黄黒2 | ナノ


そうっと襖を開けると、気持ち良さそうに眠る姿が見えた。障子越しに差し込む光が柔らかな影を生み出している。朝日に照らされた赤い髪は鮮やかな色彩を留めたままだ。
寝起きは全く悪くないくせして、一度深く眠ってしまえばこちらが声を掛けるまで決して目を覚まさないこの男を起こすことから黒子の朝は始まる。あの日から連綿と続いているこれは最早一種の癖となっていて。離さないように逃げないように、そんなことあるはずがないのに、男は時々そういうことをする。テツナの隣だとよく眠れるんだ、告げられた言葉、その投げ掛けられた「む」の意味をどれだけ嬉しく思っているかなんて、男はきっと一生知らないままで。
「征十郎さん、朝ですよ」
囁くようにして言葉を告げた瞬間、男は小さく鼻を鳴らしてそうっと瞼を押し上げた。現れた左右で色の異なる鮮烈な色彩に、空色が映りこむ。昼と夕が混ざったようだ、と思う。
「……おはよう、テツナ」
伸びてきた指先は雪のように白い。けれど、触れ合ったそれは雪とは真逆の温度をしていた。
何度かなぞるようにして指先を滑らせた後、男は柔らかく微笑んで、掌いっぱいで頬を撫でる。最初は戸惑いを覚えたこの行為も今ではいい意味で慣れたものだ。彼女と妻の差はひどく甘い。甘える猫のように掌に頬をこすりつけると、男が満足そうに目を眇める。
「いい夢は見れましたか?」
「テツナが隣にいること以上に良いことなどありはしないよ」
「あなたは時々ひどく恥ずかしいことを言います」
「お互い様じゃあ、ないかな」
「……ほら、早く起きてください。朝ごはん出来ていますから」
「ゆで卵?」
「征十郎さん、」
「悪かった、冗談だよ」
男は横たえていた体を漸く起こすと、伸びをしてから小さく欠伸を一つした。浴衣は一切着崩れておらず、それがちょっと羨ましい。いまだ和服生活に慣れない黒子は朝起きる度に乱れている浴衣を見てげんなりする。そんなに寝相は悪くない筈なのだが。
いそいそと洗面所へ向かおうとしている男の後ろ姿に、朝ごはん温めておきますね、と声を掛けると、筒袖から伸びた腕がひらひら左右に揺れた。



机の上に朝食を並べ、猫舌である赤司のために適度に冷ましたお茶を用意していると幾分かさっぱりした顔で本人が現れた。些かまだ眠たそうなのは、昨晩遅くまで棋譜の整理をしていたからなのかもしれない。出版社から将棋の解説書を書いて欲しいと言われたのはつい最近のことだ。こればかりは黒子に手伝えることは何もない。せめて赤司が寝食を忘れないように見張るくらいだ。まあ、赤司に限ってそのような無茶はしないのだけど。まだ眠たそうですね、と言うと少しねと苦笑を返される。
「久しぶりに昔の棋譜の整理をすると駄目だな。つい駒を並べたくなる」
「だから昨日は遅くまで明かりが点いてたんですか。早めに休んだ方がいいですよ。竜王戦も近いんですから」
「それを言うならテツナだってそうだろう?昨日は遅くまでパソコンに向かっていたみたいじゃないか」
「あれは保護者に配るプリントを作っていて…」
「夜更かしは感心しないな」
昔から赤司に口で勝てたためしなど一度もないのだということを、黒子は久しぶりに思い出した。
基本的に赤司は朝はテレビを点けない。けして口数が多いわけではない二人なので沈黙が支配することも少なくないが、それは嫌な沈黙ではない。寧ろ心地好いものだった。庭先で鳥の軽やかな声がする。もうすぐ庭にも沢山の綺麗な花が咲くだろう。そうしたら二人で縁側で涼むのもいいかもしれない。そんなことを考えながら黒子が朝食の煮物をつまむと、同じように煮物を咀嚼していた赤司が不意に、美味しいよ、と言う。
「え?」
「いや、腕を上げたなと思っただけだよ。最初は食べられたものではなかったから」
「……ゆで卵なら誰にも負けません」
「そうだね、黄瀬の馬鹿なんかはテツナのゆで卵をいたく気に入っていたみたいだし」
「征十郎さん、そういう呼び方はどうかと思いますよ」
「僕のものに手を出そうとする人間は馬鹿で十分だ」
そうは言っても、昔を懐かしむように瞳に柔らかい光が宿るのを黒子は知っている。今や俳優として不動の地位を確立した彼が番組に出演する度に必ず録画をし、彼の記事が掲載されたら毎回欠かさず読む。他の友人に対してだって同じで、友人が活躍する度に祝いの電話をかけるくらいだ。絶対的支配者に見えて、本当は誰より優しい。そういうひとだから、好きになった。
「そういえば青峰くんからエアメールが届いていました。凱旋帰国するついでに竜王戦を観戦したいそうですよ」
「……大輝は何で僕じゃなくていつもテツナに手紙を送るかな」「征十郎さんに手紙を送ると返事でやれ漢字が違うだの、やれ文法がおかしいだの言われるからじゃないですか。青峰くんの手紙は間違いのオンパレードですからね」
「僕は当たり前のことをしているだけだよ……竜王戦を見に来たいって言っていたのかい?」
「はい」
「大輝は将棋が分かるのかな」
「さっぱりみたいです。でも征十郎さんが将棋を指している姿を見るのは好きだと言っていました」
「……そうか」
本当に、素直じゃないひと。赤司の僅かに緩んだ目許を見ながら黒子は思う。嬉しいときに嬉しいと言えないひとなのだ。
昔、まだ黒子が赤司の隣に並ぶ権利を持っていなかった頃。赤司くんは、嬉しいとか楽しいとか、あんまり口に出して言わないんですね、と言ったことがある。口に出して言わないから周囲の人間には伝わり難い(それでも、赤司の傍にいる友人たちはそれとなく理解出来るようになっていたが)。こんなに優しいひとなのに、周りの人間がそれを知らないのは不公平な気がした。今思えば、喜怒哀楽をあまり表に出さない自分なんかに言われたくないことだろうなと思わなくもないけれど。嗚呼、あの時彼はなんと言ったんだっけ?
「そうやって僕の感情は全てテツナが掬ってくれるから、別にいいんだ」
「……え?」
「ちょっと昔のことを思い出してね」
告げられた言葉にはっとして赤司の色彩を覗き込むと、彼は柔らかく目を細めた。だから、いいんだ。遠いあの日の声が現実に重なる。初めて誰かを愛しく思った日。始まりの日があるなら、あの日が確かに始まりだった。
やっぱりあなたは時々ひどく恥ずかしいことを言います。思わず目を伏せた黒子に向かって、赤司が楽しそうに笑う。時計がかちりとまた時を進める。


