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45 刹那


唇に温かく柔らかいものが触れている。耳に幾度も幾度も届く穏やかな低い声。意識がゆっくりと戻ってくる。

「名前、愛している」

目を閉じたままさ迷わせた細い手が温かな手に包まれた。
これは幸せな夢なのだろうか。
静かに瞼を開けると深蒼の瞳に見つめられていた。
すっかり眠ってしまったのだ。

「起こしてしまったか」
「……はじめさん」
「まだ宵の口だ。眠っていていい」

片手を握られたまま名前が自分の唇にもう一方の手を当てれば斎藤の顔が俄に朱に染まる。

「す、すまない。寝顔を見ていたら……つい」
「え……」

その反応で彼の唇が触れていたのだと気づいた。謝られてしまうと名前の頬にも急に熱が上ってくる。

「い、いえ……」

斎藤は不思議な人だ。あれ程に睦み合ってもこのような他愛のない事で顔を赤らめたりするのだ。
名前が唇に当てていた手を伸ばして至近距離にある彼の頬に触れる。斎藤の目が見開かれた。

「はじめさんは眠らなかったのですか」
「……お前の顔を見ていた」

頬の手に斎藤が自分の手を重ねる。

「時間が惜しくてな」
「ごめんなさい、私、眠ってしまって」
「いや、無理をさせ過ぎたのは、俺だ」

先程までの濃密な情事が鮮明に甦り名前の頬の熱が高くなる。掴まれた両手を引かれたかと思うとふいに抱き寄せられた。斎藤の温もりに包まれて泣きそうな程の幸せと、間もなくまた離れねばならぬ寂しさを同時に感じた。

「離したくない」
「私も。愛してます、はじめさん……」
「名前、そのような事を言うと抑えがきかなくなる、また……」
「抑えなくていいです……」
「お前が壊れてしまう」
「いいの、私も、」

もっと、あなたが欲しい。言い終わらぬうちに唇を捉えられ、狂おしい口づけを交わしながら名前は斎藤の首に両腕を回した。



子の刻。時の流れが解らぬままやっと身体が離され斎藤の腕に頭を載せていると、ずっと名前の瞳を見つめていた彼がちらりと燭台の溶けた蝋に目をやりやるせない声音で呟いた。

「あと、二刻程か」
「……………」
「帰したくない、な」

二人に与えられたのは一日の半分、僅かに六刻だけだった。別れる辛さは会えた喜びの何倍にもなってしまうだろう。
名前がまた斎藤にすがり付く。力強い腕が受け止めて抱擁が続いた。ふと気づいたように斎藤が言った。

「夕餉をとっていなかったな」

会えた喜びと驚きでその後は互いを確かめることに夢中で、言われてみれば食事の事など全く念頭になかった。腹は空かないかと斎藤が問うが名前は首を振る。

「……あ、でも、はじめさんは空いてますか」
「そうだな、握り飯くらいなら頼めるか。少し待っていろ」

斎藤が着流しをしどけなく羽織り襖を開けて出ていく。離れるこの一瞬すら寂しいと感じてしまうが黙ってその背を見つめた。
儚い時間は刻々と過ぎていく。
本心では聞きたいことが山程あるのだ。何故こうして離れていなければならないのか。次に会えるのはいつなのか。斎藤が就いている任務とは一体、何か。
何よりも彼の身に危険がないかと常に不安に苛まれていた。御陵衛士は今や明らかに新選組引いては幕府と対立関係にあると言っていい。
斎藤にもしもの事があったら、その時こそ自分が壊れてしまいそうだ。彼を信じている。いつまででも待つつもりでいるが、いつまで待てばいいのか。それだけでも解れば少しは安心出来る気がする。
久し振りに斎藤の顔を見た安堵から今まで張り詰めていた気が緩んでしまったのかもしれない。しかし名前には何も聞くことが出来ない。斎藤が話したがらない事は聞かないと決めていた。彼を困らせることをしたくない。

はじめさんにはきっと考えがあるのだから。

間もなく小さな皿に塩にぎりを三つ載せて斎藤が戻ってきた。

「女将が不機嫌だった」

斎藤が困惑げな表情で名前の前にそっと皿を置く。
それはそうだろう。こんな夜中に酒でもなく握り飯を所望されては。名前がくすりと笑うと斎藤が微笑む。

「やっと、お前が笑った」

せっかく会えたのに互いを求め合うばかりで笑顔を浮かべる間もなかった。

「名前の顔はどのような表情でも好きだが、やはり笑顔がいい」

握り飯の皿を見て笑んだ名前の目の裏に懐かしい光景が浮かぶ。

「紅葉狩りのこと、思い出します」
「ああ、名前の作った塩にぎりは旨かった」

あの時は斎藤の大食振りに改めて驚かされたものだ。手を取り合って山道を歩き日向大神宮を巡った。綺麗な景色と空気の中でとても幸せな時間だった。こんな日が来るなんてあの時は想像もしていなかった。
名前が急に俯き黙り込む。
燭台の火影が揺れる仄暗い部屋の褥の上に横座りし人目を忍んでの短い逢瀬。夜明け前には別れが待っている。
手渡された塩にぎりに目を落としたまま項垂れる名前を斎藤が悲しげに見つめた。

