遠くで鳥の鳴く声が聞こえる。人々の春の来訪を喜ぶ笑い声が其処此処で上がっており、窓を閉めきったこの部屋の中にも染み込んで来ていた。その笑い声の意味が翼には解らなかった。それが淋しくて、更にそう思ってしまうことが淋しく感じられてしまったから、翼は開きかけた口を閉じてまた瞼を下ろす。
――この世界に春が来てからもう、一年が経とうとしていた。
春が来てから翼は部屋から全く出なくなった。一樹や颯斗、梓や果ては琥太郎まで、翼の身を案ずる人々が何度も何度も家を訪ねて来てくれてはいたけれど、一度も会ったことはない。申し訳ないとは思っていた。心を砕いてくれる人々に対する謝罪の言葉だってごまんとある。けれども、どの謝罪の言葉も口から出て来ることはない。謝罪すべきは自分ではなく、この世界なのだと思っているから。
あの時、今にも翼が処刑されるというその時、そろりと瞼を押し上げた翼の瞳に映ったのは薄桃色をした、小さな小さなけれども空を覆い尽くすほどの大量の花弁だった。誰もがその光景に言葉を失った。春が来た、口にしたのは誰だったのか、今ではもう思い出せない。春が来たことで翼を含む三人の処刑は有耶無耶になったけれど、月子の行方はようとして知れなかった。――不思議なのは月子が処刑されるのを誰ひとりとして見ていない、ということだ。秘密裏に行われたのか、それともそもそも行われていないのか。後者であればどれだけ嬉しいのか分からない。でもこの一年間、月子の生存をあらわすものは何一つ出てきていないのだ。それはつまりそういうことなのではないだろうか。月子は【月子】だったけれど、【清明】でもあったから。
春が来たら何をしようか、月子と語り合った日々が思い出される。思い描いていた、夢物語だとすら思っていた生活がやっと手に入った筈なのに。一番隣に居てほしい存在がいない。ならばこの世界なんて無意味なだけだ。不必要なだけだ。月子がいない世界だなんて翼にはこれっぽっちも必要がない。月子が居たから毎日が楽しくて、月子が笑っていたから幸せだった。月子が居てくれるのであれば永遠に冬のままでよかったし、春なんてこなくてよかった。(翼くん、)脳裏に月子の声が蘇ってきて口元に笑みが浮かぶ。それでも急に泣きたくなった。
何に苦しんでるか知らないけど、辛いなら忘れちゃえば?何時だったか大して仲の良くない村人にそう言われたことがある。一樹たちは決してそのようなことは口にしない。今の翼があるのは月子がいたからだと知っているからだ。――忘れたくなどない。何があっても覚えたままでいたいと思う。けれども記憶とは忘れ行くものだ。一年経った今、たまに月子の些細な表情が思い出せないことがある。その、忘れているという自分に思い至ってしまった時、翼は言い知れぬ喪失感を覚えるのだ。どうせなら月子に関する記憶すべてを留めておける機械を作ってしまいたいと思ったこともある。でも、その機械に月子に関する記憶を明け渡してしまえばそれは最早記憶ではない。記録だ。翼が持っていたいのは記録ではなく記憶なのだから。それに。それに、もうどれだけ機械を作ろうとも。完成した時に一緒になって喜んでくれる人は、もう、いない。
閉じていた瞼を押し上げて、ただただ辛いだけの窓の外に目を遣る。外には色とりどりの花が咲き乱れ、木々も柔らかな緑に装いを変えていた。月子が望んでいた、優しい春が其処にあった。
「月子、春が来たよ。一緒にお花見しよう。月子がお弁当作って、俺は……俺は、お天気マシーン作るからさ。だから月子、帰って来てよ。俺、月子がいなくちゃ、駄目なんだ…」
何度も口にした言葉を今日も飽きもせずに口にする。そうして言葉の余韻が消えるまで耳を澄ますのだ。何処からか返事が聞こえでもしないかと、僅かな期待を持ちながら。















(翼くん、)







Out of eden
(それは楽園の外)





100822.end
約束したよね、ずうっと一緒にいるって。
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