窓ガラスの向こうからは、かすかに雨の匂いがする。そう言えば夕方頃から雨が降るかもしれないと天気予報で言っていた。
(―――!)
聞き慣れた優しい声が聞こえた。距離が離れているせいか、会話の内容までは分からなかったが、その声が内包している温度はとても優しいものだったから、きっと暗い内容ではないのだろう。その表情に注視してみると、予想通り彼女は思わず目を細めてしまう程に眩しい笑顔を浮かべていた。自分とは全く違う、柔らかいその微笑み。それが何時だって眩しかった。思わず手を伸ばして触れてしまいたくなる程に。カサリ、不意に吹いた生温い風に揺られて、紙が擦れ合って小さく鳴く。
――気が付くと本のページをめくる手が止まっていた。
電気を付けていないせいで薄暗い保健室内に視線を戻すことで漸く自我を取り戻す。時間を忘れて何かに見入ってしまったのはそれこそ初めての経験だった。(ただの生徒だと思っていたのに、な)小さく吐かれた息を誰が聞くこともなく、薄暗い室内に消える。亜麻色の髪を持ち、神の絶対性にも等しい光を内包した少女がくるりと振り向き、小さく手を振ったのを琥太郎は見つけて静かに目を伏せた。

◆◇◆


「――お前は淋しくないの、か」
その言葉に月子は小さく笑うことで応える。その笑顔は琥太郎が見慣れたものと同じだったので。それがとても淋しかったのだ。――月子は我慢が上手だから。月子は嘘を吐くのが上手だ、から。
我慢が上手であるということを美徳だと褒める人がいるけれど、琥太郎はそうは思えなかった。我慢をするということは気付かない振りをするということである。自分の気持ちに蓋をして見ない振りをしている、ということである。そうして琥太郎はそれを強いている自覚があった。教師と生徒、ただでさえ時間が合わないのに自分は理事長で。自分に自覚があるだけマシであるだろう、だなんてそんなことなど考えていない。他人が当たり前に出来るようなことが自分はしてやれない。月子にしてやりたいと思うことの半分もしてやれない。それがどれだけ苦しくて――けれども月子は何もかも受け入れた笑顔で笑うから。我慢することすら愛おしいといった顔で笑うから。嘘だと見抜いているのに、最終的にはその笑顔に甘えてしまう自分が殺して仕舞いたいと思うほどに憎いと感じるのは、今に始まったことではない。
――琥太郎は月子が大切だ。だから何より先に月子の痛み消す方を選びたい。けれども、そう思っている自分が何よりも月子を傷付けていることを琥太郎は理解していた。
「先生は淋しいですか」
琥太郎の、ともすれば残酷であるとしか取れない言葉を受けてなお、月子は優しく微笑んでいた。形の良い唇が綺麗な弧を描く。呟かれた言葉は温かい。
「先生は淋しいです、か」
その言葉を聞いて琥太郎は、自分が本当に月子が好きなのだと改めて息が詰まりそうな気分になった。淋しい、そんな感情など何時かの遠い昔に置いてきてしまった感情だ。もう忘れてしまった筈の感情だ。それに月子に強いていることを自分が堪えられないなど具の骨頂であろう。堪える堪えないの話ではない。堪えなければならないのだ。そうしてもし、月子が堪えられなくなって琥太郎の傍を離れたいと望んだ時、そっと手を離せるようにしなければならないのだ。未練がましくならないように。優しい気持ちのまま、月子の幸せを望むことの出来る自分のまま、小さくて柔らかい、光を内包した掌を手放すことが出来るように。
だから琥太郎は今日も一つ小さな嘘を吐く。小さな嘘を重ねていく度、どうしようもなく淋しくて切なくなるのだけれど(そして聡い月子は気付いているかもしれなかったけれど)。それでも自分に出来ることと言えばそれくらいしか思い付かなかったので。(嘘をついているという自覚はあった。それでもなお月子にしてやれることがそれくらいしか見付からなかった。)
「俺は…俺は平気だ。平気だよ」
「なら、わたしも平気です。先生が淋しくないなら平気です」
そういって小さく笑う声が、本当に愛おしそうに笑う声が、やり切れないほどに温かかったので。琥太郎は矢張り淋しそうに。そうか、と言って。少しだけ。笑った。








「うそつき、」様に提出させて戴きました。素敵な企画を有難う御座いました。
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