きくろ | ナノ


夏というのは特別な季節だと思う。夏だからという理由で何もかも許してしまいたくなる、というのはさすがに少し言いすぎだろうかとボクはパソコンのキーボードを叩いた。室内は適度にクーラーがきいていて過ごしやすい。地球温暖化が叫ばれる現代、クーラーなんてものは廃止してしまったほうがいいのかもしれなかったが、そんなことをしたらきっと生活どころか生死に関わるような気がするのでやめられない。
「はー!生き返るー!」
聴き慣れた声が聞こえてきて、ボクはゆるゆると振り返った。乱暴な音を立てながら部屋に入ってきたのは同僚の神座くんである。担当作家との打ち合わせにい行くと言っていたからそれがひと段落したのだろう。彼の担当はこの間新人賞を取ったばかりの新人だ。ここから新人作家が伸びるか否かは彼の腕に掛かっていると言っても過言ではなく、それがプレッシャーでもあり楽しいところでもあるんだよなあ、と先日飲みに行った際に話していたことを思い出す。
「お疲れさまです。どうでしたか?」
神座くんは大きく伸びをひとつすると首を回しながらこれまた乱暴に椅子に座った。彼は動作の一つ一つが乱暴すぎるきらいがあるところがあり、それが玉にきずであると上司は嘆いている。
「うーん、とりあえず次回作の話をしてきた。これで終わるわけにはいかないって言ってたから、まあ期待は出来るんじゃね?いい目をしてたしな」
「そうですか。次回はどんなお話に?」
「それはひみつー。楽しみが減っちまうだろ?お前をぎゃふんと言わせてやるつもりだからな!覚悟しとけ」
「それはそれは…一読者として楽しみにしていますね」
「おー。俺のことはともかくお前のほうはどうなわけ?」
「吉田先生ですか?今日中に原稿をいただくことにはなっていますが」
神座くんの担当が新人であるのに対してボクが担当する作家はいわゆる大御所と呼ばれるひとだった。主に歴史小説を書かれる方で、現在執筆しているシリーズはどれも大ヒット、半年前に出した単行本は今度映画化が決まっている。入社五年目にしては異例の抜擢であることは間違いなかったし自分には過ぎた役目ではないかと当初は思ったが、学生時代おもしろいほどにのめり込んだ作品の生みの親である作家に付けることは有り難いことには変わりがない。担当とは作家に寄り添い支えていくものであるという上司の言葉を胸に努力する毎日である。それが通じているのか今のところ大きな失敗もなく、担当作家ーー吉田先生とも円満な関係を築けていると思う。吉田先生から見ればボクは孫か何かに見えてしまうらしくたまに子供扱いをされてしまうのが悩みといえば悩みだったりするが。
「かーっ!お前やっぱりまじですげえわ。吉田先生っていや気難しいことで有名なんだぜ?一ヶ月で変えられた担当がいるって話だし」
「気難しいというか…淋しいお人なんですよ」
「おま…吉田先生に向かってそういう発言…」
「別に揶揄して言っているわけではなく…もうすぐ還暦を超えられるのにご結婚どころかそういった浮いたお話ひとつもないでしょう?ご自分でもおっしゃっていました、自分は淋しいやつだって」
「ふーん。ま、そういう考え方もあるわな。確かに吉田先生、そういう浮いた話一度も聞いたことねぇなあ…」
そこで一旦神座くんは言葉を切り、思い出したように視線をボクに向けてにやりと笑った。彼がこういう笑い方をするときは基本的にいいことがないのを身を持って学んでいるボクとしては嫌な予感しかしない。思い当たる節があるだけに尚更だ。
「で、明日明後日有給を取っている黒子くんはどこに行くのかな〜?」
「別にどこにも」
「嘘付け!今まで周りから散々有給消化しろって言われても全く消化してこなかったおまえが!ここにきてはじめて!しかも夏に!」
「……友人と海に行くだけですよ」
「彼女?」
「どうしてそうなるんですか。男です」
「吉田先生といいお前といい、ほんっとうに浮いた話ひとつもなくてびっくりするわ。化石か」
「死んでください」
彼からそのメールを受け取ったのは二週間も前の出来事だった。親戚が運営しているコテージの留守番を任されたんだけど、よかったら遊びに来ないか、という内容だった。この稼ぎ時のである夏に留守番を任されるなんて、と思いはしたけれど、弁明のように付け足された丁度その日はオレオフなんだという言葉を信じることにした。疑っていてはキリがないし、なによりその連絡があったことが素直に嬉しかったからだ。五年もの間、忙しさを理由に交流らしい交流を彼との間に持たなかったのだから仕方がない。
