椿さんの存在は、わたしの知らないものばかりで構成されている。 たとえば、わたしは椿さんに出会うまでほそもそも「声優」という仕事を意識したことはなかったし、声をあてる以外にどんな仕事をするのかなんて知らなかった。 たとえば、夜中にどんなアニメが放映されているのかを知らなかった。 たとえば、声優だけを特集した雑誌が発売されていることも知らなかった。 本当に何も知らなかったし、知ろうともしなかった。知ったところでわたしの世界は変わることなく続いていたし、知ったところで世界に大きな変化が起こるとも思わなかったのだ。 けれど、あの日を境に全てが変わった。椿さんに出会ってから。 最初は独特な声質のひとだな、何処かで聞いたことがあるな声だなとぼんやりと思った。 次に瞳が綺麗なひとだなと思った。双子の弟である梓さんと一緒にいるとき、お気に入りのゲームの話をしているとき、台本を読み込んでいるとき。わたしよりも九つも年上なのに子供みたいにきらきらした、ビー玉みたいな瞳になるのが印象的だった。 次にすごく優しいひとで自分をわかっているひとだなと思った。椿さんの思い入れのあるキャラクターの声を梓さんが担当するということことになったときのあの穏やかな笑みを、梓さんと喧嘩したとき自分は子供だって痛みを堪えるような表情を、わたしは今でも忘れられない。 次にわたしが思うよりも手のひらが大きな人だなと思って、思った瞬間にまずいと思った。からかってわたしの髪をかき回すとき、目元を緩ませてわたしの髪を撫でるとき、おいでって手を差し伸べてくれるとき。椿さんの手のひらの大きさを意識する機会はこれまでに沢山あったのに、今まで一度もその大きさを改めて考えることなんてなかった。その「考えることはないだろう」ことを考えている自分に気づいてまずいと思ったのだ。そんなどうでもいいような些細なことを気にし始めるなんて、言葉にしなくたってすきだって言ってるのと同じではないか。 椿さんをすきになってから、椿さんを構成するものはわたしの知らないものばかりだということにようやく気づくのだ。 「絵麻ー?」 不意に名前を呼ばれてわたしは沈没していた思考の海から急速に浮上する。慌てて見上げた視線の先には、不思議そうに首を傾げわたしの顔の前でひらひらと手を振る椿さんの姿がある。椿さんの向こうに見える時計は二十三時を少し過ぎた時刻を示している。 「つばき、さん?」 「うん、そうだよー。っていうか俺以外に誰がいるわけ?」 「おかえりなさい、椿さん」 「君、ひとの話きいてる?・・・・・・ただいま」 朝早くから収録で家を空けていた椿さんだったが、どうやら日付が変わる前に帰ってこれたらしい。一緒に出ていった梓さんの姿がないのは、椿さんの方が先に仕事が終わったからなのか、それとも梓さんはもう部屋に行ってしまったのか判断が付きかねた。 ぼうっとしていたわたしをどうやら眠っていたと判断したらしい椿さんは、その大きな手のひらでわたしの頬を撫でてあったかいなーなどと呟いている。眠くなると体温が高くなるのって本当なんだなとも。別に眠っていたわけではないのだが、椿さんがやたらと楽しそうなので訂正するのもはばかられた。ぷにぷにしてる、という言葉には流石に我慢がならず睨んでしまったがそれに動じる筈もない。 ひとしきり頬の感触を楽しんだらしい椿さんはちらりと肩越しに時計を見て、それから囁くような声で寝起きのとこ悪いんだけど、と大して悪いとも思っていない声で言った。 「外、出られる?」 「外、ですか?こんな時間に?」 「うん。確かに遅い時間ではあるけど俺が付いてるし。絵麻に見せたいものがあってさー」 「見せたいもの・・・・・・」 そう、と楽しそうに笑う瞳はわたしが感じたとあの日と同じまま、きらきらと輝いている。遅い時間に外に出てはいけないよ、と雅臣さんに言われてはいたけれどこんなに楽しそうな椿さんを見ていると断ることも出来ない。 何より。 ーーわたしが彼と一緒にいたいのだ。 いくら暦の上ではもう春だといっても夜ともなると骨の髄まで冷やすような冷たい風が吹いている。びゅうっと吹いた冷たいばかりの風から身を隠すように縮こまると、なになに寒いの?