斎藤先輩とわたし | ナノ
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Georgy Porgy Puddin' Pie


ふと目を開ければ白い天井が見えて、身体の下はフカフカのベッドマットに少し乱れたシーツ。
土曜朝はだいたいはじめさんの部屋で目覚める。だけどこの日はいつものように私に被さる圧がなく視界も広く、首を左に向ければすぐ隣に仰向いていた彼もゆっくりとこっちを向いた。
既に目を覚ましていたらしいはじめさんの、剥き出しの肩に程よく筋肉のついた上腕、枕に散る少し寝乱れた紫紺の髪が色っぽい。ベッドの中ではいつも密着してる感があるので彼のこういう姿をあまりじっくりと眺めたことがない気がする。この人やっぱりいつなん時どこからどう見ても格好いい。
なんて思っていると、はじめさんは切れ長の目をわずかに緩ませて「おはよう」と言った。

「おはようございます……」

昨夜もお互いそこそこに体力を消耗しいつの間にか寝入ってしまった。それはいつも通り。なのに今朝はなんてのどかで穏やか(で普通)なんだろう。はじめさんと迎えるいつもの朝なら、覚醒して一番に目に入るのは天井ではなくほとんど彼の顔だけである。綺麗な顔だからそれが嫌ってわけでは全然ないのだけれども。
はじめさんの左手が伸びてきて私の髪に触れた。

「髪を切ったのだな」
「うん、今気づいた?」
「昨夜から気づいていた。あんたの変化はすぐにわかる」

そうなの? でもそれを昨夜ではなく今朝言うあたり。はじめさんてこういうところがある。彼はだいたい思ったことをすぐには口に出さない。だけど気づいてくれていたことはやっぱり嬉しい。

「今までより少し短くしてみたの。へん?」
「いや」

身体を起こしたはじめさんは唇を寄せてきて「似合っている」と言って少し長めのキスをくれた。ふふふっと思わず顔をほころばせた私の首筋にかかる毛先を彼が長い指で弄ぶ。

「体調が悪くなければ今日は少し遠出をしたい」
「え、体調?」
「腰は平気か。宿酔いはないか」
「…………だ、大丈夫」

というやり取りから一時間とすこし後には、私ははじめさんのVOLVOの助手席にシートベルトを締めて座っていた。車は軽快に走っている。まだ明るい午前、前に向けている彼の横顔は相変わらず端整で、時々流してくる視線にはいつとなくときめいてしまう。
陽光の眩しいフリーウェイでハンドルを握る横顔をチラ見するのも、朝日の差し込む寝室のベッドで寝起きのしどけない姿を鑑賞するのも、このイケメンときた日にはどっちも捨てがたいものがあるな。私はことさらはしゃいだ声を出す。

「そろそろ行き先を教えてください」
「軽井沢だ」
「軽井沢? どうして」
「時には存分に走らせてやらぬと車も気の毒だからな。と言っても往復で四時間程だが」

はじめさんにしては冗談めいた珍しい口調だった。私はこっそり考える。
少し前にご実家初訪問をした私はとんでもない失態をやらかした。そこでは衝撃的な出会いもあり、あれから少しの期間私の精神状態はなんとなく低空飛行で、だけども本来ポジティブなタチなので今はもうそんなに気にしてはいない。
もしかしてはじめさんはそういう色々を考えて、気を使ってこうして連れ出してくれたのかもしれない。多くを語らない人だからなかなかその心は読み難いけれど、時々こういうふうに優しいのだ。
昨日の仕事帰りのお酒で私の口数はいつもより少なかった(ほんの若干だけども)。恐らくはじめさんが考えてくれたそれとは別の理由だ。大したことではないけれど伝えておかなきゃと思いながら少しだけ躊躇っていたことがあったのだ。
でもとにかく今は余計なことを言うよりもこのドライブを楽しむのが正解だと私は思う。何にせよとても嬉しくて浮かれた私の顔は気を抜くと何度でもにやけた。
トールゲートを通過すれば首都高から外環道まで続いていた高いフェンスが消えて片側三車線で道幅の広い高速道路になる。まだ都内だというのに景色が急に開ける。はじめさんがアクセルを踏み込んでスピードを上げた。
FMラジオから気怠い感じのR&Bが低い音でかかっている。コンテナに入れてあるのは少ないながら私が選んだ曲ばかりだけれど、何か明るいものをと思いオーディオのパネルに手を伸ばした。
するとはじめさんがまた珍しいことを言う。