というよりも、まだ彼の中にボクという存在が息づいていることが嬉しかったのだ。少なくともボクが彼を忘れたことはなかったけれど、彼の方はどうだか分からない。花に嵐のたとえもあるように、さよならだけが人生だ。
いいですね、と返事をしてから逆にこちらが驚いてしまうくらいに話はとんとんと進み、気付けば真夏の真ん中に彼が留守番しているコテージに遊びに行くことになった。折角だから木金と有給をとって四連休にしたのは、一泊二日だとせわしない、というのが今のところの理由である。
有給を申請しに行ったときの上司の驚いた顔の話を彼にしたいと思った。きっと面白がって聞いてくれるだろう。
海でのナンパの仕方を伝授してやると言い寄る神座くんを華麗にスルーしながら今後のスケジュールをチェックしていると、すっずしーい!と大きな声を響かせて一人の女性が入ってきた。長い黒髪を一つに纏め、活動的な衣服に身を包んだ彼女は「デキる女性」を具現化したといっても過言ではない。彼女の持ち込む企画はいつも斬新で、また指示も的確で分かりやすい。一言で言えば素晴らしい上司に尽きる彼女はボクと神座くんの直属の上司だった。入社以来ずっと面倒を見てもらっている。
そんな彼女は先ほどまで雑誌の表紙撮影の付き添いに行っていたらしい。こちらが聞いてもいないのに、いやーさすが今流行のイケメンモデルさまは違うわよね。オーラがね、と言いながらボクの机近くに腰をかけた。
「循子さんお疲れさまでーす。そんなにイケメンなんすか?」
「そりゃもうすごいわよ。一緒に行ったカメラマンの女の子が骨抜きにされちゃって!何が笑顔がまぶしい!よ!仕事しなさい仕事を!」
「循子さんはああいうタイプはお嫌いなんですか」
「二十代まではああいう子大好きだったんだけどねえ。もう魅力感じなくなっちゃって。歳取るのは嫌ね」
「そういうもんなんだ。そういや昔付き合ってた彼女がすごいキセリョのファンだったなー」
「そりゃアンタと黄瀬涼太だったら黄瀬涼太でしょう」
「循子さんひどい!」
彼女ーー循子さんが今まで撮影見学をしていたという黄瀬涼太が自分の旅行相手だと言ったら二人はどんな顔をするだろう、と思いながらもボクは黙っていた。そんなことを言おうものなら問答無用で彼とのこれまでを洗いざらい話さなくてはいけなくなる。
彼との思い出を話すのは決して嫌なことではない。確かに苦しいこともあったけれど、どれもが今もなお色褪せない鮮やかな思い出だ。
――時々、今も夢に見る光景がある。
高校最後の夏。彼に誘われ二人だけで海に行った。推薦で進学を決めていた彼とは違って一般での進学を決めていたボクにとって、本格的に勉強に打ち込む前の、最後の息抜きみたいなものだった。彼もそれを承知していたようで、決して無理はしない範囲で、それでも楽しめるようにと色々なプランを練ってくれていたらしい。今思えばたった一介の友人如きに普通はそんなことしないと思えるのだが、あの頃は感覚が麻痺していたのかそんなこと露ほども思わなかった。当たり前だと思ったことはなかったが、不思議だとも思ったことはなかった。そのせいで今もボクはあの夏から動けないでいるのだけど。
柔らかく唇に触れた温度。囁かれた言葉と瞳の色。忘れて、ごめんね、嫌だと思うけど明日からまた、前みたいに接してもらえたら、嬉しいっス。
あの時の彼になんと返事をしたら正解だったのか、その答えは今も出ない。
「……ん?循子さん、その指輪って…」
「ん?ああ、これ?言ってなかったっけ。わたし婚約したのよ」
「ええー!?初耳!超初耳なんですけど!」
別の方面へ意識を飛ばしている間に話題はすり替わっていたらしい。神座くんの言葉につられて循子さんの心臓に一番近い指を見てみると、確かにそこにはきらきらと輝く指輪が一つはまっている。これからを束縛する小さな輪。
循子さん結婚されるんですね、おめでとうございます。喜んでもらえるかと思って発した言葉は、晴れない顔の前に消えた。あれ、ボクはなにか失敗しただろうか?
