黄黒 | ナノ


初めて姿を見たのは春の終わり。
その頃練習後の誰もいない筈の体育館からボールが弾む音が聞こえてくるという噂が、真しやかに帝光中バスケ部で囁かれていた。夏でもないのに怪談かよ、と思わないでもなかったが、そんな噂が流れているのに気付いてしまえば気になってしまうのが青峰大輝という男だった。
薄い桃色が夕暮れに溶ける頃、その噂の真偽を確かめるため、青峰は一人噂の体育館に向かった。今思えば一人で向かって本当に良かった、でなければアイスブルーは自分だけのものにはならなかったから。最初は聞こえて来なかったが、徐々に体育館に近付くにつれ聞き慣れたドリブル音が鼓膜を揺らす。ドリブル音から考えるに相手は一人らしい。どうせなら一緒にバスケでもしてやる、意気込んで開けた扉の先にはしかし誰もいない。
「う、うそだろ…マジで幽霊とかそんな笑えない話…」
「どうしたんですか?」
「?!うっわ!?」
不意に声を掛けられて、文字通り飛び上がるようにして青峰は驚いた。突然の出来事に思考が追い付かない。分かるのは、目の前に己より一回りも二回りも小さい少女がいるということ。肩あたりで切り揃えられたアイスブルーの髪が、開け放たれた扉から入り込んで来る風で揺れた。
「……お前いつからいた?」
「最初からいましたけど」
「…………え、じゃあ噂の原因ってお前……」
恐る恐る口に出した言葉に少女は何度か目をぱちぱちとさせてから、合点がいったのか小さく溜息を吐きつつ頷いた。話を聞けばあまりの影の薄さに人がきても気付かれないのだという。そんな馬鹿な話があるか思ったが実際青峰自身も気付かなかったので、少女の話はどうやら本当らしかった。当の本人はそんな噂に傷付く様子もなく、一人で邪魔されず練習できるのでいいんですけどねなどと宣っていた。
彼女が練習熱心なのは体育館隅に纏められたペットボトルの数からも明らかだった。春の終わりとはいえ、まだまだ夏のような暑さには程遠い今の時期にあそこまで大量のペットボトルを消費するなんて、一体どれだけ練習をしているのだろう。少なくとも、青峰の知る誰より練習していることは確かだった。
青峰は努力家とバスケが好きな人間が好きだ。その点から見れば少女はパーフェクトだった。気付けば通常の練習後に二人で自主練をすることが日課になっていた。
少女――黒子のプレイスタイルは特殊だった。パス回しという技術に関して異常なまでに特化したプレイスタイルは青峰を心底驚かせ、同時に深い尊敬の念を抱かせる。ああなるまで一体どれだけの練習を重ねたのだろう。冗談で触れた掌は同級生や幼なじみのそれと比べても固く豆だらけ。爪を伸ばし綺麗にみせようとする同級生が多い中、短く切り揃えられた桜色の爪は青峰の視界に鮮やかな色を添えた。
最初に、掌が好きだな、と思った。豆だらけ、お世辞にも美しいとは言えない掌は、けれども青峰が一等美しいと思う努力家の掌だった。
次に、声が心地好いな、と思った。凛とした涼やかな声は鮮烈さを伴って青峰の鼓膜を侵食する。どんな雑踏にいても黒子の声だけは聞き取れる自信があったし、聞き逃さない自信もあった。
次に、瞳が綺麗だな、と思った。真っ直ぐに前を見つめる強さを持ったアイスブルーの塊は、何時も穏やかな光を湛えていた。その光を見るとどんなに凪いだ気持ちも穏やかになるのだった。
そうして最後に、黒子はとても小さいのだな、と思って――思ってしまったのが最後だった。自分と比較して一回りも二回りも小さいその体を守らなければならない、と思って、そこで漸く己が黒子に抱いている気持ちを自覚した。
気付いてしまえばあとは落ちるだけだ。豆だらけの掌も涼やかな小さな声も強気な瞳も、そのどれもが好ましく映る。世界で一番美しく見える。恋とは、宇宙をただ一人の者に縮め、ただ一人の者を神にまで広げることだとはよくいったもので、青峰にとって黒子とは宇宙であり世界を切り開く光だった。黒子は青峰のことを光だと言って眩しがるが、青峰からしてみれば黒子の方が何倍も明るい光だったのだ。
黒子を見ていると幾らだって頑張ろうと思えたし、どんなに厳しい練習だって耐えられる。黒子のバスケに対するひたむきさは青峰の心を支える柱の一部になった。そのひたむきさが傍にある限り自分はいくらだってうまくなれるし、いくらだってバスケを好きになれる。まだほんの十数年しか生きていないにも関わらず、青峰は確かにそう思った。
しかしある部分では大人顔巻けの思考をするくせに、やっぱりどうしたって青峰は子供なのだ。世界は二人きりで永遠に完結していると思っていたし、黒子が己以外を視界にいれることなどないと思っていた。もしかしたらそう思い込みたかっただけなのかもしれなかったが、思わないなら同じことだ。
ずっと、お前は、俺だけの光だって、思ってたのに。
視界の端で、ある男を前にして黒子が楽しそうに笑う。そんな顔、一度だって見たことがなかった。青峰に見せたことがない表情で、自分ではない誰かに笑いかける黒子は相変わらず美しくて吐き気がする。一番最初に見付けたのは俺なのに、そんなお前を見付けられもしない奴をお前は好きになるのか。
そんなこと、絶対に言えやしないのだけれど。

