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23 夏の休日


まだ巳の刻過ぎなのに既にじりじりと肌を焦がすような日差しである。今年の夏は殊更に暑い、と千鶴は感じる。

「ひゃあ、冷たい」

洗濯物を干し終わった千鶴は額に汗を浮かべ、空いた盥に冷たい水を張りよっこらしょと運んでくると縁に腰掛け足をつけてみる。振り返り開け放った部屋の中に声をかけた。

「名前さん、とっても気持ちいいですよ、ここに来ませんか」
「涼しそうですね。でもこれを終わらせてしまわないと」

名前は文机に向かい慣れない毛筆で土方の書類の下書を清書している。まだ隊務に復帰許可の出ない彼女が、仕事をください、と土方に食い下がり得たのがこれだった。
習字の経験は義務教育程度だが一応ある。とは言え扱い慣れない細筆でびっしりと書かれたものを清書するのは、骨の折れる作業だった。

「あっ、俺も入れてくれよ」
「平助君。駄目だよ。そこ名前さんの場所だから」
「少しくらいいいだろ。もう暑くてさあ」

あちい、あちいと言いながらやって来た平助が千鶴を見て強引に隣に腰掛ける。

「おおー!気持ちいいなー」
「もう!」

千鶴がぷん、と膨れるのを見て名前は微笑ましくなる。

「平助君を入れて上げて。私は後で……」
「名前は優しいなぁ」

ますます千鶴が頬を膨らます。

「怒るなよ。ますます暑くなるぞ。ああぁー、氷でも食いてえなー」
「そう言えば今日は氷の朔日だよ。将軍様は今年の氷を召し上がったのかな」

大和や丹波の氷室で冬から保存されていた氷は稀なる貴重品で、庶民の手の届くようなものではない。口に出来るのはやんごとなき朝廷の天子様や将軍様くらいである。

「将軍様のご体調はどうなのかな」
「良順先生がずっと付いているから、大丈夫だよね」
「だよなぁ」

第二次長州征討の途上体調不良を起こした家茂公の話が出ると、平助も顔を曇らせた。
新選組にとって家茂公は並々ならぬ思い入れのある将軍である。新選組の前身である壬生浪士組は、元はと言えば家茂公の上洛の警護を目的として結成された組織であった。

「氷の日だから凍み餅でも食べる?」
「うーん、やめとく。暑いからそんなの食いたくねえ」

平助の動かした足がばしゃばしゃっと水を跳ね上げ、千鶴の笑いを含んだ悲鳴が上がる。仲良さげな二人の様子が耳に聞こえて来ると、名前はつい手を止めそちらを眺めやる。
斎藤が廊下の先から現れた。

「賑やかだな」
「あ、斎藤さん」
「一君も今日は非番だよな」
「ああ。名前、終わりそうか」
「まだ……もう少し」
「すまない、邪魔をしたか」
「いいえ、そんな事は」

斎藤は名前の部屋に入り彼女の手元を覗き、平助をちらと見て「ここでは平助が煩いだろう」と言いながら敷居近くに座る。そうして刀を外し自分の前に置いた。

「ひでえ! ってか一君、今から刀の手入れか、この暑いのに?」
「平助は手入れをしないのか。この湿気では放っておくと錆びてしまうだろう。大体お前は暑い暑いと言い過ぎる故暑くなるのだ。心頭滅却すれば火もまた……、」
「あーわかったわかった。もういいよ。千鶴行こうぜ。西瓜買ってやるよ」
「平助、人の話を……」

また一君の説教が始まっちまう、と立ち上がり千鶴の手を引いた。「平助君たら」と千鶴が窘めながらもくすくす笑う。名前も斎藤に気づかれぬよう口に手を当て小さく笑った。
二人が立ち去ると静寂が来る。斎藤は涼しげな顔のまま正座をし直した。
刀の鞘から刀身をゆっくりと抜き取ると、それは陽の光を浴びきらりと輝く。名前はその美しさに目を奪われた。
刀を暫し眺めてから斎藤は抜き身に残る油を丁寧に拭き取っていく。そしてぽんぽんと打ち粉を打つ。彼は口を閉ざし真剣な眼差しで慎重に刀を扱う。
刀の手入れは終始無言で行うものだ。吐息や唾液がかかるのを防ぐ為である。名前は手を止めて息を詰め丁寧に行われるその動作をずっと見つめていた。

