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33 愁嘆


角屋の主人に促され座敷に上がったものの、千鶴は緊張をうまく隠す事が出来ずに固くなって座っていた。太夫に次ぐ高位の天神は本来おっとりと構えているものである。しかし流石に名前も落ち着かず目を泳がせていた。
慣れない二人の為に新造がついてくれていたが、男たちの舐める様な視線は天神の二人に注がれる。見目麗しい二人に客は大層満足した様子で機嫌がいい。既に目を充血させた一人が千鶴に厭らしい視線を向けた。

「お前、可愛い顔してるじゃねえか。もう旦那は決まってるのか? なんなら俺が落籍いてやってもいいぞ」
「い、いえ。私はまだ修行の身ですから……」

彼女を気にしてちらちらと伺う名前の膝に別の客が手を這わせてくる。

「…………!」
「糸里と言ったか? 俺はお前みたいなのが好みだ」

膝頭まで撫でまわすその男の手つきに鳥肌が立ち思わず身を捩った。

「なんだ? 嫌なのか」
「か、堪忍しとくれやす。そ、それより本日はなんの集まりですか?」

慣れない京言葉を使いながら、早く本題に入ってくれないかと名前はじりじりとしながら耐えた。

「お前ら、そんなことは後だ」

一人が声を上げたのをきっかけに男達は、とりあえず女から目を離し議論を始めた。話題はもはや攘夷論などではなくはっきりとした倒幕論のようであった。
支配力のない幕府に政権を委ねる必要はない、新しい政権を作るべきだ、武力を持って徳川を滅ぼすと口角泡を飛ばしながら捲し立てている。

「新選組が目障りだ。幕府に尻尾振ってやがる犬め、今に目にもの見せてくれる」

公武合体すなわち朝廷と武家の協力体制を望んだ幕府の期待は、その象徴であった家茂公の逝去を境に空回りに終わり、西国大名の本心が露わになった。二百六十年という長きにわたり全国の大名を牛耳って来た徳川宗家を叩き潰し、幕府そのものを崩壊させる事、論調は攘夷よりもそちらに大きく傾く。
十五代将軍徳川慶喜がやがて決断する大政奉還は、薩摩長州の考えと完全に食い違っていた。薩長同盟の真の目的は朝廷を表看板に奉じてこの国の政治を行う事、完全なる革命だった。真っ先に排除すべきものは徳川幕府に他ならない。
あまり上品とは言えない下っ端浪士達のようではあるが、決して戯言と言い切れない話の内容に、斎藤達に知らせた方がいいだろうかと名前が迷っていると、酔いの回った浪士らが下卑た視線を浴びせてきた。
綱道の話題が出ず少なからず失望の色を浮かべていた千鶴は、先程の客が突然肩に回してきた腕に飛び上がるように驚いた。つい「嫌っ!」と跳ね除けるように手を払ってしまい、それが男の逆鱗に触れた。

「お前遊女のくせに客に逆らう気か」
「わ、私は遊女じゃありません!」

男が千鶴の腕をむんずと掴み引き寄せようとして、銚子や皿が膳から落ちて派手な音を立てる。

「きゃっ!」
「千鶴ちゃん!」

名前が千鶴の元へ駆け寄った時、襖が開き斎藤と山崎が踏み入ってきた。

「なんだ? 誰だ、貴様ら!」

二人は名前と千鶴を背に庇うように客に対峙する。

「はじめさん!」
「俺達は角屋の用心棒だ。芸妓を不埒な輩から守るのが役目。弁えぬのならば引き取ってもらおう」

斎藤が静かな声で言いながら振り向いて、そして動きを止めた。

「何だと! それが客に対する態度か」
「二度も言わせるな。弁えのない者は客ではない」

言葉は男達に向けておきながら、斎藤は依然として背後の名前に視線を当てていた。
逆上した男が左腰に手をやる。

「貴様、何故そっちを向いていやがる。馬鹿にしているのか?」
「ほう、腰の物を抜くつもりか。主人、網代の間はお開きだそうだ」

山崎が開け放った襖の外に顔を向けた。左右に男を従えた中年の店主がやってくると、抜き身を持った浪士に目を留める。

「お客はん、なんぼなんでもそないしはるんなら、もうここへは上がらないでおくれやす」

浪士は抵抗を見せたが、向き直った斎藤と山崎のゆっくりと睥睨するその視線に怯み、分が悪いと悟ると俄に及び腰になった。
間もなくして騒ぎが治まれば、名前はやっと振り上げていた右手を下ろす。その手には先程まで髪に飾られてた笄が逆手に握られていた。
客は外へ放り出され主人も戻っていくと、そこには芸妓姿の二人と斎藤達だけが残った。千鶴が小さくなって俯く。

「あの、すみません、私……」
「いや、二人とも無事で何よりだ。よくやってくれたな」

山崎が労いの声をかけた。
斎藤は無言でじっと名前を見ていたが、ふいに彼女の手首を取ると足先を返す。名前は突然のことにわけもわからず彼にされるままになった。
通り過ぎざまに山崎、と斎藤が低く声をかければ「承知しました」と顔色も変えず心得た様に山崎が頷いた。



言葉もなく廊下を歩き、連れて行かれた小部屋に入るとやや強引に手を引かれ、彼女はそこに座らされた。膝を突き合わせるようにして斎藤も腰を落とす。

「……名前」
「はい」
「久し振りだ」
「……はい」

やっと会えた恋人に嬉しさを隠せない名前だったが、斎藤の目が笑っていない事に気づいた彼女は一転して身を強張らせた。
斎藤は名前を長い間見つめていた。豪奢に飾り立てられた姿に目が眩みそうになりながらも、その琥珀の瞳の色だけは常変わらずに同じだと少しだけ安堵する。しかし彼女の右手に目を移すと再び眉を寄せた。