◇◆◇

「……青峰くん?」
隣から聞こえてきた声に、青峰は思考の海に沈めていた意識を持ち上げた。隣でこちらを見つめるアイスブルーは、美しいと思ったあの時と同じだ。
黒子の手には何本かの花火が握られている。二日目の夜に部員みんなで花火をするのは夏合宿恒例の行事だ。去年の夏もやった。去年の夏も、黒子は青峰の隣にいた。青峰が呼んだから、なのだけど。遠くで目立つ黄色が不安そうにこちらを見つめている。そんな顔をするくせ、こちらにやってきすらしない。声を掛けてやるほど青峰は優しくなかった。
「どうしたんですか、一人でぼうっとして。花火、しないんですか。楽しみにしていたでしょう」
黒子はそう言って持っていた花火の何本かを差し出した。冗談でだったらいくらでも触れられるのに、一度意識してしまえば恐ろしくて触れられない真白の指先。自分とはこんなにも違うことに眩暈を覚えながら、取り敢えず受け取っておく。よくよく見ると黒子の持っている花火と同じ種類のようだった。
「テツはあいつらんとこ行かなくていいのかよ」
「あいつら?」
「女バスんとことか……」
もう一人浮かんできた名前は口に出せなかった。
黒子は青峰の言葉にきょとんとした後、ゆるゆると笑って花火を指揮棒のように上下に振る。
「青峰くんが一人で可哀相だなと思ったので」
「なんじゃそりゃ」
「それにきみ、言ったでしょう。昨日、明日の夜話があるって。それを聞きに来ました」
黒子の、こういうところが時々とても苦しいのだ。黒子の誰に対しても平等に降り注ぐ優しさは、青峰だけの特別ではない。自分だけの特別になればいいのに、とかつてあれほど願ったことを今は誰かの特別になどならないでほしいとつよく祈っている。多分きっと、もう誰かのものなのだろうけれど。
青峰は特に返事をせずに、どうせならと受け取った花火に、花火を始める前に配られた安っぽいライターで火をつけた。途端に噴き出す閃光は、暗闇に慣れた瞳には眩しい。隣に並ぶ黒子も火を付けようと思ったのか、手に持った花火の一つをそっと青峰に差し出して来る。指先に触れることすら躊躇うくせにこうして間接的に触れ合うことは躊躇わないのだな、と自嘲したくなる心持ちで黒子の花火にも火を付けてやった。
「綺麗ですね」
ほう、溜息混じりに呟かれた言葉に小さく相槌を返す。そういえば去年も似たような会話をしたんだったか。何も言わずに花火を見つめる青峰の隣で黒子が花火の美しさに溜息を零す。違うのは、去年はキャプテンに怒られたことが気に食わなくて黙っていたこと、今年は隣にいる存在のせいで黙っていること。それ以外は何一つ変わらない。かなしいくらいに。
「……そういえば去年もこんな会話をしましたね」
「は?んだよ、テツは去年のことなんて覚えてんのか」
「覚えていますよ、だってとても楽しかったから」
黒子はちょっと首を傾げて青峰の顔を見つめた。変なことを言うんだな、と言いたげに薄く笑いながら。
「楽しかったと思ったことは、忘れないように出来ているんです」
