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34 沈痛


一睡も出来ずにいた名前はゆっくりと身を起こした。外はまだ暗く床の中で温まっていた身体を冷えきった空気がすぐさま冷やしていく。寒いという感覚さえ麻痺したかのように、名前は長いことそのままの姿勢でいた。
昨夜はあれから山崎が傍についてくれて太夫の座敷が引けるのを待った。名前は何も言わず山崎も聞かなかった。
彼女には斎藤の行動の意味がいくら考えても解らなかった。泣き腫らし目を真っ赤にした彼女に、君菊も何一つ聞くことはせずただ優しい笑みを浮かべ、引船を呼び髪を解き着物を着替えさせてくれた。ありがたいと思ったが感謝の言葉を発することさえ出来ぬまま、脱け殻のように頼りなく脱力し山崎に付き添われ屯所に戻り、決められた動作を機械的にするように床に入った。



それでも朝は来る。部屋に備えている鏡の前で緩慢な動作で髪を梳り、そこに映る自分を見る。
昨夜泣き過ぎたのと眠らなかったせいで、生気がなく青白い肌に目だけが血の色をしている。
髪を束ねようとした手が止まった。薄紅色の結い紐は以前斎藤が買ってくれたものだ。彼のは白で二人揃いのこの結い紐を互いの髪に結びあった。
髪紐がするりと膝に落ちる。まるで二人で過ごした幸せな時間と同じように他愛なく指の間をすり抜けていく。長いこと膝の上のそれを見下ろしていた。
肩から夜着を滑らせ身体を右に少し捩じってみれば刀傷の痕がある。斎藤がこの傷に何度も何度も唇で慈しむように触れた事を思う。
鏡は左の鎖骨の上辺りの濃い紅色も映し出している。
昨夜斎藤がつけたのだ。その直後に彼は目を逸らして背を向けた。あの背中が目の裏に甦る。
一切を遮断したような冷たい後ろ姿が焼き付いて離れない。

あんなはじめさんを見たことがない。

彼の行動の意味が読めずに名前は心が折れそうだった。これがただの悪い夢ならいいのに。だが夢などではないと紅痕が如実に語る。指先でそっと触れるとまた涙が溢れてくる。斎藤と想いが通じ合ってからの記憶は全て、微細漏らさず悲しい程に名前の中に刻まれていた。
どうして。
思い惑えどもいくら考えようとも答えは出ない。斎藤の気持ちが見えない。朝稽古は続けたかったがいつもの寺で彼と顔を合わせる勇気がなく名前はその場から動けなかった。両手で顔を覆い漏れ出しそうな声を押し殺す。傷つき弱った名前の心は余裕をなくし、斎藤が自分から離れていったと、自分の存在が負担になったのだとしかもう考えられなくなっていた。
音を立てずに自室を出た斎藤がまさに今のこの時、名前の部屋の障子戸に切ない視線を注いでいる事を彼女は知らない。
斎藤の方も昨夜の角屋での事が心に重くのしかかっていた。一晩中名前との事を考え続けたが、自分の女である名前をそばに置く事こそが彼女を危険な方向へ向かわせるという考えから離れられず苦悩していた。彼の深碧の瞳が色濃い悲しみを滲ませる。
どれ程名前のことが気にかかってもこの任務を外れるという選択肢はない。現状新選組の中に自分と逆の立場の者即ち伊東の意を含められた者がないとも限らず、斎藤は警戒心を強めるばかりだった。
名前の肩に刀痕を残したという事実は、自身が思う以上に彼の中でも精神的な傷となっていた。名前が再び傷つくことが恐ろしくて堪らない。しかし障子戸の向こうから聞こえる微かな嗚咽が錐のように鋭い痛みできりきりと心臓を刺す。
島原潜入は雪村綱道に関しては得るところがなく、新たな情報もなかった為大きな成果とは言い難かったが、長州側の思想ははっきりした。土方は名前と千鶴の聞き取りによる報告を受け、これはそう遠くないうちに大きな戦が起こると予感した。また長州の考えが伊東甲子太郎の論調とあまりにも酷似している事から推して、伊東と倒幕派との関係も更に真実味を増した。
密偵の件は副長の指示で未だ幹部にも固く秘したままだが、斎藤は再び屯所での生活に重点をおくようになった。土方に密命を受けて以来伊東に取り入る形で彼の身辺に行動してきたが、既に水面下では懇意な関係を築く事に成功していた。諜報活動の第一段階は成功を見たと言っていい。敢えて元の生活に戻したのは現時点で己が新選組内部で浮き上がる事を得策ではないと考えたからだ。
それは奇しくも土方、伊東双方共に同じ考えだった。



表向きはいつもと変わらない様子で過ごす名前だったが、身近な千鶴には二人の不自然さがすぐに感じ取れた。
名前は明らかに斎藤を避けている。斎藤はと言えばその視線は遠くからいつも彼女を見ているようなのに、彼女に近寄る事はしない。
朝稽古をぴたりとやめてしまった名前は、勝手場に朝早くから来るようになった。
その朝千鶴が起きてくると既に来て火を熾し終わり、屋内に水を運び入れているところだった。よろめきながら大桶いっぱいの水を運ぶ足元がふらつき、瞳は痛々しい程に充血している。たまりかねて駆け寄り桶を奪い取る。

