濡れた髪からぽたぽたと水の滴る音がする。素足で触れた床は冷たい。段々暖かくなってきたといったって夜の帳が落ちた後はまだまだ寒さが抜けきれない。お風呂に入れば幾分か温まりはするが外に出て暫く時間が経ってしまえば同じことだ。ずっと浴室に留まることが出来ればいいなとは思うものの、そうすることは人間の構造上不可能である。難儀なことだ。
じいっと見つめてくる視線に気付いたのか、琥太郎さんは漸く分厚い本から視線を上げた。その瞳に自分が映っているという事実に微かな喜びを覚える。以前は瞳に映るだけで歓喜に打ち震えていた体は、歳を重ねる毎にどんどん貪欲になる。彼を愛しいひとだと認識し始めたあの頃から、わたしは彼から与えられる全てを余すことなく咀嚼、嚥下し続け、内腑に収めたいと望む量は日に日に増えつづけていた。なるほど、恋とはなかなかに不便なものである。
「早く髪を拭きなさい。風邪を引く」
呆れを滲ませた、掠れた声。わたしは黙ってその言葉一つ一つ細部に至るまで、あたかも神の啓示であるかのように聞く。彼の声は、彼の言葉は、わたしにとって神と同等である。
「……」
「……月子、」
「こたろうさん」
思ったより甘えた声になってしまったことに、他でもない自分が驚いていた。何時から自分の声はこんなに甘くなったのだろう、わからない。砂糖菓子より甘く硝子細工より脆い言葉の破片たち。わたしは馬鹿の一つ覚えみたいに彼の名前を呼ぶ。構わなかった、馬鹿になろうとも。罵られようと、嘲られようとも馬鹿になることが彼を愛する条件になるのだとしたら、わたしはいくらだって馬鹿になる。
「こたろうさん」
「なんだ、月子」
「こたろうさん」
「どうした?」
「こたろうさん」
本なんか見ないで。わたしだけ見ていて。ずっとわたしだけ好きだって言って。命続くかぎりわたしの傍にいると誓って。
口に出せない想いの全てをたった六文字に篭めて放つ。こたろうさん、こたろうさん、こたろうさん。あなたの名前は名前でありながら、わたしの意思の一つなのです。
「……つきこ」
とびきりとびきり優しい声。わたしが彼の名前を呼ぶのと同じくらい甘い。いや、それ以上に甘ったるいのかもしれない。砂糖の塊に、わたしは歓喜の声を上げながら飛び付き、咀嚼し、嚥下する。
「おいで」
その三文字は待ちに待ったものである筈だったが、予想に反してわたしの体は地面に根を張った巨木みたいにびくともしなかった。動けないのか、動きたくないのかは分からない。重要なのはわたしがその場からぴくりとも動かないということである。
ぽたぽたと水が滴る音がした。
「……まったく、」
彼の、わたしより大きい素足が、ぺたぺたと軽やかな音を立てる。ぺたぺた、ぽたぽた、ぺたぺた、ぽたぽた。三回目のぺたぺたが耳に届く前に大きな掌がわたしの頬を掠っていく。今日は甘えたさんか?からかいの口調すらあまい。ただひたすらにあまい。わたしはその甘さを一滴残らず飲み下す。
すきよすきよあなたがすきよ。わたしのすべてをあなたにあげていいくらいに。
「こたろうさん」
だいすき、抱き上げようと腰に回った腕の感触を隅々まで行き渡らせながら、わたしの、あなたとは全然違う両腕を首に回す。さらりとした感触が肌を擽った。




//有海
あなたのせかい「おいで」
×
わたしのせかい「こたつき」
∴爪びかれる春と溶かされる冬
(title:へそ)
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