脳裏が白く侵食される。喉を締め上げられるように、酷く呼吸が苦しかった。彼の人の名をもう一度呼びかけようと、深く息を吸い込んでみるものの、口の中がカラカラに乾いて何も出て来ない。舌が張り付いて名前が呼べない。(すぐ良くなるからな、大丈夫だ)そう言って月子に微笑んでいた優しい表情が蘇ってくる。けれど、(また、失うのか)酷く既視感のある怖気が、凍える手となって心臓を鷲掴みにする。小さく指先が震えるのが分かった。
「何だよ、誰だ、お前」
聞かずとも本当は分かっていた。月子は寝台から立ち上がり、翼の背後からそっと周囲の様子を伺っている。凄惨に笑う男の横で、浅い息を繰り返す琥太郎のその白い頬には大小様々な切り傷やら小さな痣が見て取れた。翼と月子の居場所をなんとしてでも吐かまいとしたのだろう、まだたった数日しか交流していない人間にどうしてここまで出来るのか、翼には分からなかった。ただ、その誠実さに自分は答えなければならない、と強く思う。後ろに佇む月子も同じ気持ちだったのだろう、翼の洋服を握り締める力が僅かに強くなった。
「【清明】、お前が生きるせいで人が死ぬ。それなのにお前は生きようというのか。すべての人間を犠牲にしてまで生き延びようというのか。なんて浅ましい、なんて愚かなのだ」
「…お前に月子の何が分かるんだよ」
感情全てを押さえ込んだ翼の低い声が部屋に響き渡る。けれども男は気にした様子もなく、また続ける。手にされているのは他人を傷付けるためだけに作られた、鈍色。
「もう逃げられない。家の周囲には俺の部下が待機している。この男も馬鹿だな。【清明】一味を庇ったところで何にもなりやしないのに。――【清明】、お前は全世界に謝罪するべきだ。そして己の罪全てを贖うべきだ。己の死をもってして」
「次そんなこと言ったら、俺、本気で怒るぞ」
「怒る?どの口が言ったものか。天羽翼、お前も大罪人のなのだからな。――【清明】は死ぬべきだ。この世界に居てはならない。王もそうおっしゃっておいでだ。さあ【清明】、大人しく降伏し己の罪を認めろ。生きようとすること、それがお前の罪だ」
「お前…っ!」
今にも男に飛び掛からんとする翼を引き留めたのは意外にも月子だった。あれ程の暴言を吐かれてなお、月子は顔色ひとつ変えない。まるで言われ慣れているとでもいいたげな表情に、翼は泣きたくなった。月子が何処か手の届かない遠くに行ってしまいそうで。
「星月先生を…どうするつもりですか」
琥太郎の体が小さく揺れて、その瞳が確かに月子を捉える。表情が、宿る光が、自分のことなどいいからさっさと逃げろと訴えていた。そうして翼には月子が逃亡というたった二文字の手段を取らないということに、いち早く気付いていた。月子は優しい子だ。自分の幸せを犠牲にしてまで他人に幸せになって欲しい、そんな偽善的なことは言わない。けれども、自分せいで他人が傷付くのを何より嫌がった。
「お前が大人しく降伏したら、殺さずにおいてやってもいいが?」
男の相手を小馬鹿にしたような態度に、翼は今にも飛び掛かりたくなる。しかしそれが出来ないのは、自分が飛び掛かっていったところで何にもならないと知っているからだった。この時ほど己の無力さを痛感したことは、ない。
――不意に、月子が翼を見て、淋しそうに。一度だけ、笑った。それを見て何をしようとしているかを悟る。止めたかった、行くな、駄目だよ、と叫びたかった。けれど、他に琥太郎を助ける術が見当たらない。翼に出来るのは、その小さな左の掌を強く握り締めることくらいだ。
「ずーっと一緒だって、言っただろ?」
月子の雪のように白い頬を滴が伝っていく。慌てて涙の跡を擦りながら、なんとか微笑もうとするが、何度も何度も失敗して、それから最後に、無理矢理悲しげに笑って、頷いた。










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