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31 翳り


紅葉狩りの翌朝名前は稽古着を纏って現れた。顔を合わせるなり斎藤は目を見開く。手には木刀を持ち凛とした表情で自分を真っ直ぐに見ている。
あの怪我以来この姿を見るのは随分久しぶりの事だ。
彼女は朗らかに笑った。

「隊の復帰の事は諦めました。でも昨日の山歩きでも体力のなさを実感してしまったので鍛練だけでも……駄目ですか?」

斎藤は名前の言葉を受け、そうか、と承諾した。体力をつけたり剣の稽古を続ける事は名前の為にもなるだろう。考えたくはない事だがいつか来るかも知れぬ有事の時にも、きっと。
もしも自分がその時傍にいられなかったとしたら、やはり彼女が自身を守る為の剣は必要だ。
良いと言ってくれたものの何か考え込み黙ってしまった斎藤の横顔からはもう何も読みとれない。
名前は素振りから始めたがこちらを見もせずに黙考する斎藤の様子に得体の知れない不安が過ぎった。だが自分は斎藤を信じると決めている。雑念を振り払いなまった身体を鼓舞するようにして鍛錬に励んだ。
斎藤の思考は昨夜の土方との密談に遡っていた。深夜皆が寝静まり誰にも聞かれる事のないような時間帯に、土方の部屋で声を潜めるようにして交わされた会話。

「そろそろだ」
「はい」
「当初から睨んでた通り、伊東さんの動きは明らかに怪しい」
「彼は西国での交遊が過ぎます。尋常ではありません」

伊東甲子太郎は元々江戸に居てかつては藤堂平助と同門であった。新選組隊士募集の為に近藤が下府、同行していた平助に勧誘され多数の同志を引き連れ京に上ってきたのは元治元年十月。
入隊早々参謀職を用意し破格の扱いで迎えたのは知識人である彼への近藤の卑屈さの表れ、もしくは憧憬の為せる技だったかも知れない。
だが伊東の新選組入りは目論みがあっての事であり、参謀の地位を利用し組を手土産に薩長に取り入ると言う胸勘定ではないか。いずれは新選組からの脱退を申し出てくる。土方はそう予測した。
先日の会談でもその口から新選組に対し引いては幕府に対しての批判めいた持論が憚りもなく出されるに至りその考えは強まった。

「近藤さんはただ困ったような顔をしていただけだがな」

まだ確証は取れていない。今後本腰を入れて伊東に張り付け。斎藤に下された命はそれだった。

「近藤さんもな、自分の出身のせいかどうも弁の立つ奴に骨抜きにされちまう癖がある。だが俺の目は節穴じゃねえ」

黙って頷く斎藤の中にまた名前の笑った顔が浮かぶ。ほんの僅かに顔を歪めたその表情を土方は見逃さなかった。

「名前の事だが隊務復帰はさせない。それでいいんだな」
「はい」
「お前が密偵を続けるという事になると、あいつに話してもらっちゃ困る事が多数ある」
「承知しています」
「俺はな斎藤、お前らが屯所の外に所帯を構えてもいいと思ってたんだ」
「……それは囲うという意味ですか」
「お前は屯所を留守にしがちになるだろう。その方があいつとの時間を少しでも取れるんじゃねえか、とな」
「お言葉ですが俺は名前を囲うつもりはありません。共に暮らすならば、その時は、」
「まあ、そう言うだろうと思ったよ」

若干鼻白んだ斎藤に土方が笑った。彼女と共に暮らすのならそれはきちんと婚姻を結んでからだ、と斎藤は言いたかったのだ。名前に対する気持ちが既に並ならぬものであるということは土方にも解っていた。
だが斎藤はそれとはまた別に、自分の女として名前の置かれた状況にも憂慮を感じていた。
万一の時。それは斎藤の間諜活動が不首尾に終わった場合の事だが、彼女の身に危険が迫る事は十分考えられる。外に家を構えてそこに独りで居られるよりもこの屯所に居てくれた方がまだしも安全ではないかと思う。この時も六角の捕り物の時の名前の姿が思い出される。
平素は出過ぎず控えめで物静かな雰囲気すら持つ名前だが、いざとなると考えられない行動を起こす事がある。この任務については決して彼女に悟らせてはならぬ、とそう思った。



