むらあか | ナノ


その日もとても綺麗な夕焼けだったことを、よく覚えている。



久しぶりに流れたのは、彼専用に設定した少し前に流行ったロックンロールだった。いや、もしかしたらずっと前に流行ったものなのかもしれなかったが、紫原にはよくわからなかったし知る必要もない。大切なのは彼がその曲を好きなのか嫌いなのか、ということである。
音楽が流れ出したときから発信者は誰だか分かっていたが、電話に出た瞬間にすべてが変わってしまう気がして、すぐには出ないまま、自分を安心させるために画面に表示された名前を指先で触れた。携帯電話だけだ、彼の名前がフルネームで登録されているのは。
不思議だ、と思う。彼にその名があること。紫原にとって彼の名はたった四文字で表されるもので、こんなに長ったらしいものではなかった。不思議だった。その名前で呼んでも彼がちゃんと返事をすること。
「もしもしー」
留守番電話に切り替わる瞬間に紫原は通話ボタンを押して、力強く小型な機械を耳に押し当てた。彼の言葉を一言一句聞き逃さないために。神の言葉にすら等しいそれを体内に蓄積させるために。
電話の向こうの男は紫原がギリギリのタイミングで電話に出たことにも全く動じずに、久しぶりと穏やかな声で笑んでみせた。知っているのだ、紫原が留守番電話に切り替わるギリギリのタイミングで電話に出ること、絶対に男の電話には出ること。
「元気だったかい?」
「元気だよー。っていうかまだ卒業してからそんなに経ってないし、オレが元気だとか元気じゃないだとか、赤ちんだったらすぐわかるでしょ」
「四ヶ月は結構経ったって言うんだよ、敦」
「えー、そうなの?」
がさがさと鞄の中を漁りながら紫原は不服そうに唇を尖らせてみせた。勿論その仕種は電話の向こうの男――赤司には届いていないが、中学時代を思い出したのだろう、小さく笑って無意味に敦、と名前を呼ぶ。
「飴が見つからないの?」
「赤ちんすごいー。どうしてわかったの?」
「敦のことなら何でもわかるよ」
その台詞に紫原が一瞬だけ困った顔をして、鞄を漁る手を止めた。どうしたらいいのか分からないといった表情である。
実際、紫原はどうしたらいいのか分からなかった。その言葉に見合うだけの言葉を紫原は持っていなかったし、持っていたっしても口にすることはなかっただろう。その言葉を一度も使用したことがなかったからだ。紫原は愚かではない。自分の言葉が相手にどのような影響を与えるのか、それにより周囲を変化するのかを本能的に悟る。一度も使用したことがない言葉を不用意に使用して、世界を壊すくらいならば告げないことを選ぶ。黙ったままでいると今度は明確な意志を持って、柔らかな、でも凜とした強さを持った声が敦、と呼んだ。
「……赤ちんが電話してくるなんて珍しいから、びっくりしただけ」
「そうかな」
「そうだよ。いつもオレが電話、するしー」
「そういえば、そうだね。まあ、僕は電話が好きじゃないからかもしれないな」
「え、」
「でも敦の電話は好きだよ」
「……うん」
「敦、今日僕が電話したのは、お願いがあるからなんだ」
「……聞くよ。何でも。赤ちんのお願いなら」
たとえそれが、どんなものであっても。
続くはずだった、けれども言えなかった言葉は紫原の喉を塞ぐ。苦しいばかりのそれは、たった今探していた飴のように微かなべたつきを残しながらも甘い。紫原にとって赤司の言葉は絶対だった。お願いだろうが命令だろうが、それが赤司の口から発っせられたものであるなら、紫原は全てを咀嚼して嚥下して身体の隅々に行き渡らせ、忠実に遂行する。その行為は愛でもなくましてや恋でもなかった。脊髄反射、なのかもしれない。気付けば反応している、でもそれを嫌だとは決して思わない。
何でも聞くよ、赤ちんのお願いなら。命令でも構わない。赤ちんが言葉をくれるなら、言葉の正体なんてそんなもの関係ないんだ。
紫原の声を聞いて、電話の向こうで赤司が楽しそうに、そうか、と笑う。