「あんまし嬉しそうじゃないっすね」
「この歳になるとね、結婚なんてただのポーズなのよ。ポーズ。わかる?お互いの利害が一致しただけ」
「利害の一致?」
「そう。彼の親もわたしの親も早く結婚してほしい。わたしも彼としても親孝行はしたいから結婚したいとは思うけど、仕事を辞めたくない。ほらね、完璧な利害の一致でしょう?結婚したいけど仕事は辞めたくないもの同士お似合いってわけ」
「いやまあ話だけ聞くとそうっすけど。そんな感情だけで結婚するんです?」
「あはは。まあ、さすがにそれだけで好きでもない男と結婚なんてしないわよ。彼のことはちゃんと好き。でも、恋だの愛だの、感情論で結婚する時期はとうに過ぎたってこと。そんなことができるのは若いうちなの」
「俺らみたいな?」
「アンタに言われると腹立つわね正紀。ま、そういうこと。恋愛なんて非生産的な行為ができるのは若いうちの特権ね。あー!若返りたい!」
「循子さんは今も十分お若いですよ」
「ありがとテツヤ。アンタのそういう気遣いできるところ好きよ」
「ありがとうございます」
「え、なにこの差」
循子さんは神座くんの言葉に応えないまま、大きく一つ伸びをした。ぎしり、と椅子が軋む。
循子さんは恋愛を非生産的な行為だという。それはもしかしたら正しいことなのかもしれなかった。誰かを好きになったところで何も生み出されない。ボクが彼に抱く感情だってそうだ。何も生み出さないし、生み出したところでそれが何かの役に立つとも思えない。厄介であるばかりの感情をボクは今も飼い慣らしている。それが恋だとか愛だとかそういった言葉で片付けられるのかなど、もう分からなかったけれど。
「あ、そういえばテツヤ。アンタ明日から有給とってるんだっけ?」
「そうなんですよ!聞いてください循子さん!こいつまじで化石で、」
「神座くん、もう一度言います。死んでください」


◇◆◇

改札を抜けるとぎらぎらと強い日差しが肌を刺した。生い茂った木々からは短い命を燃やし尽くさんとするように蝉たちが大音量で泣き喚いている。
ボクは引きずっていたキャリーケースをその場に立たせて、昨日黄瀬くんから送られてきたメールを確認するために携帯を開いた。黄瀬くんが駅まで迎えに来てくれることになっている。来るまで駅まで迎えに行くから、というメールを貰った時、運転できたのかという純粋な驚きが胸を過ぎった。五年も経っていれば免許くらいとっているだろう。けれども、ボクの中の黄瀬くんは五年前の黄瀬くんで止まっている。無邪気にボールを追いかけていたあの頃で。
メールを確認するついでに時刻を確認すると丁度待ち合わせに指定された時刻だった。
「おーい!黒子っちー!」
不意に聞こえてきた声に視線をあげると、揺らぐ陽射しの向こうで手を振っている誰かの姿が見えた。サングラスを掛けているから顔までは判別できなかったが、特徴的な髪色からそれが彼だと分かる。濃紺の車は驚くほど彼に似合っていた。
お久しぶりです、と言いながら近づいていくと、彼は手慣れた動作でトランクを開けて荷物を積み込んでくれた。その一連の流れがあまりにも自然だったから何も言えない。
「それにしても久しぶりっスね。何年ぶりくらい?」
「最後にお会いしたのがストバスの時でしたから…五年くらいじゃないですか?」
「うわー!もうそんなんになるんスね。時間が経つのは早いなあ…」
助手席の窓から見える海は陽射しを浴びて輝いていた。その輝きが昨日見た小さな輝きと重なる。