「これが終わるまで、待て」
「この曲好きなんですか?」
「……ああ」

はじめさんの音楽の好みはよく知らなかった。彼が黙々と音楽を聴いている図というのが私の想像になかった。彼の部屋ではTVやオーディオを漫然と流すということがあまりないのだ。
英語の歌詞で意味はさっぱりわからないけれど、耳に流れてくるのはけだるいながらも響くような男性ボーカルで、切なげなメロディが印象的だった。
それからさらに一時間もして。はじめさんが車を停めたのは木々に囲まれた大きな別荘のようなところで、表に回ればそれはエレガントでいてカジュアルな雰囲気のあるお洒落なレストランだった。

「斎藤様、お待ちしておりました」

染み一つ無い白いシェフコート姿で出迎えてくれたのは、ここのシェフドキュイジーヌでオーナーさんでもあるのだそうだ。
はじめさんたら、こんな場所にこんなお店を知ってるなんて。付き合いは長くなってきたものの、この人にはまだ未知の顔があるのだろうか。きょとんとした私の内心を悟ってか「ここには少し縁があってな」と彼が微かに笑った。
中庭のテーブルに案内され、私は目を瞠ってつい声を上げる。

「すごい、素敵!」

そこにはビロードのような濃い緑の苔に縁どられた小さな池があり、赤や黄色の枝が空から降るように頭上に広がって、まるでシェードを通したみたいな柔らかな秋の光に包まれていた。
くちなし色のクロスのかかったテーブルには磨き立てられたシルバーが並び、お皿の上にはうさぎの形をした飾りナプキンが可愛らしい。

「気に入ったか」
「はい!」
「軽井沢はさすがに紅葉が早いな」

シェフドランの引いてくれた椅子に腰掛ける頃には私はもう夢見心地だった。
供されるのはフレンチのコースで、お皿が運ばれてくるたびにため息をついてしまうほど綺麗なお料理は、食べてしまうのが惜しいくらいだ。

「はじめさん、ありがとう」

思わず潤みそうになる目をぱちぱちしながら言うと、はじめさんは「何も泣かずとも」と満足気に微笑む。

「ところで来週末だが」
「はい?」
「予定が入った」
「え……、もしかして、またご実家に……」

一瞬緊張するのはトラウマかしらん。

「そう頻繁に実家には行かん。同僚の挙式があるのだ」

結婚式?ああ、そういえばそんな季節ですね。
それを聞いた私は思わず我が意を得たりといった気持ちになってしまった。昨夜切り出そうとしてなかなか言えなかったのは、まさにその来週土曜日のことで、つまり私の方にも予定が入ってしまいそうという件だったのだ。
そして私はここでうっかりと失言をする。

「ほんとですか。なら、ちょうどよかった」
「……ちょうどとは?」
「あ、何でもな……」
「なまえ、ちょうどよかったとはなんだ」

私の言葉を聞き流してはくれず、僅かに眉を寄せ同じ問いをはじめさんが二度繰り返す。じっと見つめる彼の眼力には勝てた試しがない。私はしぶしぶ語りだす。
それは一月ほど前にきた唐突な電話から始まった。

『俺、俺、覚えてない?』
「は? オレオレ詐欺ですか?」
『お前、そういうとこ変わんねえな。ってちげえよ、詐欺じゃないって、楠だよ楠』
「……くすのき……って、あ!」

そうだ、確かに名前は楠だった。この人は誰あろうかつて或る年のバレンタインデーに、ひょんなことから煎餅のように硬いチョコケーキを私にむりやり食べさせられたことのある、可哀想な私の同級生である。向こうが名乗ったことによりずっと忘れていた名前をばっちりと思い出した。
彼の話は学生時代の有志で同級会をやることになったという件だった。仲の良い女の友人にも少し前に聞いていて、都内が会場だからなまえもぜひ来てよと言われたっけ。
でもとりあえず問題はそこじゃない。問題なのは彼らが勝手にやった幹事決めで、いない人の名前まで書き込んだあみだくじをやり、私が幹事の座を射止めたという部分である。

「射止めたって……別に嬉しくないんだけど。そういうの苦手なのに」
『そう言うなよ。俺も幹事だしさ、会場も出席者もほぼ決まってるし別にもうやることないし』
「えー、楠と二人で幹事?」
『嫌そうにすんな。ともかく要はなまえが出席してくれればいいの』

