目が覚めると、いつも隣に居るはずの神の絶対性にも似た存在が居なくなっていた。更に言うなれば、肌身離さず持っていた袋も無くなっていたし、元々入れられていた牢よりも二回りほど狭い場所に移動させられているらしい。月子?掠れた声で呼び掛けても返事はない。凍えた掌で心臓を鷲掴みにされたような恐怖が蘇る。すうと意識が遠退くような気がした。
(翼くん、わたしね……)
微睡みの中で月子は何と言ったんだったか、全く思い出せない。だって居なくなるだなんて思いもしなかったから。ずっとずうっと一緒に居ると思っていたから。――翼は思い出そうとする。月子の声を、最後に、翼が意識を失う前に聞いたであろう優しい声を。しかし声の輪郭がぼやけてどうにもこうにも瞭然思い出せない。あまりにも呆気ない別れだったから、否別れだとは思えないから、だから思い出せないのだ、きっと。
「表へ出ろ」
不意に扉が開く音がして、今まで微動だにしなかった看守(それが二人でいた牢を見張っていた人物と同じとは限らないのだけれど)がそう声を掛けてくる。状況が理解できないでいると、あれよあれよという間に手枷をはめられて気付けば暗く澱んだ道を引っ張られていた。我に返り慌てて何処に連れていくんだよ!と半ば八つ当たりのように叫べば、処刑場だ、と簡潔な言葉が返ってくる。
「え……?」
「罪には罰だ。【清明】を庇う、ということはそういうことだろう」
「じゃ、じゃあ、月子は…ぬいぬいやそらそらは…!月子は、月子はどうなったんだよ!」
「……聞きたいのか」
翼は殆ど生まれて初めて本当の意味での【怖い】という感情を実感した。そして同時に、自分が一人ぼっちになってしまっことを殆ど痛みのように理解した。もう、いないのだ。何処を探してみても、名前を呼んでみても。(翼くん、)翼の頭の中で鈴を鳴らすような声が聞こえた。それはとても微かな、とても細やかな、思わず泣きたくなる程に優しい幻聴だった。
引き摺られるように道を進んで行く中で、傍から見れば虚ろとしか取れない瞳でぼんやりと窓の外を眺めた。窓で切り取られた空は白くてとても寒そうだった。――けれども、どこか少しだけ、暖かかった。それが意味することを思い出して……思い出したくなくて、翼は瞼を下ろす。月子がいなくとも正常に機能する世界だなんて不必要だったから。





処刑台の上から見下ろす世界には色が無い。大勢の人が口々に何かを言っているようだったけれど、翼には何一つ理解できなかった。(月子、)約束をしたのに。ずっとずうっと一緒に居ると約束をしたのに。破ってしまった、それだけが、何よりも苦しい。
――思い出すのは真っ白な雪に埋もれていた小さな体と、光を孕んだ亜麻色の髪。名前を呼べば振り向いてくれる。笑いかければ穏やかな瞳が返ってくる。今はもうない、ただただ優しいだけの思い出だった。
首筋に冷ややかな感触。嗚呼これから自分も月子と同じ場所に行くのかと思うと特に苦しくもなんともない。梓や琥太郎に最後まで迷惑をかけっぱなしだったことは悔やまれたけれど。(月子、)それは魔法の呪文だ。口にするだけで幾らでも強くなれる。幾らでも頑張れる。名前というのは何かの存在を表すだけではなく、自分を奮い立たせる呪文なのだ、好きな人の名前はそれだけで魔法の呪文なのだ。だから翼は飽きることなく何度も何度も月子の名前を紡ぐ。何度も、何度も。
処刑用の剣がゆっくりと持ち上げられる。これで終わるのだ、何もかも。ならば最後くらいは月子がそれでも愛した世界を見ようと、閉じていた瞼を開く。見えるのは白と黒で彩られた世界――の筈だった。
「………え?」




そうして翼は、
(ねえ翼くん、わたしたち、ずうっと一緒にいようねえ)
遠い日に聞いた、始まりの声を。
確かに聞いたのだった。









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