◇◆◇


「はい、袖を通してください」
「ん…そういえば今日は帰りが遅めだったかい」
「あ、はい。もうすぐ運動会があるので、先生方と打ち合わせをしなければいけないんです」
赤司の着替えを手伝うのは毎朝黒子の仕事だった。色を選び柄を選び、帯を選ぶ。最初はどれを選べばいいのか分からずに右往左往していた黒子に一つずつ丁寧に教えたのは他でもない赤司だった。
最初、黒子が赤司の家に嫁いで来た時、赤司の家には沢山の家政婦がいた。食事をつくり部屋を掃除し赤司の身の回りの世話をする沢山の家政婦。それらを全員追い出してしまった(言い方は悪いが、結論的に言えばそうなのだから仕方がない)のは黒子だ。嫁いで来たからにはすべて自分の手で行いたかった。黒子はただ赤司の隣でにこにこしている人形になるために嫁いで来たわけではない。彼の手となり足となり、時には目や声になって心に寄り添うためにきたのだ。人形になるためなら、別に黒子でなくてもいいのだから。
今では手慣れた様子で赤司が起床する前に選んだ帯を着物に合わせる。今日は「竜王戦に向けて」という名目のインタビューが入っている。何時もよりは華美に、けれども華美すぎないように、赤司という男が一番栄えて人々の心に焼き付くように。
黒子が選んだ衣装を赤司も気に入ったらしい、鏡に映る姿が満足そうに目を細めた。
「僕はインタビューが終わったら少しだけ協会に顔を出そうと思っている」
「夕食は外で食べてきますか?」
「まさか。テツナのいない食事ほど味気無いものはないよ」
「……それはそれは、」
しゅるり、と音を立てて帯を結ぶ。出来ました、見上げながらそういうと鮮やかな双眸がふわりと柔らいだ。黒子にとっては大きな掌がくしゃりと水色の髪を撫でる。ん、ありがとう。告げられた言葉は甘い。
「今日は久しぶりに僕が作ろうかな」
「征十郎さんが?」
「たまには嫁孝行しないとね」
「嬉しいことを、言います」
「出来るうちに出来ることをしとおくことにこしたことはない。出来なくなってからでは、遅いのだから」
きっと赤司は、黒子が赤司を始めとする皆の輪からするりといなくなってしまったときのことを思い出しているのだろう。中学の頃、夏のあの日。確かに黒子は赤司の元から逃げ出した。
――でも。
今は、ここにいる。もう、何処にも行かない。
黒子はゆるゆると頭を撫でて続ける手を取って、指先に口づけた。祈るように、誓うように。微かな憧憬を滲ませながら。駒を握り世界を切り開く、鮮やかな指先。
「……テツナは何が食べたい?」
「茶碗蒸しが食べたいです」
「分かった、善処しよう」
「楽しみにしていますね」
「お腹をすかせて帰っておいで」
はい、笑みを滲ませた声で返事をすると、つられたように赤司も笑う。まだ一日は始まったばかりだ。今日はこのひととどんな話を、しようか。






//有海
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