楠の執拗な説得に私はつい頷いてしまったけれど、実際に行くかどうかはまだ迷っていた。あの後から女の友人もまた連絡を寄越しさらにプッシュされ、懐かしさもあって行きたい気持ちに傾きかけてはいたけれど……。
ここまでの経緯をかいつまんで説明すれば、はじめさんは特に反応を見せずに押し黙ったまま、音を立てずナイフとフォークを置いた。今の説明では煎餅ケーキのくだりはもちろん端折っていたけれど、話している間彼は相槌も打たず口も開かなかった。
……これはちょっと不穏な予感。どうしよう。気を悪くしちゃったかな。
まさか男の同級生と電話をしたから腹を立てたとか。それとも、幹事を一緒にやるってとこかな。

「あ、でもね、幹事って言っても名ばかりで事前に会うわけじゃないし、当日行くだけだから」
「…………」
「ちなみに楠って、彼女いますからね?」

彼女いる説は多少古い情報だけど一応牽制しておく。なのにはじめさんは私の言葉に応えてくれもせず、軽く手を上げてソムリエを呼んだ。もうコースは半ばまで進んでるしまだ昼だし、そもそも車で来たんだから最初からワインを控えてるのだとばっかり思っていたので、その行動が唐突に思えて私は目を見開く。
右手首の腕時計に一度目を落とした彼は、すぐさまやって来てテーブル脇に控えたソムリエに向かい、静かな声でびっくりすることを言った。

「部屋は空いているだろうか」
「すぐに確認してまいります」

え! そっち!
ソムリエは顔色も変えずに即答して一度下がり、戻ってくると「ご用意できます」と恭しく頭を下げる。
流れるように隙のない所作で広げられたワインリストを、ゆっくりと見たはじめさんは無表情に中の一本を指し、運ばれてきたボトルのラベルを示されて頷く。
クリスタルのワイングラスの足を指先で持ち少し傾けて、色を見ながら香りを確かめ、そうしてから形のいい唇にグラスのふちを当てた。その一連の動作を私は固唾を呑んで見つめる。
はじめさんが再び頷けばソムリエは滑らかな手つきで私のグラスにもルビー色のワインを注いだ。
いえ、確かにお酒は大好きなんですけども。出されたからには喜んでいただきますけども。そこでやっと目を合わせてくれたはじめさんの口調はやはり低く静かだった。

「ここはオーベルジュだ」

そうですか、それは素敵……ってだからって!
まさか昼日中から部屋を取ったのってお仕置きのためとかじゃないですよね?
そもそも別に合コンに行くわけじゃあるまいし、なんか文句でもあるって言うんですか? 同級会くらいはじめさんだって行くでしょう? という強気の言葉が口から出るわけもなく、私は力のない声を出す。

「あの、同級会行かない方がいい?」
「俺の決めることではない」
「…………」

眉一つ動かさないその一言は答えになってない。でもまあ確かにはじめさんの言うとおり、自分で決めることなんだよね。ふう、とわたしはため息をつく。
どこかさっきまでとは違うように見える。今日のはじめさんが朝からずっと、いつもと比べても珍しく楽しそうにしてたから、この微妙な空気のさっきまでとの落差がことさらに感じられるのだ。




都心のホテルで行われた披露宴はなかなかに盛大だった。雛壇に座る同僚はいつになく神妙な顔つきをしており、彼を眺めながら近い将来には自分もあの立場になるのだろうかと考えれば柄にもなく面映ゆいような気になるが、新婦の顔をなまえに入れ替えて想像すれば楽しみにも思えてくる。俺は不思議な感慨に囚われる。
二次会はシッティングビュッフェだったが、頃合いを見計らい新郎と新婦に改めて祝いを述べその場を辞した。
地下鉄の駅まで歩き大きな銀杏や欅の並木の長く続く夜の通りを見やる。徐々に気温が低くなってきてはいるが、色づくまでに都内ではまだ日にちがかかるだろう。
時期が来ると散り敷いた落ち葉で黄金色のトンネルになるこの通りには、紅葉を楽しみながら食事のできる場所が多い。そう考えれば軽井沢でのなまえのことが自然と思い出された。
あの時の俺は不機嫌だったわけではなかった。
日帰りの心づもりで席のリザーブをしたが、食事をしながらなまえの様子を見るうちに、やはり高原の夜を彼女と過ごしたいという気になった。しかし人気の高い観光地のハイシーズンに一般のホテルは取り難い。しばし思案したために言葉が減ったが、ただそれだけのことだ。
なまえの話とてむろん頭の半分で漏らさず聴いていた。合コンとやらに行こうというならば別だが、同級会参加も幹事を務めることも相棒が男であったとしても、それは必要な社会生活の範囲であろうと思う故咎める気はない。若干面白くないと感じたことも事実ではあるが、そこまで束縛しようと考えていたわけではないのだ。
あのオーベルジュは知る人ぞ知るといった隠れ屋であり、昨今流行りのインターネットでの斡旋はしないと聞いており、もしやと思えば果たして幸運にも部屋が取れた。案内された客室は窓から眺める昼下がりの景色が美しく、オーガニック素材を配した品の良い調度によく気配りがされた設えは清潔で快適だった。
部屋に入るなりちらちらと目を泳がせたなまえはすっかり萎んでしまっていた。彼女が何を考えていたのかは想像に難くない。どうやら俺は随分と心の狭い男だと思われているらしい。だが肩を引き寄せれば素直に腕に収まり、おずおずといった様子で「機嫌、直りました?」と上目遣いをする彼女には苦笑を禁じ得ない。あのような目つきをされれば例え怒っていたとしても矛先を収める気になるだろう。
とは言え酒などを飲んで、他所であの表情をしてもらっては困る。

「何も怒ってはいないが」
「ほんとに?」
「本当だ」
「なら、よかった。私、てっきり」
「同級会は行くといい」
「いいの?」
「無論だ。だが自覚はしてくれ」
「自覚……」

あんたが男の目を惹く女だということを、だ。

「わかったか?」
「ハイ」
「わかっていないだろう?」
「……え」
「教えてやる」

ベッドに仰向けに倒した彼女は俺を見上げながら困惑したように「まだ、明るいですよ?」と言い目を瞬いた。その素振りは小動物のようで実に愛らしかった。彼女が尚も俺の顔色を伺うのがわかればいじらしい反面可笑しくもなる。
前の晩も存分に愛したというのにまたすぐに欲しくなる俺は、己でも相当たちの悪い男だと思うが愛おしいのだから仕方がない。口づければワインのせいだけでなくほんのりと頬を染め、身を任せてきた彼女を抱いた俺には憂いなどなかったと思う。まだあの時は。
もう一月もすればここも美しく色づく。ライトアップされた夜の銀杏並木を共に歩けば、きっとあの日と同じように彼女ははしゃぐだろう。
シルバーのタイと胸のチーフ、カフリンクスを外してポケットに収め、代わりに腕時計を出して手首に巻く。時刻を確認すれば21時を回ったところだ。同級会はまだ終わっていないだろうと思う。
「帰りに落ち合います?」と出掛けになまえは言ったが、それでは彼女の帰りを拘束することになるだろうし、挙式帰りの格好で時間を潰すのも気が進まなかった。
ここへはまた次の機会に連れてくればよいと考え、取り出しかけたスマートフォンを胸ポケットに戻した。その声が聞こえたのはその時だ。

「ちょっと……やめてよ」

注意深く聞かねば聞き逃してしまいそうなひそかな声だったが、それは確かになまえの声だ。立ち止まり耳をそばだてれば、すぐそこのオープンテラスから聞こえるようだ。しかし姿が見えない。




「飲み過ぎだよ、楠」
「俺は酔ってない。だから、話聞けって」

同級会はイタリアンのお店で銀杏並木の見事なテラスを借り切って行われた。
一応幹事なのでそろそろ会計を取りまとめないといけないかなと席を立った時、先に皆の輪から外れた楠がちょうど手招いたので応じる。
楠は最初から学生時代の話を延々としていた。曰く当時私を好きだったのだとか。それをしつこく繰り返していた。そもそもそんなの時効だし、初めのうちこそ「はいはい、ありがとね」なんて聞いていたけれど、空気がちょっと嫌な感じになって辟易しかけていた。

「早く会計して皆のとこ戻ろう。もうそろそろお店出ないといけないでしょ?」
「なまえ……俺、今でもお前のこと、」
「だから、飲みすぎだってば」

すぐそこには歩道がありその向こうは車の通る大きな道路。銀杏の大木で死角になったそこは暗がりだ。軽くいなしたことが気に障ったのか楠がいきなり私の腕を掴む。

「やだ、ちょっと……離してよ」
「本気だって言ってるだろ? お前にもらったケーキ、あの時マジで嬉しかったんだよ」なんて言われて私は動揺する。さっきまで笑っていたくせに真顔になっていて、あろうことかその顔が私に迫ってこようとしてる。ちょっとちょっと、本当勘弁して……
思い切り顔を背けて回避しようとした時、すっと楠の手が離れた。

「いてえっ!」
「嫌がっている女に無体な真似をするな」

取られた腕を背中で捻られ悲鳴を上げた楠と、その向こうから聞こえる地を這うようなこの声。
それは私にとって、聞き間違えることなんてありえない声だ。
……どうして? どうして、はじめさんがここに。

「なんだよあんた、離せよ、痛いって!」
「一つ確認しておきたいのだが、いつぞやになまえの作ったという煎餅のように固い菓子を食したのは、確かにお前か」
「はあ? なんの話だよう」

涙声になった楠をぎりと締め上げながら低い声を出すはじめさんの目は、まるで刺客もかくやと思われるほどに鋭い。彼は結婚式の帰りの筈だけど、タイのない高級そうなブラックスーツにシャツのボタンを幾つか外したスタイルで現れたのでものすごく迫力がある。
……って今そんなこと言ってる場合じゃなくて。
私は固まったまま目の前の光景を見ていた。

「答えろ」
「なまえの、ケ、ケーキは、確かに俺、……食った……けどっ」

はじめさんがなんでそれを?
私は彼が煎餅ケーキのエピソードを以前に土方さんから聞いていたなんてことを知らなかったのだ。
はじめさんは今度こそ間違いなく不機嫌だ。不機嫌どころか見ている方が震えのくるほど冷えた氷点下の眼差しで崩折れた楠を見下ろしている。

「過去は不問だ。だが二度となまえに手を出すな。次はこれでは済まさぬ」




氷点下はまだ続いている。銀杏並木の歩道を歩きながらはじめさんは、駅への階段は降りず通過してしまう。地下鉄乗らないんですかとか、結婚式ここの近くだったんですねとか、彼が黙っているので何も聞くことができずに、私も黙ったままで手を引かれていくしかなかった。
土曜の夜だけどお洒落なカフェやレストランの途切れたこの辺りは暗くて、街灯も届かない木々の向こうは鬱蒼としている。昼間なら散歩をする人たちが思い思いに休むベンチにも今は人影がない。
はじめさん、どこへ行くつもりなんだろう。
でもそれも聞けないまま項垂れた私は、取られていた手を不意に強く引かれて驚いて、少し踵のあるショートブーツの足元が乱れてよろめく。

「……ご、ごめんなさい」

何がごめんなさいかもわからないのについ小声で謝る私の腰が引き寄せられ、彼の腕にそのまま収められたかと思うと気づけばそこは歩道から逸れたベンチの裏側で、はじめさんが大きな銀杏の木の幹に私の身体を押しつけた。

「あの……、」
「あれほど自覚を持てと言っただろう」
「だって……」
「あんたにはまだわからないのか。幾度も言っているのに」

暗闇ではじめさんが射抜くように私を見つめる。





――全文は年齢条件を満たす方のみBehind The Scene* にて閲覧ください――





Georgy Porgy, pudding pie,
kissed the girls and made them cry

あの日の高速でFMから流れてきた曲の印象的なこのリフレインが、低い音で幾度も頭の中に繰り返されていた。
たった一人と思い決めた俺はもうにっちもさっちもいかない。なまえがどこかへ行ってしまうのではないかという不安をいつも俺に与えるからだ。檻に繋がれたのは間違いなく俺の方なのだろう。切なく甘美なあんたの腕の中であんたの心変わりに怯えている。俺にはここ以外どこにも行きようなどないというのに。
だがそれでかまわないと思ってもいる。
他の誰も代わりにはならない。俺にはあんたしかいない。あんたを愛していいのは俺だけだ。
己の激情に常に苛まれながら、だがなまえを想うことは至福であり、そして愛するがゆえの苦悩にまた苛まれる、結局はその繰り返しだがなまえを途方もなく愛しているのだから致し方ない。

ジョージーポージー、プリンにパイ
女の子にキスをして泣かせた

ジョージーポージーとはあんたのことだな。プリンにパイのような甘い魅惑的な香りで雁字搦めにする。
さしずめ俺の方が泣かされる哀れな少女の立場というところか。



2016/10/20


▼幸御美月様
100万打企画ページにあとがきしています



Georgy Porgy Puddin' Pie

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