卑怯だ、と思ったのと同時にどうしようもなく嬉しくなった自分をどうにかしたかった。
嬉しかった。たとえ欠片でも黒子の中に青峰大輝という存在がいること。その心に触れられたこと。
「去年の夏合宿は、一軍に昇格したばかりで他のチームメイトとぎくしゃくしていたので、花火のとき青峰くんが声を掛けてくれてとても助かったのを覚えています。今でも、ちゃんと。あの時のお礼、まだ言えてなかったですね」
「礼とか、意味わかんねぇ。別にそういうつもりじゃなかったし」
「そうでなくても、ボクが嬉しかったから。……ありがとう、青峰くん。きみはいつだってボクの光でした」
深い意図がないのだということはよくわかっている。けれども黒子が無意識にした過去形は、二人のこれからを思わせるようでなんだか無性に淋しくなった。多分、黒子はそんなつもりはないのだろう。でも、そう取ってしまうのが青峰の弱さといえば弱さなのかもしれない。
もう、俺はお前の光にはなれねぇのかな。
「……テツ」
「はい?あ、もう一本花火ありますよ。やりますか」
「花火はもういいよ。あのさ、」
「はい。なんですか?」
でもさあ、もう二度と光になれなくても、俺はお前とずっと【友情】でいるのは、嫌だったよ。
「俺、お前のことすきだよ。すげーすき」
「………え?」
「ははっ、変な顔」
青峰の言葉を受けて、黒子は上下に振っていた花火をぴたりと止めてそのまま動かなくなった。何を言われたのかわからない、という表情である。驚いたのか、驚いたのだろう。唐突に告げた自覚はあったから。
返事のわかりきっている相手に想いを告げるのは苦しいのかと思ったが、存外そうでもないらしい。寧ろすっきりした気分で青峰はそうっと、僅かに震える指先で、アイスブルーに触れた。そのままわしゃわしゃ掻き回してみる。触れてみたいと思ったそれは、思い描いたままの温度だ。
振動で強張りが解けたのか、黒子が掠れた声であおみねくん、と名前を呼んだ。もっと呼ばれたいな、と思って――思って、瞼を閉じる。
「……そ、れは、その」
「ん?」
「ボクが、その、すき、というのは、」
「そのまんまの意味だっつの。青峰大輝は黒子テツナがすきです。俺の、恋人に、なりませんか」
――頼むから、躊躇などしてくれるなよ。
祈るような気持ちで瞼を押し上げると、黒子は綺麗だと思った瞳でじぃっと青峰を見つめていた。その瞳を見た瞬間、言いようのない安堵感に包まれる。よかった、こういう奴だから、すきになった。
「テツ」
名前を呼んだ。黒子の名前は青峰にとって魔法であり誓いであり願いであり、祈りだった。


初めて姿を見たのは春の終わり。桃色が夕暮れに溶ける頃、一人汗を流していた。
掌が好きだなと思ったのは夏の初め。戯れで触れた掌は豆だらけで、白い指先とはアンバランスだった。
声が心地好いなと思ったのは夏の終わり。凛とした涼やかな声が響くだけで、残暑も追い払えるような気がした。
瞳が綺麗だなと思ったのは夏と秋の境目。苛立ったときにその瞳を見つめると穏やかになれた。
その姿が小さいなと思ったのは、