自分も運転する身だから分かるのだが、黄瀬くんは運転がとても上手だった。何気に制限速度を守っているのにも驚いてしまったと言ったら彼は怒るだろうか。熟れたハンドルさばきは彼がよく車を使用していることをうかがわせる。人気絶頂のモデルだからなのだろうか。そりゃあ電車などをしょっちゅう使っていたら周りが大変なことになりそうだなあと強ち間違いでもないことを思いながら、この運転のことを知っているひとが一体どのくらいいるのだろうかと考えて、考えるのを止めた。
「黒子っち、先にレストラン行かない?オレお腹へっちゃって」
「いいですけど。黄瀬くんはご飯食べていないんですか?」
「うん。黒子っちと食べようと思ってたから。黒子っちはもしかしてもうご飯食べちゃった?」
「いいえ。まだです」
「ならよかった!オススメのレストランがあるんスよ!そこのシーフードパスタめちゃくちゃうまいから、黒子っちにも食べてもらいたくて」
「それは楽しみですね」
「オレも楽しみ。誰かと行くのは初めてだから」
「え?」
「ん?」
「いえ、なんでも。海、きれいですね」
海に来たのだから一度くらい泳いでおいてもいいかもしれない。でも男二人で海で遊ぶって絵面的にどうなのだろうか。いや、黄瀬くんがいるから絵面的にはバッチリなのかもしれない。
許可を得て窓を開けると潮の香りと穏やかな波の音が聞こえてくる。そこに蝉の声が加わって鮮やかな夏を演出していた。ボクはこの夏の儚さが好きだ。触ったら消えてしまいそうなほどに脆い幻のような季節。あまりにも長い間海を見つめていたボクがおかしかったのだろうか。笑みを滲ませた声で黄瀬くんが後で泳ぎに行くっスか?と聞いてくる。
「元気があったらそうしましょう」
「あはは!体力がないとこ、昔と変わってないんスね」
「そう簡単にひとは変わりませんよ」
「……そうっスね。オレもそうだもん」
危なげもなく車を停めると、ボクは黄瀬くんに促されるように店内へ足を踏み入れた。隠れ家のようなその佇まいと、白を基調とした内装は交換が持てる。最初から予約してあったのだろうか、店員は黄瀬くんの姿を見つけると柔らかく微笑んで窓際の席に案内してくれた。窓の外にはさっき助手席の窓から見ていた青が広がっている。窓が大きいからか先程よりも海の輝きが強い。
ここうちの店で一番きれいに海が見える席なんですよ、とメニューを運んできた店員がそう言って笑う。
「黄瀬さんもいつもこの席に座られますよね」
「だってこの席が一番海が綺麗にみえるっしょ?」
「確かにそうですね。とてもきれいです」
「ありがとうございます。特にこの時間帯の海が一番きれいに見えるんですよ。水が透き通って空色に近いでしょ?…そういえば黄瀬さんがうちにいらっしゃるのも大体この時間帯でしたね」
ボクは黄瀬くんオススメのシーフードパスタを、黄瀬くんはシーフードカレーを注文した。
料理が運ばれてくるまでの間、ボクはただひたすら海を眺めていた。黄瀬くんと話をするのが億劫になったわけではない。ただ単純に海の美しさに目を奪われてしまっていたからである。料理が運ばれてきた頃に漸く黄瀬くんへと視線を戻すと、彼はどこか楽しそうに目を細めてボクを見ていた。
美味しい料理に舌鼓を打ちながらの会話は五年の歳月を感じさせないくらい、驚くほどに弾んだ。五年もの間会っていなかったのだから話題は尽きない。大学時代の話、仕事の話、この間見た映画が面白かった、ロケ地でこんなひとに会った。有給をとった時の上司の話をしたら、黄瀬くんはやっぱり楽しそうに笑いながら聞いてくれた。
「そういえば、この間スキャンダル報道されていましたね。ニュースで見ました」
正確に言えばそれをすっぱ抜いたのはうちの雑誌部です、とは流石に言えなかったので黙っている。
「ああ。あれ。あれ、デマっスよデマ。嘘っぱち」
「そうなんですか?」
「番組の打ち上げの終わりに外で他のひと待ってただけ。まあ、撮られんのかなーとは思ってたスけど」