「右手の物は、なんだ」
「こ、これは……笄、です」
「持ち方の事を聞いている。雪村に絡んだ男をそれで刺そうとでも思ったのか」

髪を飾る装飾品の笄は片方の先が鋭く尖っており、逆手に握るとまるで短刀や錐のような武器を構えているように見える。

「…………」
「何故すぐに俺を呼ばない。何故お前は、自ら危険な事をしようとするのだ」

斎藤の瞳に怒りと悲しみの綯い交ぜになった色が浮かぶ。名前は答える言葉もなく息をつめた。
彼女の右手からそっと笄を取ると傍らに置き、斎藤は美しい着物に包まれた名前の腕を引いてその身体を抱きしめた。

「あの時のような思いは、もうしたくない」
「はじめさん」
「…………」
「……ごめんなさい」

怒っているというのとは少し違った。ただ、恐ろしいと思った。名前の正義感が恐ろしいのだ。またいつかあのような事が起こりはしないかと、想像をしただけで斎藤は恐怖に囚われる。
しばらく抱きしめていたが、自分の腕の中で身じろぎもせず小さくなっている名前がいじらしくなり、少し身体を離した斎藤が再び黙って彼女を見つめた。
何も言わずに自分を見ている斎藤に、名前は居心地が悪くなって恥ずかしげに問う。

「あの……やっぱり変、ですか。この姿」
「いや、」
「だって、はじめさん……」
「……よく似合っているが」

美しい結い髪に伸ばされた斎藤の手がゆっくりと動き、六本の鼈甲の簪を順に抜き取っていった。一本ずつ抜き取りながら先程の笄の横に丁寧に並べていく。
名前は熱に浮かされたように彼の手の動きを見ていた。大きな花簪を外してしまうと傍らに置き、斎藤はその手で名前の頬に触れ顔を寄せて、唇に息のかかりそうな距離で掠れた声を出した。

「他の男に、この姿を見せるのは……」

潤んだ琥珀色が見上げて来る。開いた襟元に大きく抜かれた襟足は、白粉で真っ白に塗られ眩しい程に煽情的だ。紅を差した唇がまるで誘うように薄く開かれて、斎藤は唐突に激情に襲われた。
それは紛うことなき独占欲であると自覚する。

「お前を隠したいと思った。……このような姿を他の男に見せるのは、もうこれきりにしてくれ」

肩を押し床に倒れた彼女の上に圧し掛かると、その唇を奪うように己の唇を重ね合わせた。
華やかな色味の名前の衣裳が、さながら艶やかな蝶のように床に広がる。名前であって名前でないような姿に幻惑される。

「……んんっ」

思いがけない斎藤の仕種に驚き、目を見開いた名前はしばらく戸惑っていたが、唇を割って忍び入る彼の舌が口内を動き回り、狂おしいまでに求められているのを悟るとそっと目を閉じた。
息を継ぐ為に時々離しては幾度も重ねられる唇に、会えなかった時間の寂しさが溶けていくような気がした。
唇は頬へそれから首筋へと移っていき、斎藤の手が赤い襟にかかる。開かれて鎖骨に小さな痛みを感じた。

「あ、」

名前はぴくりと身を震わせる。刹那、斎藤が弾かれたように身を起こした。

「……はじめさん」

上から名前を見下ろす彼の表情は切なく、苦痛さえ感じているかのように歪んでいる。

「はじめさん……?」

自分の名を呼ぶ名前を強く引き寄せて、心の赴くままに抱きたかった。
だが今はそれが出来ない。ずっと耐えていた。これ以上進んでは己の自制心を保つことが叶わなくなるだろう。
斎藤は湧き上がってくる想いを抑えつける。

「すまない」

縋るような瞳で見つめてくる名前に、言葉を押し出すようにして低く一言だけを告げると、斎藤は彼女から目をそらして身体を離した。名前を残し重い足を無理やりに運び部屋を出る。

「はじめさんっ」

身体を起こした名前は、たった今まで傍にいた斎藤の行為の意味が理解できず、激しく混乱していた。
振り切るように自分を残していった彼が消えた襖を呆然と見つめる。

どうして?

ずっと会いたかった。やっと会えたのに。
気がつけば頬が濡れていた。冷たく閉じられた襖を茫然と見つめる名前の見開いた目から、涙が滂沱として流れ落ちた。
唇に両手を押し当てる。つい先程まで触れられていた彼の唇の感触がまだ残っている。
避けるように逸らされた彼の瞳に、名前は激しい衝撃を受けた。まるで拒絶にしか見えなかった。縋ることを許さぬと言うような断固とした拒絶。彼のそんな様子を見るのは初めてだった。名前にはいくら考えてもわからない。

どうして行ってしまうの。私に呆れてしまったから?

斎藤と心を通わせ過ごした日々の事が脳裏を駆け巡っていた。だが思い返せばそれはほんの僅かな儚い時間で、触れ合ったことさえ気の迷いと言われればそれまでのことだ。なんの約束を交わしたわけでもなかった。



痛みを伴って聞こえてくる押し殺した名前の泣き声が斎藤の胸を引き裂く。己の手で閉めた襖の外に僅かの間立ち尽くしていた斎藤は、名前と同じ、それ以上の痛みに苛まれながら、自身の左胸を掴み唇を噛み締め、その声を聞いていた。
足音もなく山崎が現れる。

「後を、頼めるか」

斎藤の消え入りそうな声に山崎は黙って頷いた。



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MATERIAL: ユリ柩 / FOOL LOVERS

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