「なあ、アツシ」
練習終わり、あの日と同じ夕焼け空の下を紫原は新作の菓子を頬張りながら歩いていた。まいう棒ハニーマスタード味。どの辺がハニーなのかいまいちよく分からなかったが、それなりに美味しかったので良しとする。そういえば中学時代に食べたラー油トマト味は本当に美味しかった。
「アツシ、」
再度聞こえた声に、紫原は今度こそちゃんと反応して、なにー?と緩慢な動作で横を見た。練習中はあんなにきびきびと動くのに、それ以外の時ではどうしてこんなにも違うのだろう、と隣を歩く氷室が不思議そうに首を傾げる。
「美味しい?それ」
「ん。室ちんも食べるー?」
「いや、オレはいいや」
そう、と氷室に向かって伸ばした(といっても、紫原の腕は他者と比べても随分と長かったので、「伸ばした」という表現は些か不適切なように思われる)腕を引っ込めて、持ったまいう棒を口に運ぶ。ばりぼり、咀嚼音と共に大量の食べかすが落ちていく。
氷室は暫く黙って見つめていたが、やがて意を決したような顔をして口を開いた。
「アツシ、聞いてもいい?」
「なにー?」
「……どうして、」
なんとなく、察しがついた。氷室が一体何を言いたいか。何を聞きたいか。多分、インターハイのことだろう。それは他の部員にも繰り返し繰り返し、何度も聞かれたことだった。どうして、なんで。その度に紫原は飽きもせず同じ言葉を返す。赤ちんが、言ったから。
紫原にはどうにも不思議に思えてならなかった。どうして他の部員はそんなに紫原の行動に疑問を持つのだろう。何を不思議に思うのだろう。さっぱり分からない。どうしてそんなことを聞くのと逆に聞き返せば、部員は何時も苛立たし気に溜息をついた。
「室ちんはかみさまって信じてんの?」
「は?」
「かみさまだよー。英語で…なんだっけ。ごっど?」
「Godだよ」
「りゅーちょーな発音むかつくしー」
「え」
「まあいいや」
本日何本目になるか分からないまいう棒をばりぼりと咀嚼しながら紫原はあの日と同じ夕焼けを見上げた。濃い夕焼けは赤司と似ているから少し安心する。
「かみさまの、言うこと。聞くのは当たり前じゃん」
は?と隣から間の抜けた声が聞こえてきた。本気でわけがわからないといった顔である。内心そんな表情を浮かべている氷室をくだらない、と思ったが口には出さなかった。出したところで何かが変わるとも思えない。
基本的に紫原は神を信じていない。それどころか他人すら信じていない節がある。家族もチームメイトも友人ですらも。本当に神なんてものがいるのだとしたら努力は必ず報われるし夢は必ず叶うし、願いは必ず成就する筈だ。しかし現実はどうだ。いくら努力しても報われないし夢は叶わないし願いは成就しない。それなのにまだ神はいると声高に叫ぶ人間を見ると、紫原はいつもその相手を捻り潰したくなるのだった。
そんな話を昔赤司にしたら、神はいると思い込むことが大切なんだよと言われたっけ。
――もしも、本当に神なんてものがいるのだとしたら。それはきっと、赤ちんの姿をしている。
「……敦、それはちょっとおかしいよ」
「なんで?」
「なんでって…うまく言えないけど、おかしい」
「だからなんでだって聞いてんだけど」
「……それは、」
黙ったままの氷室を横目で見遣りながら何にもわかってないくせに、と思った。氷室は赤司を知らないからそんなことを言えるのだ。氷室だって赤司を知れば、赤司の言うことなら何だって聞きたくなる。命令だろうがお願いだろうが、赤司の言うことなら何だって。
氷室はまだ隣で不服そうに黙っている。紫原も特に話すことはなかったので合わせて黙っていた。夕焼けはどんどんと色を増していく。




//有海
∴泳ぐように溺れていた
(title:白々)
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