「……名前」

顔を上げると斎藤の瞳が注がれていた。

「辛いか」

名前は首を振るが斎藤の表情が曇った。彼自身辛くないわけがない。己の所為で何よりも大切な名前の笑顔を翳らせているのだ。会えない時を過ごす切なさも同じだ。
名前は頬に無理矢理に笑顔を作った。

「信じて待っていますから……」
「……すまない。だが、後少しだ」
「後、少し……?」
「今は全てを話せないが俺は必ず新選組に戻る」
「本当? 私、はじめさんの身が心配で……。局長が幕臣にお取り立てになって、でも御陵衛士と幕府とは、」
「ああ、全てわかっている」
「でも……」
「名前を妻にすると約束した。約束を必ず守る。俺は必ずお前の元に帰る」

また涙が溢れてくる。斎藤が新選組を離れてから三月、ずっと耐えていた涙を今日だけでどれ程流しただろう。

「俺は名前を泣かせてばかりだな」
「待っているから、無事でいて……」

頬に手を当て親指で拭う斎藤の切ない声に、自分から手を伸ばし彼を抱き締める。名前の手から塩にぎりが零れ落ち畳の上を転がっていく。斎藤は彼女の細い身体を強い力で締め付けるように抱いた。
明け七つ。
廊下に密やかな気配を感じずっと腕の中に閉じ込めていた名前に触れるだけの口づけをした。着物も髪も整え終えた彼女の身体を名残惜しげに離す。

「俺を信じて待っていて欲しい」

名前が斎藤の瞳をひたと見つめ返して頷いた。
まだ離せずにいる彼の指に力が籠る。

「外に山崎がいる」
「くれぐれもお身体を大切に、無事でいてください」
「ああ、約束する。名前も身体をいとえ」

二人の指が離れると名前はこれ以上泣かない為に唇を引き結んで静かに部屋を出た。微かな足音が階下へと遠ざかっていくのを斎藤は切なく聞く。窓辺に寄って見下ろすと薄闇の中、山崎の半歩前に心許ない小さな背中が見えた。
今の立場では名前を送ってやる事さえ出来ぬ。夜明け前とは言え誰かに見られでもしたら、逢瀬をこのような場所に選んだ意味がなくなってしまう。間者はどこに潜んでいるか解らぬのだ。この自分と同じように。
名前は振り返らずに歩いていく。やる瀬ない思いで温もりのまだ残る手を握り締め、見えなくなってもその背の消えた先を見つめていた。



近藤局長は直参になってから、越前にて四候会議に同席した際「親藩たる以上幕府に非があろうともこれを庇護すべきである所、外藩に迎合するとは」と四賢君の一人越前福井藩主松平春嶽を堂々と批判し建白書を出した。
そして六月後半再度建白書を提出するが、内容は長州の処分を厳罰にと訴えるものであった。独り気勢を上げる近藤に、土方はともかくとして他の幹部が冷めた目で見ていたことを知ってか知らずか、ともかく近藤は意に介さなかった。かつて穏やかだった人柄はどこへやら、尊王佐幕を主張するあまりの好戦的な姿勢である。
それから二月程が経ち、その日は珍しく外出をしなかった斎藤が御陵衛士の屯所で夕飯をとっていると、篠原泰之進が彼の姿を目ざとく見つけにこにこと近づいてきた。柔術師範もした篠原はがっちりとした体型で、この暑さに着物の裾をからげ汗を滴らせている。

「斎藤君、眠る時は君、どっち向きかね」
「…………」

のんびりとした口調で唐突に問われた言葉の意味が解らず、斎藤が訝しげに飯碗から顔を上げれば「君は左利きだから左を下にして寝た方がいいだろうね」と言う。意味深な事を、と思うが少し考えて理解する。
踏み込まれた時に容易く斬られない為、利き腕を晒さずに眠るようにという事だ。幕臣となった新選組の襲撃に備えよと言いたいらしい。
鈴木三樹三郎などは刀を刀掛けに掛けず抱いて寝ている、と言って可笑しげに篠原は笑うが、冗談とも聞こえない話に斎藤が眉を寄せる。

「まあそれはともかく、君のいい人はいつ紹介してくれるのかい」
「……何の事でしょう」
「島原にいるだろう? そう言えば知ってるかい」
「…………」
「異国人は好いた女に、あいらぶゆ、と言うらしいよ」

斎藤も心を悟らせない質だが、夷荻の言葉を使って話をめまぐるしくすり替えるこの男も、人の良さげな顔に浮かべる笑みの裏に何が隠されているのか解らないと思った。
御陵衛士では八月に入り朝廷と幕府に宛て建白書を出した。曰く長州の処分を寛容に。新選組近藤勇の主張に対して、宣戦布告ともとれるような正反対の訴えであった。
建白書に名を連ねたのは四名。伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎、藤堂平助、そして斎藤一。
伊東は斎藤を依然として信頼していたようだ。これにより斎藤は間もなく重大な情報を入手する。



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MATERIAL: ユリ柩 / FOOL LOVERS

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