なのはいつもの事だが珍しい様子である。

「どちらかへお出掛けですか」
「ん? ああ、ちっと江戸へな」
「江戸?」
「仕事だが」

ふとまた顔をあげて「何か欲しい土産はあるか?」と聞かれるが、名前は考えこむ。東京なら解るが江戸を知らない名前には咄嗟に言葉が出ない。

「江戸は京とは何もかも違うからな、お前と千鶴に何か見繕って来てやるよ」

名前は微笑んで頷いた。土方が優しくなったのはどうやら勘違いではないらしい。
新選組が京へ上ってから土方が彼の地へ戻るのは初めての事だった。一時は二百名を越した隊士の数が現在では百余りに減っていた。脱走や粛清の繰り返された結果である。時勢を読み倒幕派に走った者もいた。
隊士の補強は急務であると近藤と話し合い、募集の為急遽土方が数人の小者を連れ東下する事になったのだ。
留守中の仕事について指示をもらい名前は土方の元を辞去する。彼女にはやはり詳細な事情は明かされず、土方の様子は楽しげに見えたが何か胸騒ぎがした。
名前は無論知らない事だったが、上七軒から戻った日の深夜に斎藤が報告に訪れ、一つの情報を置いていった。

「伊東さんは戦力の増強を図る心づもりです」
「巷の噂にゃ聞いてたが、いよいよ新選組に牙を剥くってか?」
「その通りです」

土方が冗談めかして笑うのに斎藤は頬の筋肉を緩めることなく厳しい面持ちで応える。土方も笑いを引っ込めて顔を引き締めた。
伊藤甲子太郎が臨戦態勢を取る。そして彼は来る八月に前出の建白書を提出し、長州に加勢する立場を明らかにするのだ。
千鶴も買い出しなどで町へ出ては噂を聞いていた。

「天子様をお守りする人達と、公方様をお守りする人達の戦なんて、世も末だねえ」
「この京の町が戦場になるなんて嫌だよ」

町家の女将さん達の囁き声が耳に入ってくる。早足で通り過ぎながらも顔を曇らせ、不安が胸に迫るのを抑えられなかった。

平助君は今、どうしているんだろう。それに斎藤さんは。

勝手場で夕餉の支度をしながら町の噂を名前に話して聞かせた。
名前は過日の秘密の逢瀬については千鶴に話していなかった。何故だか余計な事を言ってはいけない気がしたのだ。しかし共に想い人が高台寺党となった立場から心細さは同じである。名前の顔も沈鬱に沈む。
一方の千鶴は平助と逢っている所を斎藤に見られた日をふと思い出す。千鶴もあの時の事は固く口をつぐんでいた。島原に女の人がいるなんて、斎藤さんに限って何かの間違いだよね。名前さんと夫婦の約束をしたって聞いているし。



酒を差された猪口をゆっくりと口に運ぶ。もう何本目かの銚子を手にした朝露が微笑んでその姿を見やる。
暑い一日だったが開けた窓から入る風は昼に比べ幾らか心地よい。

「斎藤さんはいくら飲んでもお顔に出ないのですね」
「酒には強いようだ」
「お酔いにならずに飲んで楽しいのですか」
「楽しくて飲んでいるわけでもない」

呼ばれるようになって以来やっと酌くらいはさせてくれるようになった斎藤との時間を、心ならずも楽しんでいる自分に朝露は気づいていた。話しかければぽつりぽつりという程度ではあるが彼も少しは答えてくれるようになった。未だに身分を一切明かしてはくれないが斎藤という名だけは知った。
腰に大小を差しているので武士だという事も解る。初めて会った日から四月程にもなるが彼の静かな佇まいは変わらない。裏ぶれた茶屋に自分のような者を呼んでくれるのは、何か事情があっての事だろうとは思うがそんな事は一向に構わなかった。
置屋のおかあさんも最初こそ不信そうであったが三日に上げず呼んでくれ、要求以上の金子を置いていく客にだんだん悪い顔をしなくなり今ではいそいそと朝露を送り出す。
斎藤はいつもそう広くない座敷の真ん中ではなく大抵窓際近くに座を取る。そして時折外に目をやっていた。少し離れた位置に遠慮がちに座り斎藤の整った横顔を盗み見れば、彼の目が島原の明るい夜の灯ではなく何処か遠い所を見ているのが解った。