刀は斎藤さんそのものだ。

新たに油を塗ると返してまた刀身を暫く眺め、満足げに笑むと鞘に戻す。時間をかけて手入れを終われば名前が見つめているのに気づいて頬を緩めた。

「どうした」
「あ、いえ……別に」

見とれていましたとも言えずほんのり顔を熱くしながら手元に目を戻す。斎藤が立ち上がり刀掛から名前の刀を取った。

「ついでにお前の刀もやっておこう」
「ありがとうございます」

再び口を閉じると元の場所に座り、黙って下拭いを始める。彼が刀を扱う姿はとても優雅である。
再び見とれそうになるのを戒めて名前は残りを片づける為筆を持つ手を急がせた。あと一息で清書が終わる。
ほっと息をつき斎藤を見ると刀を鞘に戻すところだった。

「斎藤さんは暑くないのですか?」
「俺とて夏は暑い。だが刀に触れていると雑念を忘れる」

微笑み再び彼女の側に寄ってきて書面を覗く。

「まだかかるか?」
「後少しです」
「そうか」

斎藤は名前の邪魔にならぬよう縁の際まで足音を立てずに歩いていき庭を眺め出した。またほんの一時静かな時間が流れ、名前は今度こそ集中して仕上げた。

「出来ました。副長に届けてきますね」
「俺も行こう」

書類を届けると土方は出来の良さに「いい手跡をしてるじゃねえか。また頼むぜ」と喜び、退室して部屋へ戻りながら斎藤は感心したように笑んだ。

「お前は書が出来るのか」
「そんな、書なんて大袈裟ですよ」
「名前の事をまた一つ知ったな」

彼女は少し笑ったが急に頬を翳らせる。こんなことではなくて、真実を早くきちんと話さなければ。
でもどう言えば……。考え込んで俯く名前に斎藤は何もかもを含んだように穏やかな声で言った。

「俺は急がぬと言っただろう?」

頬にそっと触れ顔を上げさせる。蒼い瞳が包み込むような優しい光を湛えて覗きこんでくる。

「気に病むな。お前は笑った顔が一番良いのだから」
「斎藤さん……」

慈しみ深い瞳に見つめられ髪を撫でられながら名前はまた救われる思いがするのだった。



縁の草履脱ぎの所に置かれたままの盥を手に取り、中の水を植木にかけると斎藤が歩いていく。

「何処へ行くんですか」

斎藤は小さく笑うと井戸端で冷たい水をいっぱいに張り戻ってきた。

「あ、」
「これをしたかったのだろう?」
「え……」
「先刻、そんな目をしていた」

名前を縁に座らせ脚を浸けるよう促す。躊躇う彼女の踵を捧げ持ちそっと水に浸した。

「さっ、斎藤さん……わ、冷たい」

着物が濡れてしまうので名前が慌てて裾を摘まんで持ち上げると、斎藤の顔が一瞬にして朱に染まる。自分で促しておいて彼女の白い脛を目にすると目のやり場に困ってしまうのだ。その矛盾に名前は可笑しくなった。

「冷たくて、いい気持ちです」
「そ、そうか」
「斎藤さんも脚を入れてみてください」
「ああ、……いや、だが」

洗髪の時もだったがふいに大胆な事を言ったりしたりしておいて、そうかと思うと照れたり赤面したりする。
斎藤さんは全然無表情なんかじゃない。
彼の中にある新しい一面に触れる度にまた好きになっていく。ふふっと笑う名前を怪訝そうに見て、そして少しだけ憮然とした顔をする。

「なんだ」
「何でもないです。早く」

袖を引かれ誘いに負けた斎藤は名前の隣に腰かけると、おずおずと言った感じで盥に脚を差し入れた。

「……ああ、これはいいな」

ふ、と頬を緩ませる斎藤と二人、一つの盥に足を入れてのんびりと過ごす。名前はそこに確かな幸せを感じた。



その月の二十日訃報がもたらされた。第十四代将軍家茂の逝去である。新選組にとってもそれは衝撃だった。
十三歳で将軍職に就いた家茂公は脚気衝心の為二十一歳の若さで夭逝。家茂が次代にと指名した家達は排斥され、徳川慶喜が間もなく第十五代将軍に就任する。
それは家康が築き二百六十年の長きにわたり、日の本に君臨した徳川幕府の最後の将軍である。
時代がまた静かに幕府瓦解への一歩を進めた。



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MATERIAL: ユリ柩 / FOOL LOVERS

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