さくさくと鮮やかな音を立てて春歌が目の前を歩いている。踏みしめる落ち葉が奏でる音を楽しんでいるのだろうか、その足取りは踊るようでまるでワルツを踊っているようでもある。先日レンが贈った桃色のマフラーが風に吹かれてふわりと舞う。
「随分と楽しそうだね」
レンが声を掛けると、春歌はくるりと振り向いてはい、とっても!と笑い声をあげた。
今日は久しぶりに春歌とレンの休みが重なった日だった。今やトップアイドルという言葉を欲しい侭にしているレンはありとあらゆる番組やらCMに引っ張りだこで、まさしく秒刻みという言葉がぴったりくるようなスケジュールを日々こなしている。春歌にしても同じで、売れっ子作曲家の名前を欲しい侭にしているので次から次へと仕事の以来が舞い込みこれまた忙しない日々を送っている。すれ違いの日々を生まないように、と毎日言葉を掛けあい同じベッドで眠ろうという約束を決めてはいたけれど、お互いの仕事が忙しくそれすらままならない。そんな中で漸く二人の休みが重なったのだ。嬉しくないはずがない。本当は何処か遠くに出かけて二人きりで羽を伸ばしたかったのだが、生憎次の日も予定がみっちり詰まっている二人にとってはそれも難しい。それにレンは明日から一ヶ月ほどロケでアメリカへ飛ばなければならない。今日を逃してしまえばあと一ヶ月は春歌に触れることも何も出来ないのだ。その事実はほんの少しだけレンの心の一番やわっこい部分を苦しくさせた。この世界にいる、ということを後悔したことは一度だってないし恐らくこれからも一生ないだろう。一生無いだろうけれど、でも時々少しだけ苦しくなる時がある。それは決まって春歌のことを考える時で、その度にレンはなんとも言えない甘い気持ちに包まれるのだ。
ああ、オレはこんなにきみのことがすきなんだね。
「明日からアメリカか…」
ぽつりと零した言葉に、いつの間にか隣に並んでいた春歌がそうですねえと柔らかい声をあげた。
「アメリカってわたし行ったこと無いんですよね。どんなものが有名なんでしょうか…うーんやっぱり自由の女神とか?」
「…なんで腕上げてるの?」
「え、自由の女神の真似ですけど…似てませんか?」
「似てない…っていうか自由の女神が上げてるのは右手で左手じゃないよ」
「いいんですそんなことは!」
「いや、良くないと思うけど…」
レンさんは変な所で律儀です、といつぞやレンが言ったことがあるような台詞をひとつ吐いて春歌はそっぽを向いた。ぷぅと膨らませた頬が愛らしくて思わず頬が緩む。
「アメリカに行ったら春歌と同じ空を見れなくなるんだね」
「へ?」
「ほら、向こうは時差があるだろう?同じ空を共有することは出来なくなるんだなって思ってさ」
同じベッドで眠らなくても。おはようの挨拶が交わせなくても。同じ場所にいて同じ空を見ることが出来た。同じ空の下、今何をしているのだろうと、健やかに幸福に日々を過ごしているのだろうかと想像するのが楽しかった。同じ空を見るというのはそれだけ二人のとって重要な意味を持っていた。
けれど、レンはアメリカに行ってしまう。たとえそれが一ヶ月という期間であっても、同じ空を見ることが出来ないのには変わりない。朝と夜が反対になる。レンが朝を迎える頃春歌は夜を迎え、レンが夜を迎える頃春歌は朝を迎える。切ないな、と思った。かなしいなとは思わなかったけれど、なんだかとても苦しいな、と思った。
びゅうと、冷たい風が吹く。刃のようだった。春歌は何も言わない。
レンは春歌に出逢って変わった。他の多くのひとに言われるよりも遙かに変わったのだと自分でも納得するほどに。それは勿論良い意味で、でのことでそんな「変わってしまった自分」をとても好ましく思っている。春歌に出逢う前は知らなかった。こんなに世界が鮮やかだなんて。誰かが喜ぶ姿にこんなに心が踊るなんて。誰かが笑ってくれるだけで世界がまるで微笑んだかのようにやさしくまあるくなるなんて。春歌に出逢う前は全然知らなかった。新しい世界を知ることが出来た自分は以前よりも優しくなれたとすら、思う。
それでも、根本的な部分はどうしたって変われないのだ。
レンは臆病だ。こわい。大切な人間が離れて行ってしまうことが。大切だと思っている人間に見向きもされないことが。願いは、祈りだ。レンは常に祈っている。誰も離れて行きませんように。その視界に自分がずっとずうっと映っていますように。どうしたって祈る。
