男が吸う煙草の鼻につく匂いだけが部屋に充満している。手慰みに触れたギターが僅かな彩りを加えた。全てを失ってから一体どのくらいの時間が経っただろうか。人並み以上の生活をしていたあの頃は今となってはもう酷く遠い、揺らめく幻影だった。夢にさえ見ない。この生活に慣れすぎてしまったのか、将又こちらの生活の方が実は性に合っていたのか、くだらない問答を好まない男は一度たりとも考えたことはない。
あの頃から手元にあるものといえば、今まさに手慰みにしているこのギターだけだ。初めて自分自身で手にしたギター。当時と寸分変わらない音色を奏でるそれは、時間を経て役目を終え他のものに座を譲り渡した今でも男の傍らにある。このギターだけがあの頃の男を知っていた。今では男ですら思い出せない遠い過去を。
「……如何なさいましたか、蘭丸さま」
不意にそんな声が聞こえて、蘭丸と呼ばれた男は緩慢な動作で振り返った。視線の先、たおやかに微笑む男よりいくつか年上の女。切り揃えられた黒髪がさらりと揺れる。
開きかけた唇は、はたして誰の名を乞おうとしたのか。男は近くにあった灰皿に煙草を押し付ける。女は蘭丸が煙草を吸うのを好まない。折角世界を震わせるお声を持って生まれたんですのに、煙草をお吸いになられては台無しですよ。そういえば、女は何時も蘭丸の身ばかりにかけることを思い出す。
「腹が減った」
「はい、すぐ御用意致しますね」
いや、もう一つだけあった。あの頃の男を知る存在。古びたギターだけではなかった、あの頃もギターを爪引く男の隣で緩やかに微笑んでいた、男よりいくつか年上の、男専属の使用人。
「珍しいですね、蘭丸さまがそのギターをお出しになられるなんて」
「何だよ、変か」
返事はない。女はただ一度だけにこりと笑って台所に立った。冷蔵庫から取り出したのは男の好物である肉だ。あの頃とは勝手も違うのに、女はどうにかして週に三回は必ず男の好物を食卓に並べる。家のことは全て任せきっている男はどうやったらそんな芸当が出来るのか理解できていない。
女が甲斐甲斐しく働いている様子を眺めながら、男はゆっくりギターを弾いた。一番初めに覚えた曲、使い古されたラブソングの鼓膜を震わす柔らかな音は今でも変わらない。奏でられた音に女は立ち止まって目を細めた。懐かしいものを見るかのような表情である。
「懐かしいですね、蘭丸さまが初めてお弾きになった曲」
「覚えてんのか」
「蘭丸さまに関することは、忘れないように出来ていますから」
柄にもなく動揺してしまった男は、赤みを帯びた頬を隠すように下を向いた。こんなの俺の趣味じゃねぇ、時代はロックだろうが、負け惜しみで呟かれた言葉ははっきり女の耳に届く。
「……わたしは音楽のことはよく解りません。ですが、蘭丸さまの音楽はどれも好きです。蘭丸さまの音楽が、好きなのですよ」
「……んだよ、馬鹿じゃねぇのか」
「ふふふ、馬鹿で構いませんよ」
心の臓が震えた。女はちっとも変わらない、あの頃から。初めまして、蘭丸さま。今日から蘭丸さまのお世話をさせて戴きます。鼓膜を心臓を震わせた、甘い声で、今も男を捕らえて離さない。もしかしたら男の心臓は女の掌の中なのかもしれない。いとも簡単に握り潰されそうになる、体の一番やわっこい部分。それを別に厭わない自分に気付いたのは、一体何時だったか。もう男には、思い出せなかった。




//有海
∴心臓を攫う
「アルテミス」さまに提出させて戴きました。素敵な企画を有難う御座いました。
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