あおくろ | ナノ


べちゃっと何かが潰れるような音がした。しかしその場にいる誰も動揺一つ見せない。どちらかというとまたか、と呆れたような表情である。黒子ー、寝るなー。間延びした声が室内に響く。熱に阻まれながらも体育館一いっぱいに響いたその声に、けれど倒れたままぴくりともしない男には届かない。恐らく反応する力も残っていないのだろう。列の先頭を走る赤髪が小さく息を吐いて、ちょっと休憩しようかと言った。
休憩に入ってから暫くして何とか体を動かせるようになった黒子、と呼ばれる男は震える足を叱咤しながら体育館の外へ何とか這い出す。途端に厳しい日差しが襲うが、熱の籠もった室内よりは空気の循環がある屋外の方がいくらかましだ。まあ、どちらにしろ苦しいことには変わりない。耳障りな蝉の声は止まない。
傍から見たら夢遊病者と取られてもおかしくない歩み方で備え付けられた水道までたどり着くと、思い切り蛇口を捻る。勢い良く溢れ出す光の粒を纏った透明を霞が残る視界で無感動に眺めた後、自身の頭を一切の躊躇いも持たずに突っ込んだ。途端に襲う鋭い冷たさは、のぼせ上がった頭には心地よい。
やはり、夏は嫌いだと黒子は思う。ひっきりなしに響く蝉の声も、肌を刺すような日差しの温度も、纏わりつく風の感触も。嫌悪の対象になりこそすれ、好意を抱く対象になどなりはしない。更に言うなら、これは間違いなく黒子のやっかみであるが、夏になるとただでさえ差があるチームメイトとの差がより開いてしまうきがする。ただでさえ黒子とその他のチームメイトの体力には大きな差がある。普段の練習ならば大して気になるものでもないが、夏にだけ存在する様々なものが付随することで一気に差は開く。現に黒子は倒れたがチームメイトの誰一人として倒れなかった。環境は同じなのだから、これは明らかに黒子とチームメイトの差だ。それが黒子はたまらなく悔しい。チームメイトに体力がないと馬鹿にされることはともかく(十分嫌だが)、何故こんな奴がレギュラーに、と思われてしまうことが黒子は一番嫌なのである。贔屓で手に入れたわけではない今の地位を他の誰かに嘲笑われるのは耐えられない、今までの全てを否定されていると感じてしまう。
不意に髪を濡らしていた冷たさが消えた。驚いて顔を上げると見慣れた顔が飛び込んでくる。黒子より幾分か高い位置にあるそれは、おーおー、死にそうな顔してやがるとはにかんだ。台詞と表情が合っていない。
「青峰くん」
「大丈夫か?お前すぐに倒れるよなあ、ほら、さつきに貰ってきてやったから飲め。水分取んねーとまたぶっ倒れるぞ」
「…ありがとうございます」
差し出された青いボトルを受け取ると勢い良く飲み干す。からからに乾いた喉にスポーツドリンクはやけに染みた。痛いくらいだ。
「赤司が三十分の休憩だって言ってたぜ。ほら、今のうちにちゃんと休めよ」
「はい、ありがとうございます…すみません」
「謝ってどうすんだよ」
確かに謝ってどうこうできる問題でもないが、と黒子は未だぼんやりとする頭で思いながら、もう一度すみませんと謝罪の言葉を口にする。思わず口をついて出てしまう謝罪の言葉は一体誰に向けたものだったのか、誰にもわからない。謝罪の言葉を受けた青峰は大して気にした様子もなくあっち行こーぜ、あっちのがぜってえ涼しいと言いながら黒子の細く白い腕を掴んだ。黒子の手よりも一回り大きく骨ばった浅黒い男の手。
連れてこられたのはグラウンド外れにある巨木の根本だった。鮮やかな緑色が日差しを浴びて輝いている。
「なかなか涼しいですね」
「横になった方がいいんじゃね?おら、膝貸してやる」
「ありがとうございます。…やはり男の膝は堅いですね」
「落とすぞコラ」
青峰の膝に頭を乗せながら黒子はぼんやりと空を眺める。葉と葉の隙間から漏れ出す光は眩しい。
いつだって黒子は光の下にいた。光があるところが自分の居場所であると言わんばかりの行動はけれど誰に不審がられることもない、少なくともこの場所では。この場所の住人は黒子が影であることを望んでいるからだ。そうして黒子もそれを望んでいた。甘受しているといっても過言ではないのかもしれなかったが、その違いをはっきりと認識できる人間は悲しいかな、黒子の側には存在しない。
「青峰くんは夏、お好きですか?」
「あん?俺?好きだよ。そういうテツは嫌いそうだよな」
「よくわかりましたね、嫌いです。冬の方がずっといいです」
「冬はさみぃじゃん。無理無理」
本当にバスケ以外は全然気が合わない。それなのに二人はいつも一緒にいる。誰かに決められたわけでもないのに、遅くまで一緒に練習をし、一緒に帰り、一緒にテスト勉強をする。気が合わないためにしょっちゅう喧嘩してばかりいるのに、互いの存在が見えないと落ち着かない。そういう存在に今まで出会ったことのない二人は、サンプルが他にないためにそう感じることが正常なのか異常なのかよく分かっていない。ーー異常であっても共にいることはやめないのだろうけれど。
「テツー」
「はい?」
「進路調査の紙、もう出したか?」
青峰が口にしたのは一昨日配られた進路希望調査用紙のことだった。確か提出期限は今週だった筈だ。期限まで時間がないわけではないが、決してあるわけでもない微妙な日が今日である。出しましたよ、一応。黒子がそう答えると青峰は心底げんなりした表情でまじかよ、とだけこぼした。
「青峰くんはまだ提出していないんですか?」
「ていうか何でお前そんなさっさと提出できんの?意味わかんねー。俺らつい最近入学したばっかじゃん。この前まで小学生だったんだぜ?それをいきなり進路とか言われてもわけわかんねえよ」
「確かに僕らはつい先日まで小学生でしたが、今はもう中学生ですよ…それにしてもきみが小学生だったという事実には少なからず驚愕を覚えますね」
「あ?何言ってんだお前」
「いえ、わからないなら結構です」
青峰は中学一年生の平均的身長を軽く越えている。平均値のあたりをうろうろしているその他男子にとっては最早嫉妬の対象だ。恵まれた身長と身体能力。お世辞にも勉強ができるとは言わないが、それを補ってもなお余りある魅力は大勢の人間を惹きつける。隣にいるのが嫌にならないか、と以前一度だけ聞かれたことがあるが、黒子にはどうしてそんなことを言われるのか理解できなかった。青峰はたった一人、自分だけの光だ。影である自分が傍にいることを許されたたった一つの。憧憬にも慕情にも似たそれは、様々なものと混ざりあって最初の形がどんなものだったかもう分からない。分かるのはただ、純粋な歓喜である。
「全中優勝したろ?二連覇してぇみたいな気持ちはあるけどその先なんて全然わかんね。これっぽちも考えらんねーよ」
「でしょうね、きみはそういうひとです」
「テツはなんて書いたんだよ?」
「無難に近場の高校の名前を書いておきました。別に行きたいわけではないですが、適当なことを書くよりは現実味のあるほうが良いかなと思って」
未来を思い描くには黒子も青峰もまだ幼すぎた。現在を生きることが最優先で、それ以外は全く考えられない。なまじ現在が楽しいだけ余計にそうなのかもしれなかった。この一瞬を生きること以外に何も必要でない。必要なのは現在を共に駆け抜けてくれる仲間だ。青峰にとっての黒子、黒子にとっての青峰のように。
「じゃ俺もテツと同じとこ書くか。どこ書いたんだよ」
「それは構いませんが、一言一句僕と同じでいいんですか?」
「いーよ。別に希望してるとこがわるわけでもなし。それに高校に行ってもお前とバスケしてぇもん、俺。同じところだったら一緒にバスケできんだろ」
「…そうですね、僕もきみと一緒にバスケしたいです」
当たり前のことのように青峰の口から発せられた言葉に、黒子も同じ温度を纏わせて返す。青峰の未来に当たり前のように黒子がいること。黒子の未来に当たり前のように青峰がいること。それは二人の中で真実だった。少なくとも、今は。
目線の先にいるこのひとと見たいものが沢山あって、したいことが沢山ある。きっとこれからももっと増えていく。ゆっくり、少しずつ現実になっていく。互いの未来に当たり前みたいな顔をして居座るこのひとと一緒に、笑いながら。
「同じ高校行くか」
「そうですね、そうなったら素敵です」
青峰の大きく骨ばった手のひらが黒子の髪を撫でた。鮮やかな色を纏った笑みに黒子も笑みを返す。
遠くで青峰ー!黒子ー!練習再開すっぞー!という声が聞こえた。いつの間にか蝉の声は止んでいる。




//有海
∴夏の庭先に
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