とやたら楽しそうな声をあげて椿さんが抱きしめる勢いで繋いだ手はそのままに身を寄せてくる。触れたところが火が出るかのように熱い。 「つ、椿さん!」 「あー、絵麻あったけー」 「もう・・・・・・」 椿さんを好きになってからわたしはいろいろなことを覚えた。声優の仕事はアニメのキャラクターに声を吹き込むだけではないこと。夜中にどんなアニメが放映されているのか。声優が特集されている雑誌をこっそり毎月買っては、椿さんが掲載されている頁をスクラップしてるなんて本人には絶対言えない。 椿さんの存在はわたしの知らないものばかりで構成されている。けれど、知ろうとすることは出来る。近づくことは、出来るのだ。 繋いだ手に力を込めると、思ったより近くにあった顔が嬉しそうなそれに形を変えた。 「えーまー」 「はい」 「呼んでみただけ!」 「・・・・・・なんですか、それぇ」 椿さんが笑うとわたしまで笑顔になってしまうと気づいたのは最近になってからだ。 わたしたちは家族で椿さんはわたしの兄で、わたしは椿さんの妹だ。たとえ血が繋がっていなかったとしてもそれは変えられない。でも、その事実が変えられないようにわたしの気持ちもどうしたって変えようがないのだ。 君が好きだよって、本気なんだ、信じてくれる?って椿さんは聞いた。何度聞かれても、わたしは信じると答えるんだろう。信じていたいと紛れもないわたしが思ったから。 「で、椿さん」 「んー?」 「見せたいものってなんですか?」 「あ、そうだったそうだった」 密着していた体を離して、椿さんは空を見上げた。ほう、と口からこぼれた息が白い煙となって黒に鮮やかな色を付ける。「今日さ、アニメの収録だったんだけど。そこですごい話聞いちゃったんだよねー」 「すごい話?」 「絵麻って夏目漱石知ってる?」 「・・・・・・馬鹿にしてます?] 「あはは、だよな。いや、なんかさ夏目漱石は学校で英語を教えてたみたいなんだけど、そのとき『I love you』を『月が綺麗ですね』って訳したんだって。俺もうすごい感激しちゃってさー!やっぱり小説家ってなんか違うよな。俺らは考えつかないっていうかさ」 「あの、それが何か・・・・・・」 「あー、だから!」 そこで一度言葉を切った椿さんはちらりとわたしを見て、それから夜空に浮かぶ月を見上げた。満月でも半月でも三日月でもない微妙な形をした月。 「月が綺麗だなって思って」 「・・・・・・」 「おーい絵麻ー?!何か言ってくれないと困るんですけど・・・・・・あっ、あれか照れちゃってる?可愛いなー」 早口でまくし立てる椿さんは放っておいて(照れたというのは事実である)わたしもそうっと月を見上げた。取り立てて綺麗だとも思わない月を。 けれど、 「別に今日の月は綺麗じゃないと思います」 「いや、絵麻、そういうことじゃ、」 「でも、」 隣にいるこのひとと、行きたい場所が沢山あって、したいことが沢山ある。伝えたいことだって沢山ある。何度だって、飽きるくらいに。 「月が綺麗じゃなくたって、外がどんなに寒かったって。椿さんがその、隣にいてくれたら、何時だって月は綺麗だし、あったかくなります・・・・・・わたしは」 途中から恥ずかしくなって最後の方は尻すぼみになってしまったけれど、椿さんにはちゃんと届いたらしい。暫くぽかん、とこっちを見ていたけれどやがてうあーとかうわーとかよく分からない声を発しながらずるずるとその場にしゃがみ込んでしまう。繋がれた手は、そのままで。 「なんなの?君、なんなの?俺を喜ばせる天才なの?」 「え、あ、その」 「あーなんでここ外なの?ねー、絵麻、ぎゅーってしてもいい?」 「!?」 「キスは?」 「きっきかないでください!」 わたしはこのひとが好きだ。好きだと思うのではなく好きなのだ。 絵麻。囁くように呼ばれた二文字。 椿さんとずっとずうっと世界が終わってしまうまで。つい数時間前も祈るように思っていたことと全く同じことを、わたしはまた祈りながらそっと瞼を下ろした。 //有海 ∴この乳房にきみの心臓を描いた刺青をください (title:リリギヨ) |