「名前さん、寝てないんでしょう?」
「少し考え事してただけ。平気、」
「平気になんて見えないよ」
「ほんとに大丈夫だから。心配かけてごめんね」

千鶴が思わず涙ぐんで言うのに無理矢理に頬に笑顔を作るのが悲しくて、何があったのか聞き力になりたいと思うのだが、千鶴にはそれ以上どう声をかけていいのか解らない。
前よりも細くなった手首を見るのも辛かった。

「何があったのかな。名前さんがあんなふうになっちゃうなんて。斎藤さん、あんなに名前さんを大切にしてたのに、どうして…」

千鶴は平助にだけ自分の気持ちを打ち明けた。

「一君に限って心変わりとかじゃねえよ。きっと何か事情があるんだと思う」
「事情って何?」
「それは……よくわかんねえけど」
「そんな適当なこと、言わないで」

名前の心を慮って泣きじゃくる千鶴の肩を抱いて、平助も困惑するしかなかった。その事情が解れば問題などないのだ。しかし斎藤の心は斎藤以外には知る由もなかった。
井戸で桶に水を汲み入れる名前を見かけた原田は、その場に縫い付けられたように足が動かなかった。かじかむ手に息を吹き掛けてから危なげな手つきで桶を運ぼうとする彼女の頬を幾筋も涙が流れている。名前が声も立てずに泣いているのだ。まるで本人はその涙に気づいていないかのように。それは原田さえも目を逸らしたい程に苦しく切ない姿だった。
あの満月の夜斎藤は真摯な目で名前を守ると自分に約束した。

あいつ、何やってるんだ?

理由は解らないが彼にも斎藤の想いに嘘がない事や、いい加減な気持ちで名前を突き放しているわけでないことくらいは想像がつく。斎藤を見れば彼の方も酷く傷ついた様子なのが、手に取るように解ったからだ。
彼女を慰めて抱き締めてしまえたらと思わずにいられない。だがそれはきっと彼女を混乱させ、余計に苦しめることになるだけだろう。無力な自分に歯痒さを感じた。



冬晴れの午後、斎藤はいつもの寺で一人鍛練をしていた。
なかなか集中出来ず動きを止める。目に痛いほどの澄んだ青空を眺める。
名前の憔悴ぶりに気づかない斎藤ではなかったが、伊東派に悟らせない為にはやはり彼女との間に距離を置くしかないという考えをいまだ払拭出来ずにいる。この任務が終わるまでは。
あの夜角屋で目の前の名前に触れずにいられなかった。あれは衝動だった。ろくな言葉をかけることも出来ずに我に返り、まるで逃げるように立ち去った自分に彼女はどれほど失望しただろうか。名前をあのように苦しめ追い詰めているのは間違いなく自分だ。
俺は何をしているのだ。その思いに誰よりも責め苛まれているのは斎藤本人だった。


この頃から身体に倦怠感が出始めた沖田は床につく日があった。昼から怠い身体を横たえていれば開け放した障子戸の外、遠くに名前の姿を見つける。心許無い小さな背中を暫く黙って見つめてから床を滑り出た。
斎藤が再び身体を動かし始めると遠くの門から入ってくる人影が目につき、その人物は笑いながらゆっくりとこちらに近づいてくる。

「一君」

何故このような場所に総司がと構えていた木刀を下ろす。

「起きていていいのか」
「うん、今日は気分がいいから散歩。僕も木刀持ってくればよかったかな」
「…………」

言葉と裏腹に沖田の顔色は悪い。

「俺ももう戻る故、共に……」
「一君の気持ち僕は解るよ。名前ちゃんを危険に晒したくないんだよね?」

遮るように放たれたその言葉はあまりにも唐突だった。

「…………」
「だけどさ、今の状況って守りたいと思ってる一君本人が一番彼女を傷つけて苦しめてるじゃない。やってることが本末転倒だよね」
「…………」

返す言葉がなく絶句する。今しがた考えていたことをそのまま言い当てられたからだ。
常から思っていた事だが、沖田の勘は鋭い上に洞察力も観察力もある。病を得て彼の感性はより研ぎ澄まされたようだ。
まさか自分の任務の事までを察知しているのかと危惧する。

「総司、何を知っている」
「別に何も?」

沖田は薄く笑った。

「一君は何でも持っていると思ってた。でもそれは少し違ったみたいだね」
「どういう意味だ」
「うーん、深い意味はないよ。……ここは少し寒いや。やっぱり先に帰るよ」

現れたかと思うと謎解きのような言葉を残し飄々として背を向ける沖田の後ろ姿を見つめ、斎藤の相貌に苦渋の色が浮かぶ。

ならば俺はどうすればよかったのだ、総司。

彼女を泣かせたくなどない。あれほどに望んでやっとこの手に抱く事の出来た名前だ。大切に思うあまりの行動が彼女を苦しめるのならば、他にどうすればいいのか。
もうあんな泣き方をさせたくない。



暮も押し詰まった二十五日日、天皇の崩御が伝えられる。孝明天皇は朝廷にあって攘夷を強力に推し進め、妹宮を徳川に降嫁させてまで公武合体の考えを曲げなかった。攘夷思想から討幕へと繁華した薩長にとっては目の上の瘤が消える形となり、幕府にとっては愈々形勢が不利となる。
この月の初め将軍宣下を受けたばかりの第十五代将軍徳川慶喜にとっては青天の霹靂であった。



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MATERIAL: ユリ柩 / FOOL LOVERS

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