He is an angel. | ナノ
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08 何かが動き始めてる


食事の後一緒にお皿を洗って、私が先にシャワーを浴びリビングに戻って来ると、はじめさんの姿がなかった。
レースのカーテンが小さく揺れている。

「はじめさん?」

はっとしてベランダに顔を出して見れば、彼はそこにいた。
全身黒ずくめで手すりに凭れている後ろ姿は、何故だか夜の闇に溶けてしまいそうに儚く見えて、私は裸足のまま傍寄ってしまった。

「はじめさん、」
「どうした?」
「あ……どこにいるのかと思っちゃって、」

穏やかな表情で振り返り少し驚いた顔をしてから瞳を細める彼に、焦った自分が何となく気恥ずかしくなり、えへへと笑った。
彼が空を見上げたので、私も空を見る。

「アステリズムだ」
「え?」
「夏の大三角。ベガ、アルタイル、そしてデネブ」
「あ、織姫と彦星?」
「この時期は雲がかかりやすいが今年はよく見えているな」
「七夕ですね。今年は二人会えたのかな」
「どうだろうな」

横顔がやっぱり少し寂しそうに見えて、手すりに掛けた彼の左腕の肘につい指先を触れてしまう。
このままこの夜の空に消えてしまいそうな、そんな気がした。
彼はいつか、天界に帰ってしまうのかな。
その時が来るのを想像してふととても寂しいと感じた。
私、どうしたんだろう。





俺の肘になまえの手が微かに触れた。
それはわざとなのか偶然なのか解らないような控えめな触れ方だったが、俺の心臓が大きく跳ねる。

「なまえ?」
「あ……、」

引こうとした指を引きとめるように、思わず俺の指先をそっと重ねる。
内心の動揺を抑えて彼女を見つめた。
俯く彼女の濡れた髪の隙間から、薄く染まった愛らしい耳朶が見えた。

「どうかしたのか?」
「て、天使って普段は天界にいるんでしょう?それどこにあるんですか」
「天界はあの星よりももっと遠い。空には果てがないが概念上は最上層にあるからな」
「…………」
「なまえ、それが何か、」

空の果てを一度見遥かすようにした後彼女に視線を戻すと、いつもより潤んだ琥珀色の瞳が俺を見ていた。
息を飲み思わず指に力を込めようとしたその時、彼女の指がするりと逃げる。
その手を追い掛けて引き寄せ抱き締めてしまいたいと強く思うが、俺の脳裏に夕方の光景が甦り途端に躊躇した。


「あっ、やだ忘れてた、シャワー。はじめさん、浴びるでしょう?それを言いに来たんだけど……、は、裸足のまま出ちゃった。足もう一回洗って来なきゃ……、」

慌てたようにパタパタと部屋に戻っていく後ろ姿を見つめながら、壁と俺の腕に閉じ込めたなまえの、驚いて見開かれた瞳を思い出す。
ほんの少しだけ触れていた指先に目を落とした。
ベガとアルタイルは今年は会えたのだろうか。
二つの星の距離は14428光年も離れているが、その心は強く結ばれている。
俺となまえは触れられるほど、こんなに近くにいるのに、心の距離はどれほどあるのだろう。
だが急ぎ過ぎてはいけないと、油断すれば溢れ出しそうになる感情を抑え込んだ。





ベッドに入っても全然寝付けなかった。
はじめさんの手料理と一緒に沢山呑んだ筈の、越野寒梅の酔いはすっかり醒めてしまったみたいで、目だけではなくて頭も何だか冴えている。
壁を一枚隔てた隣のリビングのソファにはじめさんがいる。
彼はもう眠ったのかな。
どうしてだろう、私、おかしい。
私は確実におかしくなっている気がする。
天使と称して昨夜現れたはじめさんと、一緒に過ごしたのは24時間と少し。
彼の素情も現れ方も出会い方も何もかもがおかしいし、事実上一緒に住む事になった事だって非常識だし、おかしい。