「明日は送り火ですね」
「ああ」
「御出掛けになりますか」
「いや」

どなたかとご覧にはならないのですか、と聞きたかったがやめた。彼は多分詮索される事を好まないし自分の立場で聞ける事でもないと思った。
朝露はまだ年若く修行中の身であり客との駆け引きなど何も知らないが、仮にも芸妓が客に惚れてはならない事くらいは知っている。だが心に芽生える切ない想いに気づき始めていた。

「町の噂ですけど、明日の送り火はいつもの年より警備が沢山出られるとか、」
「…………」
「幕府方と長州の兵隊さんらが何やら仲がお悪いとかで、」
「そうか」

斎藤は無表情で相槌を打っただけだが噂は無論承知である。篠原が左を下にして寝ろなどと言った事も強ち冗談とは言えなそうだ。そして明日の夜警備に出るのは他でもない自分達である。

「町では不安の声が沢山上がってるようです」
「…………」

斎藤の脳裏を掠めるのはやはり名前の事だ。屯所に居れば嫌でも耳に入るだろう。 逢瀬からまたかなりの日が経っている。
不安がってはいないだろうか。
側にいて心配するなと言ってやりたいが今はそれを望むべくもない。あれから会う機会もなく何も話してやれぬのがもどかしい。時間を作れぬわけではないが逢瀬の回数が増える程危険が増す事は否めない。
目の前の朝露の面差しが名前に似ていると思った。名前よりはいくつか年は下であろう。芸妓の卵であれば置屋で寝起きをしているだろうに擦れた所もなく、控えめでどこか品の良さを感じさせるこの娘はやはり彼女に似ているのだ。
しかし所詮は別人に過ぎぬ。



慶応三年十月十四日、将軍徳川慶喜が政権を明治天皇に返上した。翌日には勅許が下り二百六十年の長期に渡り日本国の政治を司った徳川幕府は終焉を迎えた。
賢君と言われた慶喜の英断に、東国武家社会は震撼する。新選組においても衝撃は同じであった。
朝の広間でその件が発表されると

「確か俺達は幕臣だったよなあ?」
「仕えるべき殿様がいなくなっちまったら、俺らは何を守りゃいいんだよ」

驚きを通り越した呆れ声が出る。いつになく引き締まった近藤の声が応えた。

「永倉君、幕府と言う名がなくなり将軍家と呼ばれなくなろうとも、徳川御宗家は朝廷と共に政治に参画する。今でも大名の最高位に在る事に変わりはない」
「あんたはどうしていつもそう呑気なことばっかり言いやがるんだ?」
「新八、口を慎め!」

土方の怒声が飛ぶが永倉は不貞腐れて広間を出ていく。ゆっくりとその後を追おうとした原田が立ち止まり振り向く。

「あんただって、そんな甘い状況じゃねえことぐれえわかってるんだろ?」

憮然と黙る土方を一瞥し苦笑いを残して消えた。
名前と千鶴は二人並んで立ち尽くしていたが、言葉もなく触れた手を固く握り合った。 同じように強く不安を感じる名前ではあるが、その胸中は皆と少し違っていた。
名前は日本史の授業で歴史の一通りの流れは知っている。特に得意科目であったわけではなく年号などは覚えていないが大方の流れや大政奉還という歴史的大事件は勿論知っていた。
それが、今、なんだ。それなら近いうちに戦争が始まる。
はじめさん、無事でいて。
彼女は新選組を脱した斎藤一が御陵衛士において何をしていたかの知識は持っていなかった。
何をしていてもいい。せめて傍にいたい。苦しい胸を抱え、暗雲立ち込める歴史の激動の渦に名前も否応なく巻き込まれていく。斎藤を信じて待つと幾度も決めはしたが、心を締める寄る辺ない不安感に押し潰されそうになるのを止める事は出来なかった。



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MATERIAL: ユリ柩 / FOOL LOVERS

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