「思ってたんですか」
「ちびっと。あー、でも黒子っちはオレの無実を信じてくれると思ってたのに!」
「無実って…。五年も会っていなかったんですよ。彼女の一人や二人いてもおかしくないと思うじゃないですか」
「同時に彼女が二人もいたらまずいっスけどね。それにオレ、恋人出来たらきっとすぐに報告するっスよ。隠し事出来るような性格じゃないし。まあでも、当分恋人はいいかな」
「?なんでですか?」
黄瀬くんはその問に答えないまま、ここ付いてるっスよ、とボクの唇の端を拭ってくれる。



この後は黄瀬くんの勧めで水族館に行く事になっている。吉田先生も次は時代物じゃなく現代の物語を書きたいと言っていたから何かの役に立つのかもしれない、とこんなところにまで仕事を持ち込んでいる自分に苦笑。気付いていなかったが、自分はどうやら仕事人間らしい。
今更気づいたことだが、黄瀬くんは運転中に音楽などをかけない人間のようだ。ボクか黄瀬くん、どちらかが喋らなければ途端に車内は無音に包まれる。どちらかというとお気に入りのCDなどを沢山かける人間だと思っていただけに新鮮だった。ボクとしては黄瀬くんの澄んだ声が遮られることがないので、嬉しい。
「…あ、黄瀬くん。ちょっと寄りたい場所ができたんですがいいですか?」
「?いいっスよ。黒子っちが行きたいとこ、全部いこ」
「…きみのその、変なところで優しいの、全然変わっていませんね」
「そう?でも別に誰にでもこうってわけじゃないよ」
到着したのはガラス細工の工房だった。個人経営なのだろう、全体的にこぢんまりとしているが奥の方には小さいながらもアトリエもあるらしい。車の鍵を閉めた黄瀬くんがガラス細工の工房なんて初めて来たっスと笑う。
店に入る前にアトリエを見に行こうという黄瀬くんの提案に従ってボクたちはアトリエの方へ足を踏み入れた。アトリエの中には誰もいない。観光スポットになるような場所でもないし、平日の昼すぎからこんな場所にくる人間はいないのだろうか。かくいうボクもカーナビに表示されなければきっと素通りしていただろう。
アトリエ内に飾られたガラス細工はどれも精密で美しかった。海とは全く別種の美しさを内包した輝きはゆるやかにボクの視界を侵食する。昔からボクは美しいものが好きだった。
「黒子っちこっち来て」
黄瀬くんの言葉に導かれるようにアトリエの一番奥に足を踏み入れると、そこには御伽話に出てくるようなガラスの靴が展示されていた。少し大きめのそれは、子供だったら本当に履けるのかもしれない。結ばれたピンクのリボンが無色透明に彩りを添えている。
「シンデレラの靴みたいっスね」
「というか、それをイメージして作られたのでしょうね。ここに『灰かぶりのとけない魔法』ってタイトルがついています」
「あ、本当だ」
しげしげとガラスの靴を眺める黄瀬くんが、そういえばどうして黒子っちはここに来たかったの?と不思議そうに尋ねてくる。こういうの好きだってことは知ってたけど。
「ボクの上司が今度結婚されるそうなので。なにかお祝いのプレゼントでも買えたらいいなと思いまして」
「そうなんだ!そういうことならオレも協力するっスよ!上司さんが感動して泣いちゃうようなプレゼント見つけよ?」
循子さんの性格からしてプレゼントくらいで泣くのかな、と思ったけれど、黄瀬くんの心が嬉しかったのでそうですね、と返す。これは売り物ではなかったけれどガラスの靴をあげたら彼女はどんな表情をするだろうか。
そういえば黄瀬くんは結婚とか考えていないのだろうか。当分恋人はいいと言っていたけれど、彼が身を置くきらびやかな世界は常にそういった出来事で満ち溢れている。特に見目も性格もいい彼はあらゆる方面から人気があることだろう。言い方は悪いけれど、黄瀬くんが何もしなくても周りが勝手に寄ってくるに違いない。