……愛し合っていたのではないかと、思う。

聞き違いだと思い込もうとした言葉が、今さらのように私の心を揺さぶっている。
何よりもおかしいのは私の気持ち。
こんなに信じ難い荒唐無稽な状況を何故か全て受け入れていて、それだけじゃない、彼がいつか消えてしまうかも知れない事を寂しいと思うなんて。
私を拘束したあの悲しそうな瞳が頭から離れなくて、胸が苦しい。
こういう気持ちは初めてで、これを何と呼ぶのかさえ分からない。
千景さんと付き合った時も“別れた”時も、こんなふうに胸をぎゅっと掴まれるような切なさを感じたりはしなかった。
はっきり言えば好きだという自覚もないままに、引きずられて付き合っていた、という気がする。
強くプッシュしてくる男性に女の子って弱かったりしませんか?
私は典型的なそのタイプ。
好きだったのかと聞かれれば、それはまあ、好きだったんだ、と思う。
少し面倒くさい人ではあったけれど、やっぱり“別れた”あの夜はそれなりに傷ついたわけだし。
でも千景さんのことは今思えば、例えば親友の千鶴を好き、というのと同じような“好き”だったのかもしれない。
今みたいに胸が締め付けられた事も、彼の事を考えて眠れなくなった事も、正直なかった。
でもはじめさんは違う。
ここまで考えて、私は一人固まる。
え?
私、はじめさんを…………好きなの?
まさか、これは。
この気持ちは。


明け方になってからやっと眠ったような気がしたのに、スマフォの音に起こされた。
時刻は7時。

「もしもし……、」
『あ、なまえ? 朝からごめんね、日曜日なのに。あのね、悪いけど今日出て来られないかな……』

電話は千鶴だった。
昨日千景さんと平助君がわざわざ休日出勤をしてまで作っていたのは、月曜日の商談で使うプレゼンテーションの資料だったらしい。
しかし何故かオフィスの主電源が落ちて、平助君のパソコンのデータが消えてしまった。
元になるデータの入ったUSBメモリは営業事務をしている私のデスクに鍵を掛けて保管している為、その鍵が欲しいのだと言う。
俄かに焦る。
平助君から私に連絡を取って欲しいと言われたということは、昨日千景さんがかけてきた電話の用件って、もしかしてこれだったのかな?
勘違いをして仕事の用件をスルーしてしまったのかな、私。

『なまえの部屋に鍵を取りに行ってもいいんだけど……、勝手に机を開けてもよければ、』
「ね、千鶴。その話、平助君から聞いたの、いつ?」
『連絡があったのは昨日の夜だよ。随分遅い時間だったけど。だから今日私も付き合う事になっちゃって』
「急ぎ、だよね?」

確か、あの電話の後はもうスマフォは鳴らなかった。
もしも緊急性があればきっと何度もかけて来ている筈だし、平助君だってもっと早く千鶴にSOSを出しているよね?
いいように考えてみるけれど、なんとなく責任を感じてしまい、私も出勤することにした。
リビングに行けばはじめさんは随分早くから起きていたのか、味噌汁を作り昨夜の煮物を温め直したりなんかしている。
今朝も眩しい程美しい顔に、小さく笑みを浮かべ私を振り向いた。

「おはよう。よく眠れたか」
「……おはよう、……まあね、」

昨日のあれやこれやなんて全く気に留めていなさそうな、その爽やかな態度がなんとなく気に障った。
殊更に素っ気なく答えて洗面所に向かう。
本当は全然寝た気がしないよ、あなたのせいで。
背中から声がかかる。

「顔を洗ったら朝食にするぞ」
「今日、会社に行かなきゃならなくなったの」
「何? ……そうか、」

テーブルにつくと豆腐とわかめの味噌汁に黄色の鮮やかな出汁巻き玉子、何時の間に仕込んだのか手作りのきゅうりの浅漬けと、そして昨夜のひじきが温泉旅館の朝食みたいに綺麗に並んでいた。
私の言葉に少ししゅんとしてしまったはじめさんを見て、態度を急に軟化させてしまう私ってダメな女。