黒子が小さく息を吸い込んでゆっくり唇を動かす。その答えを聞いて、青峰が満足そうに、笑った。

◇◆◇

青峰っち。
名前を呼ばれてペットボトルに口を付けたまま振り返ると薄い暗闇の中に黄瀬が立っていた。どことなくそわそわとしているのは、先程まで青峰と黒子が二人きりでいたからか。
馬鹿な奴。
確かにそう思ったが口にはださなかった。黄瀬は暫く何も言わなかったので、その間にペットボトルのスポーツドリンクをすべて消費して、空になったそれをごみ箱に投げ捨てる。ペットボトルとごみ箱の底が触れ合って乾いた音を立てた。
「青峰っち、」
「だからなんだよ、うぜぇな」
「……さっき黒子っちと何の話をしてたんスか」
「別にいいだろ何でも」
「だ、だって黒子っち様子が変だったし…」
「テツの様子が変だって、それお前に関係あんの?」
「……」
黒子が青峰と別れてから、一人きりになった黒子に慌てて駆け寄ったのは黄瀬だった。黒子っち、一緒に花火しよ?けれど黒子はそれに頷くことはなく、ただ下を向いてぽつりと考えたいことがあるので先に部屋に戻ります、と小さく呟いて一度も黄瀬を見ることなく部屋に戻ってしまった。その華奢な後ろ姿を黄瀬はただ見送ることしかできない。青峰っちと何かあったの?そう聞けるだけの強さをまだ持てなかったのだ。
何かいいたげに口をぱくぱくとさせている黄瀬を見て何を思ったのか、青峰は壁に寄り掛かりながら黄瀬、と気怠げに口を開く。
「……なんスか」
「テメェが仕事で一緒になる女のモデルってみんな美人なわけ?おっぱいでけぇの?」
「は?い、いやまぁモデルやってるこはみんなそれなりに整った顔をしてると思うっスけど…それが何か…」
「じゃあ別に相手はテツじゃなくていいよな?おっぱいでけぇ子より取り見取りなんだろ?俺にテツくれよ」
「…は!?」
形のよい瞳をまんまるにして驚く黄瀬を一瞥すると、それ以上の興味を失ったのか青峰はそっぽを向いた。逆に何がなんだかわからないのは黄瀬の方である。
言いたいことは沢山あった。何で青峰っちがそんなことを言うんだとか、青峰っちは何でオレの気持ちを知ってるんだとか、なんでそんなことを言われなくちゃならないんだとか、口にしたい想いは結局言葉にならずに消える。なんとか絞り出した言葉はみっともなく震えていた。
「く、黒子っちは物じゃないし…あげるとかあげないとかそういうんじゃないっス…」
「でもテメェはより取り見取りなんだろ。テツじゃなくたっていいじゃねぇか」
「よ、よくない!そんなの、全然、よくない!オレは…!」
不意にそっぽを向いていた青峰の、鋭利な瞳が黄瀬を捉えた。圧倒的な捕食者の瞳だった。
「そんなこと言ったって、テツには何も言えてねぇくせに」
「…え?」
「俺は言ったぜ。テツに。友達じゃ嫌だって」
「…っ!」
青峰の鼓膜の裏側で蘇る声がある。ごめんなさい、青峰くん。ボクはきみの気持ちに応えることができません。……ですが、ありがとうございます、そういってもらえるのは、嬉しいです。豆だらけの掌、アイスブルーの瞳、涼やかな声、小さな体。どれ一つとっても愛しかった。いや今でも、その存在が。
けれど、もうそのどれもが青峰のものになることは一生ないのだ。
だったら。
「友達としてならずっと傍にいられたのかもしんねぇ。けどさ、俺はそれじゃ嫌だった。……お前もそうじゃねぇの?」
「……黒子っちは、返事……」
「さあ、どうだと思う?」
その言葉を聞いて唇を噛み締めた黄瀬は暫く俯いて黙っていた。
そうして、漸く顔をあげた黄瀬の、その形のよい瞳に宿った光を見て、青峰はバレないように小さく小さく笑う。


俺は魔法が使えない。だからテツ、頼む、しあわせだって笑ってくれ。



◇◆◇

「お、黄瀬いたいた!探したんだぜ」
「……先輩?」
黄瀬の背中にそう声を掛けたのは夏合宿に参加していた帝光中男子バスケ部OBだった。何やら楽しそうに笑っている。
「お前さ、今年からバスケ部入ったんだろ?知らないと思ってさ〜。教えてやろうと思って」
「何をっスか?」
「帝光中男子バスケ部にだけ伝わるジンクスだよ。夏合宿二日目夜に先輩から後輩に教えるのが伝統なんだ。いいか、誰にも言うなよ、絶対だぞ」
「は、はいっス…」
「あのな――」



//有海
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -