※誉月←犬飼

窓から夕暮れの空が覗いた。風がふと舞い込んで、何故だか提げられている風鈴が、りん。と鳴った。(ああもう、本当に、夏だな、)遠くからはたった一週間の命を燃やし尽くすかのように声を大にして、蝉がけたたましく鳴いている。つい最近までは全然聞こえなかった筈のその声に呑まれて、世界の方向感覚を見失いそうになった。
インターハイが終わったのは、ほんの二、三日前だった。そして部長――いや、今は部長という肩書など譲ってしまったのだけれど――金久保誉と我等が部活の女神たる夜久月子が付き合い始めたのも。元々互いが互いに好意を持っているのは傍目から見ても一目瞭然であったし、付き合うのも時間の問題であったからその報告を耳にした時もこれといって取り立ててショックなど受けなかった。寧ろ自分がよく知らない相手に掠め取られるよりも好ましいとすら思ったくらいだ。それなのにどうしてだろう、自分はこうしてたった一人で教室に佇んでいるのだろう。どうしてだろう、この夕暮れにあの澄んだ髪の色を見出だしているのだろう。
月子のことは嫌いではない。寧ろ好きである――多分、好きなのだと、思う。ただ、好きか嫌いかなど考えたことも、なかった、今まで一度も考えたことなどなかったのだ。入部してからずっと共に切磋琢磨してきた間柄だ。考える必要などなかった、考えなくとも隣にいられたからである。(でも、もう無理なんだよなあ)そうなのだ、もう、月子の隣に居られる資格を持つのは世界中どこを探してもたった一人しかいない。その人間以外は隣に立つことなど許されぬ。そういうものである。仕方がないのだ、仕方がないのである、脳裏で反芻する。風が舞い込んで、また、りん。と風鈴が微かに鳴いた。
「――犬飼くん?」
「やひ、さ?」
不意に名を呼ばれて振り向くと、亜麻色の長い髪を揺らしながら音もなくそこに立っていた。そういえば先生に呼び出されていたのだったか、とぼんやりとする頭で考えた。
「もうすっかり夏だねえ」
「ああ。蝉が煩いな」
「でも、この声がないと夏って感じがしないよね。確かに煩いけど」
「そうだよなー。蝉の鳴き声が聞こえないのは夏じゃねーよなー」
くすくす、鈴を転がす様な可愛らしい笑い声が耳朶から染み込んで、脳を侵食する。蝉の声が遠退いて、世界が廻る。指先が痺れて何も考えられなくなっていった。この状態を何時だったか、誰かが恋と呼んだのではなかっただろうか。けれども、今更認識したところで何も変わりやしない。彼女は既に誰かのもので、どれだけ足掻こうと手に入らないのだから。
「誉先輩もいなくなっちゃうし、これから頑張って行かないとね!」
変化した呼び方、その事実が、ちくりと胸を刺した。
「本当に宮地が部長になっちゃうもんだもんなあ」
「でも犬飼くん、部長は宮地くんしかいないって言ってたじゃない」
「ちょ、それ絶対宮地に言うなよ!絶対だぞ?!」
「はいはい」
何時までこのやり取りは続けられるのだろう。一体何時まで、月子の隣に居ても許されるのだろう。犬飼には全く検討がつかなかった。明日の様な気もしたし、まだ大分先の様な気もした。けれども、ひとつ確実に言えることは、遠くない未来にこの座は譲らなければならない、ということである。
「――なあ、夜久」
「なあに?」
「今、幸せか?」
「どうしたの、急に」
「いやなんとなく。お前青春してるじゃんか、なあ?」
「うぅ…意地悪。でも、うん、幸せだよ」
「そう、か」
「変な犬飼くん」
窓から夕暮れの空が覗いた。風が舞い込んで、提げられている風鈴が、りん。と鳴った。









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