「あ、でもすぐ終わるから。机の鍵を渡すだけなの」
「……風間に、か?」

はじめさんが急に警戒心剥き出しの固い声を出した。

「あ、ううん。電話をしてきたのは千鶴だから、平助君がいるんだと思う。千鶴っていうのは平助君の彼女でね、同じ会社で、今日は千鶴も来るらしいし」
「そうか、」

つい、誤魔化すように言ってしまった。
本来所属は違うのだがプロジェクトにはどうやら千景さんも参加しているらしく、本当は今日も彼が一緒だと考えた方が妥当なのに。
でも、はじめさんの昨日みたいな顔を見るのが、嫌だった。
これって、やっぱり、私。
私、はじめさんを……?
ああだけど、今それを考えている場合じゃない。
少し急いではじめさんの朝食をいただいてから、ささっと歯を磨いて着替えに寝室に入った。
壁越しに聞いてくる。

「昼食はどうするのだ。家でとれるのか?」
「え?」
「昨日の出汁でうどんを作ろうと思っていたのだが、」

思わずクスリと笑みが零れる。
やっぱりはじめさんは、出来過ぎたお母さんみたいだ。
休日だからスーツではなく、オレンジ色のドルマンスリーブのチュニックにクロップドジーンズを選び、手早く薄化粧をしてリビングに戻りバッグをソファに置いてはじめさんに微笑みかける。

「昼までには多分帰って来られると思うから、えーと、後で連絡します」

そこでハタッとはじめさんの連絡先を知らない事に気づく。

「あの、はじめさん携帯とか持ってるんですか?」
「……一応は、ある」
「何かあった時の為に交換しときましょう?」
「ああ、」

はじめさんてスマフォ持ってたんだ。
なんとなく意外に感じつつ連絡先を交換し、それから何かの為にと予備の鍵を一本渡し、私は行ってきます、と慌ただしく外へ出た。





「遅い」
「……え?」
「俺を待たせるとは見上げた根性をしているではないか」
「は?」
「昨日の電話はどういうつもりだ」
「あ、あれは……、」

営業課のオフィスのドアを開ければ其処に居たのは、いつものように不敵な笑みを浮かべた千景さん一人。
妙な緊張が走ってしまうけれど、これは仕事、そう、仕事なんだから。
椅子にふんぞり返りデスクに足を載せていた千景さんが、その足を下ろして立ち上がり私の方に向かってゆっくりと近づいてきた。
思わず後ずさる。

「まあいい。よく来たな」
「べ、別によくも来てないですけど。千鶴と平助君は?」

私は自分のデスクの鍵を開けてUSBメモリを取り出す。

「平助君のパソコン起動してください。先に始めましょう。昨日はどうして停電なんかになったんですかね?他のビルもですか? 近くで落雷でも…、」
「電源を落としたのは、この俺だ」
「そうですか、千景さんが電源を…………えっ?」

今信じられない言葉が聞こえた気がした。
思わず見上げた千景さんの唇は弧を描いている。

「あの、今、何て言いました?」
「耳がおかしくなったか? 電源を落としたのは俺だと言ったのだ。それよりもお前に付き纏っているあの男は何者だ」
「い、今、そんな事を言ってる場合じゃないでしょう。それより電源を落としたって……、」

事も無げに話を変えて、さらに私に一歩近寄った千景さんの深緋色の瞳が、爛々と光っていた。
私ももう一歩引こうとしたけれど、後ろの島のデスクに突き当たる。
もう、下がる余地がない。
ちょ、ちょっと、なんなの。平助君も千鶴も、何をしてるの、いつ来るの。
て、いうか、千景さんの言った事って?
脳内が激しく混乱する。

「ど、どういうこと……? 千鶴たち……は、いつ来るの……」
「いくら待とうとも、二人はここへは来ぬ」
「え……?」
「なまえ。お前といるあの男は人間ではないな」

更にもう一歩近づいた千景さんが、私に手を伸ばした。


This story is to be continued.

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The love tale of an angel and me.
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