レンが相手の顔を覗き込むようにして話すのは確かめたいからだ。自分が今本当に相手の目の前にいて、相手の瞳にちゃんと映っているのか。相手の瞳の奥に自分が居ることを見つける度に安堵の溜息を吐いていることに、もしかしたらレンはもう気づいてすらいないのかもしれない。
何も言わないで落ち葉を踏みしめていた春歌は、喉の奥から搾り出すような声を出した。桃色のマフラーを握り締める傍らで空いた右手でレンの大きな掌を握り締める。
「わたしたちって、手の大きさもこんなに違うし一歩の大きさだってこんなに違うんですよね」
「え、あ、うん。そうだね。春歌の手は小さいな」
「ふふふ。レンさんの手が大きいんだと思いますよ。あのね、一緒にいるって多分そういうことなんだと思います」
「…どういうことだい?」
「わたしの手が小さくてレンさんの手が大きいように。わたしの一歩の幅が狭くてレンさんの一歩の幅が広いように。一緒にいるって、違いを知るってことなんだと思います。同じ空を見て同じ時間を過ごすことは、やっぱりどうやったって幸福と呼べる存在で、嬉しいことなんだってわたしだってわかります。わかりますけど、でもずっと同じじゃつまらないでしょう?折角二人いるんです。違うものを見ることが出来るなら、それってどんなに素晴らしいことなんでしょう」
静かな静かな声だった。足元から聞こえる音だけが世界にあった。
「わたしの見ることができない世界をあなたが見て、あなたが見ることができない世界をわたしが見るの。二人で二つの世界を見るんです。二人で同じ世界を見るよりもきっときっと何十倍も素敵だと思いませんか」
昔、と春歌は思う。中学生の頃、クラスメイトの女子の一人が最近出来たという彼氏について矢鱈声高に喋り散らしていた時期があった。「わたしの彼はね、わたしと同じ事を考えてくれるの。同じ物を共有して同じ物を見てくれるの。それってすごい相性良いってことだよね」彼女の周囲にいた女子の殆どが黄色い悲鳴を上げて「なにそれ羨ましい!」「素敵だね!」「ね!」と口々に言い合っていた。勿論春歌は輪の中にすら入ることはなかったけれど、教室窓際最後列、一番日当たりのいい席でその話を聞くとはなしに聞いていた。どうしても素敵だと思えなかった。いや、「それ」自体が素敵なことだとも幸福なことだとも分かっている。それでも。
どうして、別の世界を見ることが不幸になるんだろう。同じ世界を見ていることだけが幸福になるんだろう。わたしは別々の世界を見ることが出来る方がいい。同じ世界なんて見れなくていい。花を見てわたしは綺麗だと思っても、「俺は醜いと思うよ」と言ってしまうようなひとがいい。月を見てわたしが温かいと思っていても、「寒々しいよな」と言ってしまうようなひとがいいのだ。だって。ねえ、そっちの方が何倍も素敵でしょう。
「朝と夜が反対になったら、レンさんとわたしで二つの空を見ることができますね」
春歌はその言葉をとてもとても大切な言葉のように発音した。小さな声で、しかしはっきりと。それってすごくしあわせなことだっておもいます。
「…うん」
「でしょう?」
青いマフラーに口元を埋めてただ頷くことしか出来ないレンに対して春歌は勝ち誇ったように笑う。その表情を見ることが悔しくて、けれど何を言うことも出来なくてただ睨むことしかできない。そんなレンの表情を見て春歌はまた嬉しそうに、本当にうれしそうに笑うのだ。
「ねえ、レンさん。これからいっぱいいっぱい、違う世界を見ましょう。いっぱいいっぱい違う世界を見て、そうしたら。あなたが見た世界をわたしに教えて。あなたが見た世界で感じたこと考えたこと。ぜんぶぜんぶ、わたしに教えてください。あなたの世界はどんな風になっているのか、知りたいから」
「うん。そうしたら春歌、きみが見た世界もオレに教えて。きみが感じたこと、考えたことぜんぶぜんぶ、伝えて欲しい。他ならないきみの言葉で。きみの世界をオレだって知りたいから」
「はい。二人で二つの世界を見ましょうね」
びゅうと風が吹いた。冷たい、刃のような風だった。でも、もう寒くはないとレンは思った。隣り合う体温がそれを伝えている。



//有海
∴子守唄には鮮やかすぎた
(title:藍日)