取り込んだ洗濯物が温かい太陽の匂いのするのどかな午後、名前は千鶴とお喋りをしながら一枚ずつ丁寧にそれを畳んでいた。女同士のこんな時間がとても安らぐ。千鶴から平助の話を聞きながら二人で声を立てて笑い合っていた。
そこへ土方が顔を出す。

「千鶴。悪いんだが茶を持ってきてくれねえか」
「はい。局長のお部屋ですね」

千鶴が心得顔で答える。土方から客人の茶は必ず千鶴が運ぶようにと少し前に言われていた。何故かは解らないが土方の言葉の裏に何か切実なものを感じて頷いた。そもそも茶を持っていく事くらい大した事ではない。

「いつも千鶴ちゃんがお茶当番だね。私でもいいのに」
「きっと斎藤さんがやきもちを焼くからですよ」
「え、また、そんな……」

名前は照れて笑うが斎藤との関係は今や周知となり、本来物静かな彼が名前の事になると信じがたい程に感情的になるという事まで知れ渡っていた。
あの島原の夜以来。ひとしきり思い出していつまでもくすくすと笑う千鶴を軽く睨むと

「とっても愛されてるって事ですよ。幸せじゃないですか。じゃ、お茶出してきますね」

と尚も楽しげに笑いながら勝手場に行ってしまった。
一刻もして客人が辞去する気配が感じられた。
境内に出ていた名前は意外な光景を目にする。
今日もまた屯所を訪れていた伊東甲子太郎を玄関まで送ると近藤、土方が屋内に戻っていった。そこに斎藤もおり彼だけがわざわざ門外まで見送りにいったのだ。そればかりかそこで暫く立ち話をしているようだ。
斎藤はそんな事をする人だったろうか。人見知りで必要以上に他人に近付かない性格だと思っていた。しかも相手はあの伊東甲子太郎だ。
土方がかねがね伊東に好感を持っていない事をよく知っているので、土方との間に固い絆がある筈の斎藤のその行動がとても奇異に見えた。
自分が首を突っ込んでいい事だとは思わない。だがその違和感は名前の中で膨らんでくる。また微かな不安が頭を擡げる。
千鶴が名前の名を呼びながら近づいてきた。

「今夜は伊東さんのお土産のお豆腐ですよ」

豆腐は頻繁に膳に載り特に珍しい物ではない。伊東は金回りがいいのか旅が多いようで、屯所に来るたびに何やら珍しい手土産を持参する事が多い。
それが豆腐とは。

「それがね、ただのお豆腐じゃないんです。とても高級な、注文してから作ってくれるようなお店の高いお豆腐なんです。斎藤さんはお豆腐好きだから喜びますよ、きっと。お豆腐のお料理は名前さんに任せます」

千鶴が興奮して笑う。彼女は今や名前達二人の強力な支持者だ。名前は曖昧な笑顔を返したが、先程の違和感がますます強まった。



この夢を見るのは暫くぶりだ。いつ以来だろう。
六方を白い壁に囲まれた部屋、そして自分を呼ぶ優しい声。
斎藤は床に身を起こし、夢から醒めたばかりの頭が正常な活動を始めるのをゆっくり待つ。
明け六つ。まだ外は薄暗い。
稽古に出れば名前とまた顔を合わせねばならぬ。真意を顕わにしない事がその特徴のひとつである斎藤であっても惚れた女の事では己の感情を隠す事が困難なのだ。それは名前と出会ってから自分でも初めて知った事だ。
触れたい、と切実に思う。だが今彼女に触れたら何かが音を立てて崩れてしまいそうな、彼女を壊してしまいそうなそんな危うさを己に感じる。
かつてはどのような任務であっても一切の迷いなどなかった彼の双眸が、痛みを感じてでもいるように細まりその眉が歪んだ。



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MATERIAL: ユリ柩 / FOOL LOVERS

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