――いつか。黄瀬くんが結婚するその時に、ボクの夏は漸く終わるのだ。
「ボクのその結婚する上司が」
「うん?」
「恋愛は非生産的なもので、それを楽しめるうちは若いうちだと言っていました。歳を取るとそういう気持ちではいられなくなるんだそうです。現に今回の結婚だってポーズだと言っていました」
「あー、うんまあ、言いたいことはなんとなく分かるっスよ。ガキの頃は歳を取れば取るほど自由になっていくと思っていたけど、本当は逆なんスよね、多分。どんどん不自由になっていく」
「その気持ち、よく分かります」
「だからこそ上司さんのいう非生産的な行為である恋愛に夢をみたくなるんじゃないっスか?少なくとも、オレは恋愛に夢を見ていたいし、そこから何かが生まれるんだって信じたい。好きなひととずっと一緒にいたいし、オレのこと好きになってもらいたいよ。いくらそれが非生産的な行為で、何も生まなくても。――誰にも、認めてもらえなくても」
「……黄瀬くんにはそういうひとが、いるんですか?」
「……うん。まあね。ずっと昔から。秘密っスよ?」
今ここで、あの夏の日に自覚した気持ちを告げたら彼はどんな顔をするんだろうと思った。気持ち悪がるだろうか。忘れてといったのにまだ覚えて動けないでいるボクを浅ましく思うだろうか。ボクは黄瀬くん以外にすきになったことがないから、もしかしたらずっと黄瀬くんをすきなままなのかもしれない。それが嫌だとは思えない自分が醜いと思う。黄瀬くんはもうとっくに前に進んでいるのに。
「黄瀬くんがすきになるひとですから、きっと素敵なひとなんでしょうね」
「……うん。すごく、素敵なひと。いつも真っ直ぐで、真摯で、誠実だった。オレにはそれが眩しかったよ。憧れてもいたし、尊敬もしてた。ここにあるガラス細工みたいに、美しいひと」
そこで黄瀬くんは言葉を切って、ボクをみた。喉の奥に張り付いた何かを剥がそうとするかのように、胸の奥で揺らめく何かを掴もうとしているかのような、そんな声だった。
「夏みたいに儚くて、オレが触ったら消えちゃうってずっと思ってた。同じ人間なんだし、そんなことはないんだけど。オレの宝物みたいな子、だったよ」
「きみにそこまで想ってもらえるひとは、しあわせですね」
ボクがそう言うと、黄瀬くんは困ったように笑った。今にも泣き出しそうな顔をしているくせに、それを必死に押し殺しているような、そんな顔。そんな黄瀬くんを見ているのが苦しくてボクは視線をガラスの靴に戻した。美しさの塊。美しいものは脆い。脆いから美しいのか、美しいから脆いのか、ボクには分からない。
「…ねえ、黒子っち」
黄瀬くんの声が夏に溶けていく。夏は特別な季節だと思う。脆くて儚い。あの夏の日に、ボクは永遠なんてどこにもないことを知った。
「全部、きみのことだよ」
黄瀬くんがその言葉を口にした瞬間、ぼろりと大粒の何かが頬を滑った。ガラスの靴が歪んで滲んだ光を生み出す。
苦しかった。痛かった。捨ててしまいたかった。本当は、会わないでいたこの五年の間に忘れてしまえればいいとずっと思っていた。あの夏の日から動けないでいる自分を殺してしまいたかった。誰にも認められぬ想いなど影も形もなくなってしまえばいいと強く思っていたのだ。
黄瀬くんの言葉を、ひとつ残らず覚えていた。優しい言葉も、胸を突くような言葉も、さり気なく置かれた相槌さえも。いや、覚えていたなんて生温い。その言葉のひとつひとつがすべて胸に突き刺さって抜けてくれなかったのだ。棘のように針のように鋭利に研ぎ澄まされた刃のように。だからボクの心はずっと痛かった。苦しかった。
