蝉の声が煩い。じりじりと照り付ける痛いほどの陽射しが、容赦なく月子と郁の肌を焼く。日焼け止めもこれじゃ全く役に立たないだろうなあ、腕にぽたりと落ちる雫を眺めながら月子はぼんやりと考えた。隣を歩く郁が持つ花束が僅かに吹いた生温い風に揺れて、暑さ故に無色だった世界が俄かに色付く。今日は二人揃ってお墓参りに来ていた。お盆――それはいなくなった、もう逢えない人のことを考える、そしていなくなった、もう逢えない人が帰ってくる、そんな日だ。
月子がこうして郁の墓参りに付き添ったのは実は初めてである。今まで郁がこの時期になると彼女――有李の墓参りに出掛けていたのは知っていた。けれども、一度もついて来て欲しいだなんて言われたことなどなかったし、ついて行きたいと言ったこともない。墓参りは言うなれば死者との束の間の面会である。特に郁にとって有季の墓参りは特別な意味を持つ筈で、その特別な時間を無関係な自分が汚してはならないと、月子は確かに思っていた。欲を言うならば、郁が愛した優しいひとに挨拶の一つでもしたかった、でも己のそんな考えより月子は二人の束の間の面会を本当に汚したくなかったのだ。(声は届く、けど、指先は絶対に届かない、彼女はいつもそんな世界にいるんだから)
だから今年も何も言われないと思っていた。少しだけ淋しそうに笑って出掛けて行くのを見届け、少しだけ泣き出しそうな表情をして帰ってくる郁を出迎えるのだと思っていたのだ。しかし、今年は違った。(明日さ、一緒に姉さんの墓参り、来てくれない?)その言葉になんて返事をしたのか、それは郁と月子だけの秘密である。
有季の墓は木陰になっている、とても静かな場所で優しく呼吸をしていた。誰かが定期的に掃除をしているのか、雑草などは殆ど生えていない。久しぶり、姉さん、郁の柔らかな声が耳朶を揺らし、月子は何も言うことが出来なかった、
「今年も暑いね。姉さんは暑いのが苦手だったからバテてないか心配だよ」
どこまでもどこまでも優しさしか含まれていない声に泣きそうになる。嗚呼きっと、水嶋有李という女性は、春の陽溜まりのような暖かさを持った人だったのだろう。初めまして、有季さん、普通の大きさで発した筈の声は思ったより小さく、どうしてきみが泣きそうな顔をしているの、と郁の大きな掌がゆっくり月子の髪をすいた。
「有李さんにお会いしてみたかったなあ」
「きっと君も姉さんとすぐに仲良くなれると思うよ。姉さんはそういう人だったから…僕には眩しいくらい素敵な、」
郁の声は限りなく優しい。遠い昔、今はもう夢見ることしか出来ないきらきらと眩しい想い出を見透かしているのだろうか、と月子は思った。蝉の声が五月蝿い。それに混じって微かに聴こえた誰かの笑い声は、果して幻聴だったのだろうか。
「……当たり前だよ。だって郁のお姉さんだもん。素敵に決まってるじゃない」
(有李さんはどんな声で笑うんだろう、どんな表情で、どんな仕種で。わたしはそれを想像するしかないから、少しだけ、淋しい。でも、郁のお姉さんだから、きっと、)
郁の月子の髪をすく手が止まる。不思議に思って見上げてみると、どこか彼方を見透かすような目をしていた。
「僕は最初嫌いだったんだ。姉さんを忘れたこの世界の全てが。死ぬってことは世界から忘れられるってことに違いないからね……でも、今は違う。きみがいるから、きみが、月子がいるから、嫌いだったこの世界も愛せそうな気がしてる。世界を嫌いだと言うのは、きみさえも否定するしね。今日はそれを姉さんに伝えに来たんだ、きみにも聞いて欲しい」
「……え?」
郁はちらりと月子を見て優しく微笑んでから、墓石に目を向けた。その向こうに居る誰かに語りかけるように。
「――姉さん、僕は本当に姉さんが大好きだった。今も好きだよ。……でもそれ以上に大切な人が出来た。まあ、天然でドジばっかりして大変だけどね。だからもう、過去に縋るのは止める。前を向く強さを彼女がくれたから。姉さん、今までありがとう。もう、心配しなくても大丈夫だから、安心してよ」
「郁、」
「あともう一つ」
柔らかい掌が月子の指先に触れる。さらりと風が吹いて、青々とした、陽射しを浴びて輝く葉がゆるゆると揺れ、誰かの小さな笑い声が、耳に届いた。
「――月子、」
「え、う、郁……?」
「僕と、結婚してください」
「………っ」
時が止まる。さらりと吹く風が、亜麻色の髪を揺らした。蝉の声が途切れて、何も考えられなくなる。誰かの笑い声はもう聞こえない。
「姉さんにも聞いて欲しかったんだ。姉さんよりも大切なひとが居て、そのひとをしあわせにするって誓いを」
「い、く、」
「ねえ、月子。返事は?」
飛び込んだ胸は誰よりも優しい。肩口に顔を埋めると夏の薫りがする。そっと背中に回る腕の感触を確かに感じながら、月子は桜色の唇をそっと郁の耳元に寄せた。
郁の肩口の向こう、夏の陽射しが揺らぐその場所で、藍色の髪を持った少女が優しく笑っているのが見えた。







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