――この胸に広がる痛みを、人間はいつからか「恋」と呼んだのだ。
黄瀬くんの指先が頬を滑って眦に触れた。震えるそれが涙を拭って世界に光を取り戻す。
「これはね、お別れの旅行なんス。オレが黒子っちを解放してあげるための。我儘でごめんね、ずっとすきでいて、ごめん。もう、夢のなかに出てきてくれなくても、いいよ」
唐突に海の音が聞きたいと思った。あの夏の化石は、どうやったら蘇ってくれるのだろう。




寄せては返す波が足を濡らしていく。日中あんなに鳴いていた蝉たちはパタリと鳴くのを止めてしまったのか、世界は驚くほどに静かだった。
素足を海につけて遊んでいるボクの後ろを付き従う従者のように黄瀬くんが歩いていた。ガラス細工の工房で買った上司へのプレゼントは黄瀬くんの車の中に置いてある。
アトリエの中で起こった出来事など何もなかったように黄瀬くんは水族館でもはしゃいだ声を上げた。それに合わせることが彼への礼儀なのだろうと無意識のうちに悟っていたボクはそれに合わせていつもよりも多く笑ったと思う。いつもより多く笑って多く喋った。でも、すごく淋しかった。これで終わりなのだと思うと。淋しいという感情で死ねるなら、ボクはもう何回も死を経験しているんだろう。
「あんまりはしゃぐと転ぶっスよ」
「大丈夫ですよ。黄瀬くんじゃあるまいし」
「ひど!」
くるり、と振り返ると黄瀬くんは何とも言えない顔で笑っていた。夕暮れが彼の顔を照らして、ただでさえ美しい顔がさらに美しく見える。――ボクは昔から美しいものがすきだ。
「……黄瀬くん」
「ん?なあに」
もしかしたらこの声をもう二度と聞けなくなるのかもしれない。それはとても悲しい想像だった。
「あの夏のことを、覚えていますか」
「…どれ?」
立ち止まった黄瀬くんに近づいて腕を伸ばしてその頬に触れた。鮮やかな黄色は夕暮れによく似合う。淡彩の中で生きてきたボクとは真逆の、原色の世界。
黄瀬くんがこれをお別れの旅行だと決めているなら、ボクも終わらせなければならない。あの夏の日。ボクがずっと動けないままでいるあの夏の日を。黄瀬くんが結婚する日がボクの夏が終わる日だと思っていたから、こんな日が来るとは思わなかった。黄瀬くんの手で夏を終わらせる日が来るなどと。
瞼に触れると、黄瀬くんは擽ったそうに身を捩る。
「高校最後の夏です。二人で海に行ったでしょう?」
「あー、うん。覚えてる。忘れたことなんて、なかったっスよ」
「…ボクもです」
ボクがそう言うと、黄瀬くんは困った顔をした。大方、ボクにトラウマを植えつけてしまったとかそんなことを考えているのだろう。言い方は違えど強ち間違いでもなかったので黙っている。
「夏のあの日、海辺で。きみはボクに忘れて欲しいと言いました。何もかもなかったことにして欲しいと。でも、ボクにはそれが出来ませんでした。忘れるなんてきっと簡単なことだと思っていたのに。それどころか、きみのことを毎日のように思い出していました。置かれた言葉のひとつひとつ、その仕草ひとつひとつを、毎日記憶の中で思い出して。自分でも気持ち悪いなって思います。醜いな、とも。そこまでして漸く気づきました。ボクは、きみが、」
語尾はみっともなく震えていた。その震えている、という事実に気づいた時笑いがこみ上げてきた。ばかみたいだ。早くあの夏を終わらせたいと思いながら、いざ終わらせようというタイミングになって躊躇うなんて。
――それでも。季節は移ろうものだ。同じ季節など、二度と訪れない。
それは、夏の化石。ボクがずっと胸に仕舞い込んでいた想いの化石だ。
「……きみはこれをお別れの旅行だと言いましたね。きみがそう言うなら、ボクはそれに従いたい。お別れしましょう、ボクもきみを解放します。ずっとすきでいてごめんなさい。ありがとう、きみをすきでいられた季節は、いつも美しかった」
きみのしあわせのためなら、ボクはいくらだって折れていける。なんてさすがに気障すぎて言えなかったけれど。
黄瀬くんの穏やかな光を宿した瞳がゆらいで、ぼろりとなにか大きな滴が頬を伝った。ガラス細工のようなそれは、やっぱり美しい。美しい人から生み出されるものはなんだって美しいのかもしれない。
「……もう、ボクの夢のなかに出てきてくれなくても、いいですよ」
――途端に体を包んだたおやかな温かさの正体を、ボクは理解することが出来なかった。
黄瀬くんの肩越しに見える夏は、あの頃と寸分も違わずにそこに転がっている。ああ、これはあの夏の続きなのだろうか。化石が蘇って、押し留めていた思い出が溢れかえった。
黄瀬くん、笑みを含んだ言葉は海の音に攫われていく。それでも彼にはちゃんと届いたらしい、ぎゅうと背中を掴む力が強くなった。少し、痛い。
「……黒子っちは、オレのことすきだったんスか」
「…そうですね、そういうことになります」
「どうして言ってくんなかったの」
「忘れて欲しいといったのはきみですよ」
「うん、うん。そうだね。オレっスね。でもオレ我儘だから許して欲しい。…ね、黒子っちは、今オレが、黒子っちのことすきだって言ったら、困る?」
「……その聞き方は卑怯だと思います」
「うんごめん。卑怯で」
「きみはさっきから謝ってばかりですね。…ほんとうに、しかたのないひと」
その言葉が返事だった。その言葉はうまく彼に伝わったらしい。包み込んでいた温もりが離れていく。漸く見えた顔は透明の滴でぐしゃぐしゃだったけれど、そんなことなどお構いなしに彼は、黄瀬くんは笑っている。そうだ、この顔だ。ボクは黄瀬くんの笑った顔が一番好きだった。そうして、今も。
今度は黄瀬くんの大きな手がボクの頬を滑った。黒子っちは泣かないんスね。どっかの誰かさんがボクの代わりにいっぱい泣いてくれるので。ええー、それなんかズルい。
恋愛は非生産的な行為だと上司は言った。確かにその通りだと思う。そこからは何も生まれないし、ただ闇雲に傷つくだけだ。胸に広がる痛みを「恋」と呼んだその時から、それは決まっていたことのように思う。
けれども、だからこそ信じたいのだ。そこから何か生まれるのではないかと。非生産的な行為の向こう側で、得られる何かがあるのではないか、と。
ボクが黄瀬くんをすきなところで何も生まれない。いくら体を重ねても子孫を残せるわけでもないし、そもそもこの感情は今の世界では異端視されている。結婚どころか手を繋ぐことすら許されない。それでも、ボクは黄瀬くんがすきだし、黄瀬くんはボクをすきだといってくれた。今はそれだけでいい。非生産的な行為ができるのは若い内の特権だって彼女も言っていたから。

――夏の話をしよう。最初から始まってもいなかった夏の話を。きみが笑ってくれたら、上出来だ。

車に戻るまでの短い間を、ボクと黄瀬くんは手を繋いで歩いた。辺りに人影がなくて本当に良かったと思う。
実はね、内緒にしてたけど。と、運転席に座った黄瀬くんが言う。
助手席に乗せるのは好きな子だけにしようって、決めてたんス。ちょっとどころかとんでもなく女々しいから黙ってたんだけど。
「そういうところも纏めてすきになったので、別に構いません。女々しくても」
黒子っち、と黄瀬くんが小さな声で言った。大切なものを口にしているのだと、まるで隠し切れない様子で。それに応えるように指先を握るとふわりと視界を影が覆う。
ボクは少し笑って、静かに目を閉じた。

//有海
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